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一度切りの人生は所詮虚しい?

  • 2023-08-24 (Thu) 20:11
  • 総合

 チェコ出身の作家ミラン・クンデラ氏の代表作 “The Unbearable Lightness of Being”(邦訳『存在の耐えられない軽さ』)を読み終えた。読売新聞のコラムでこの作家と作品のことを知ったのだが、チェコ語から英語に翻訳された小説は予想とはだいぶ異なっていた。
 前回の項で書いたが、1968年の旧ソ連軍による「プラハの春」弾圧を背景にした作品だけに、今起きているロシアのウクライナ侵攻のことを思わずにはおれなかった。手垢の付いた表現だが、「歴史は繰り返す」か。
 主要登場人物の一人は共産党独裁体制を容認できず、天職の外科医の仕事から追われる不運に遭いながらも、生来の嗜好というか彼にとっての「ライフワーク」と言うべきか、日々の生活で出会う幾多の好みの女性と性的関係を求める妻帯者の男(Tomas)。といえども、そうした womanizer (プレーボーイ)の生き様だけに焦点を当てたものではなく、タイトルが示唆しているように、生きることは何ぞやという重いテーマを追っている。
 冒頭部分で次のように記されている。We can never know what to want, because, living only one life we can neither compare it with our previous lives nor perfect it in our lives to come. (我々は人生で何が欠けているのか決して知ることはできない。一度切りしか生きられない我々は我々の前世と比較することもできないし、次にやって来る人生でそれを完璧なものにすることもできない)。(中略)Einmal ist keinmal, says Tomas to himself. What happens but once, says the German adage, might as well not have happened at all. If we have only one life to live, we might as well not have lived at all. (一度は数のうちに入らないのだとトーマスは自分に言い聞かせた。このドイツ語の格言によると、一度しか起こらないものは全く起こったことにはならないのだと。我々が一度しか人生を生きられないとしたなら、それは生きたことにはならないのだ、はなから)
 私が興味深く読んだのはヨーロッパの左派的考えの人たちがベトナムがカンボジアに侵攻したことに抗議し、カンボジアの困窮する人々の医療支援をしようと1980年代にタイからカンボジアとの国境に向かおうとした時のエピソードだ。
 この医療支援はヨーロッパのグループが提唱したものだが、バンコクに到着してみると、主導権はアメリカ人のグループに握られていた。記者会見も英語で行われ、ヨーロッパの非英語圏の参加者たちは猛反発する。… and here the Americans, supremely unabashed as usual, had not only taken over, but had taken over in English without a thought that a Dane or a Frenchman might not understand them. (アメリカ人たちはお決まりのようにここでも臆することなく主宰の立場に立ち、しかも英語で会見を仕切ったのだ。デンマーク人やフランス人が英語を理解しないかもしれないなどといったことには一顧だにすることなく)
 私がアフリカで新聞社の特派員として勤務していた1980年代末を思い出した。各国の記者が集まる会見があれば、当然のことながら英語主導となり、米英の記者が幅を利かせていた。中国は新華社通信の記者をごくたまに見かけることがあったが、目立つことはなかった。今は中国人の記者たちが無視できない存在感を示しているのだろうか。中国人が口にする英語は日本人よりもずっと達者なようだし・・・。

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