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“Klara and the Sun” 再び読了!

  • 2025-01-25 (Sat) 15:51
  • 総合

 オンライン英語教室で毎月2回のペースで読んできていたカズオ・イシグロ氏の小説 “Klara and the Sun”(邦題『クララとお日さま』)を昨晩ようやく読み終えた。英語教室で読んだのはこれが2回目。昔のブログをスクロールして確認すると、2022年1月24日に読了の項をアップしている。偶然だが、同じ日付けの教室で3年ぶりに読了しているとは!
 今この項を打ちながら、3年前のブログをのぞくと、次のように書いている。
 ――物語の主人公は「ロボ友」とでも訳したいArtificial Friend (AF)の少女クララ。AFのエネルギー源は太陽光。実に賢く、心優しい彼女が「仕える」のは病弱な少女ジョージー。物語の舞台は北米と思われる地で、AFや最先端の機器が社会を支えるようになっている近未来。家庭でも「ロボ友」の少年少女が孤独な子どもたちの遊び相手になっている。貧富の格差は歴然としており、富裕な家庭の子どもたちは遺伝子操作(?)の施術を受け、ますます優位な立場を享受している。国家の枠組みは残っているようだが、人々は価値観を共有する者たちだけで独自のコミュニティを形成している。
 ジョージーは遺伝子操作の施術の後遺症か身体が日増しに弱っている。娘を溺愛する母親はジョージーが他界した時には、彼女の知性、性格、性癖を完コピしたロボ友、つまりクララをそのまま第二のジョージーとして「育成」することも考えているようだ・・・。
 作家はこの作品で人間の heart とは何ぞや、我々がheartと呼んでいるものは人間にしか存在しない特別なものなのだろうかと問いかけている。母親と離婚はしたが、娘への愛は母親に負けない父親は第二のジョージーをこしらえることには懐疑的で、クララに次のように問う。“Do you believe in the human heart? I don’t mean simply the organ, obviously. I’m speaking in the poetic sense. The human heart. Do you think there is such a thing? Something that makes each of us special and individual?” ――
 昨晩の教室で私と2人の受講生は上記の問いかけについて話し合った。人間は本当に特別の存在なのであろうか。そのように自分たちを特別視することは人間の浅はかな思い上がりではないのか。ロシアのウクライナ侵攻後の民間人殺戮やイスラエル軍によるガザ地区住民の殺害などのニュースに接すると、人間はとても神様や地球外生命体に対し、胸を張れる存在ではないとため息をつきたくなる。トランプ米政権の再登場や日本ではあまり報じられることがないが、アフリカ各地での人権や民主に逆行する動きなどをネットで読むと、暗澹たる思いに駆られる。
 その一方でイシグロ氏の作品に描かれているように、AIの進歩はますます人間社会に大きな影響を及ぼしつつある。私もさまざまな恩恵を受けている。肌身離さず身につけているスマホにしても3年前は知らなかったアプリを享受している。特に英中韓の語学学習にとってはスマホが登場する前には想像もつかなかった益に浴している。これから3年後には更に信じ難い進化を遂げているかもしれない。もちろん、諸手を挙げて歓喜するわけにはいかない弊害も生じているやもしれないが。
 私の読後感を「続き」に付記しておきたい。備忘録ゆえに・・・。

“Klara and The Sun” 読後感  
 私はこの小説を少なくとも2回は丁寧に読んだかと思う。部分的に走り読みしたところなどを含めると、結構な頻度でKazuo Ishiguro氏の手になるこの物語に接したはずだ。AF (Artificial Friend)と呼ばれる人型ロボットが登場する。人工知能(AI)を活用した最新型の機器であり、人智を超えた存在となりつつある。作中ではすでに少なくない仕事がAFに奪われている現実が明らかにされている。すぐそこに迫りつつある近未来小説と言えるだろう。
 物語の場所は明示されていないが、おそらく米国のどこかと思われる。ヒロインは二人(二体)。14歳で病弱のジョージー。彼女の遊び相手としてAFショップから買い求められたAFのクララ。ジョージーが暮らす社会では兄弟姉妹のいない一人っ子家庭が多く、AFが格好の遊び相手、時には勉強も見てくれる存在として重宝されているようだ。ジョージーの母親にはしかし、単なる遊び相手としてクララを選んだのではなく、隠された意図があった。この時代の社会では裕福な家庭の子供たちは遺伝子操作によりその体質・資質を人為的に向上させることが許されていて、ジョージーもそうした施術を受けたのだが、術後に体調を壊し、伏せることが多くなっていた。娘にもしものことがあれば、頭脳明晰で娘の一挙手一投足をそっくり真似できるクララにクローン型AFとして第二のジョージーになってもらいたいという計画を秘めていたのだ。
 そうした母親の思惑とは全く異なるかたちで、ジョージーの回復を願うクララが取った行動がAIの申し子のような存在からは意外としか思えないものだった。作品名となっているお日様(Sun)にただ一心に特別のご加護をお祈りする。もちろん、お願いするだけではなく、自分もお日様が喜ぶことをします、それはAFショップの窓から見ていた煤煙を噴き出す道路工事現場にあるマシンを破壊しますという申し出だ。たった一台のそうしたマシンを破壊したところで大気汚染はなくならないだろうと思うが、読んでいて、「そうか、これは大人のための童話なのだ」という思いに私は至った。クララたちのようなAFの唯一のエネルギー源は太陽光。その太陽光が最新の医学を駆使しても伏せっているジョージーの治療に役立つ、いや役立つどころか、最終的には信じ難い結果をもたらす。この辺りは散歩をしている時に帽子を脱いで太陽光の恵みを頭に浴びている私は納得させられもした。
 この物語が提示していたのは「人間は特別な存在か」「人間の心には他の生命体にはないユニークなものがあるのか」という問いかけ。我々の心を科学の力がすべて解明することなど不可能だと見なすのは人間の横暴なのではないのか。これに対するクララの「答え」は最終章で明らかにされる。物悲しい最終章だ。ジョージーが独り立ちして巣立ち、「用済み」になったクララは製品ゴミ捨て場のような殺風景なところに放棄されている。思考機能は残っているが、もう自由に歩き回ることはできない。
 彼女は次のように考察する――。“There was something very special, but it wasn’t inside Josie. It was inside those who loved her.” 人を愛する気持ち、愛される気持ち、愛しく思う気持ち、思われる気持ち。そういうものは科学の力でもコピーペーストできないのだ。月並みな表現になるが、人は誰であれ、かけがえのない唯一無二の生命体なのだろうか。

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