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英語でさるく 那須省一のブログ
森林浴は forest bathing
- 2022-06-10 (Fri)
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定期的に開催されているオンラインでの英語チャットの集まりに参加した。3か月に1回程度の集まりで私は「枯れ木も山の賑わい」(Anything is better than nothing)の心積もりで参加している。
この夜のテーマの一つは「健康維持」というか「抵抗力強化」。事前に配布されていた資料には当然のことながら、十分な睡眠を取ること、バランスの取れた低カロリーの食事、緩やかな運動を継続的に続けることなどが綴られていた。推奨されていた健康法の一つに「森林浴」があった。森林浴とは英語で forest bathing と表現するのだとか。sunbathingなら日光浴。これまで森林浴の英訳は考えたこともなかったが、なるほどと合点がいった。森林浴という語は1982年に農林水産省が考案したことも知った。入院患者に病室で森林などの緑豊かな情景を見せるだけでも治療療養に効果があることも書かれていた。
森林浴の効能を読みながら思った。実は最近よくアクセスするYouTubeのチャンネルがある。prank(悪ふざけ)と呼ばれるいたずら番組で、全身を葉っぱで覆った人が立ち木のように待ち伏せしていて、通りかかった人たちを驚かす。驚かすのは案山子に仮装した人だったり、金属のオブジェのような像(人)だったりとさまざま。インドネシアだかマレーシアと思われるところで撮影されている番組は周囲が緑鮮やかな公園、緑地が多い。私が悪ふざけより見とれたのは実にこの緑だった。映像がきれいだから鮮やかな緑だ。私が住んでいるこの住宅地で目にすることは皆無の緑だ。
私は宮崎の緑豊かな山村の出身。緑と川に育まれて育った。あまりにも当たり前のものだと有り難みもあまり感じないようだ。久しく離れて初めてその有り難みが分かる。実家の山里に最後に足を運んだのがいつか記憶も定かでない。コロナ禍で帰郷ができなくなったことが大きいが、長姉が高齢のため施設に入ったためその家に寝泊まりできなくなったこともある。長姉の家は四方を山に囲まれ、日がな一日、鳥のさえずりが聞こえていた。ウグイスやホトトギスの鳴き声には読書の手をとめ聞き惚れた。窓から見やると、ひときわ高い樹木のてっぺんで鳥が鳴いている。ウグイスだったかホトトギスだったか忘れてしまった。
◇
この項を書いている今(金曜日朝)テレビではCNNがトランプ前米大統領の「犯罪」を審理する米議会下院特別委員会の公聴会が生中継され始めた。昨年1月6日の米議会襲撃事件の生々しい映像が議会内で上映されている。初公開の映像もあるようで、米社会を震撼させた狂乱の一日が改めて浮き彫りにされている。バイデン大統領に敗れた大統領選の結果を文字通り暴力で覆し、大統領の座に返り咲こうと画策したトランプ氏の罪は疑いようもない。
証言に立った女性警察官は当日遭遇した光景はまるで映画でも観ているかのような戦闘の光景であり、トランプ氏を盲目的に支持する暴徒の群衆に襲われた同僚たちは流血して倒れ、言葉では言い表せない阿鼻叫喚だったと振り返っていた。
トランプ氏がやがて相応しい場所、すなわち刑務所に送られることを切に願う。ウクライナ侵攻の大罪を犯しているロシアのプーチン大統領も早晩そうなることを心から願う。
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方向音痴は「路痴」
- 2022-06-07 (Tue)
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先週の公民館中国語教室で「方向音痴」が話題になった。典型的方向音痴である私にはとても興味のあるテーマだ。これまでにもブログで何度か書いたような記憶がある。コンプレックスとまでは言わないが、全然改善しないのはやはり気が引ける。建物の中の一室に入ったりすると、玄関がどこだったかつまりどこから入ってきたのか分からない。要するに東西南北の感覚を持ち合わせていないのだ。
とはいえ、神様に芳香音痴か方向音痴のどちらかを選べと迫られたら、迷うことなく方向音痴を選択するだろう。(芳香音痴という語があるかは知らないが)。方向音痴は中国語では「路痴」もしくは「路盲」ということを教えてもらった。どちらの語彙も漢字を見れば、なんとなく意味合いは類推できる。私は「路痴」を取りたい。韓国語ではなんというのだろうと調べると「길치」(キルチ)という語が出てきた。これも韓国語をかじっていれば何となく納得がいく。「길」は「道」の意。音楽は「음악」だから「音痴」は「음치」(ウムチ)だ。
過去のブログで方向音痴であることを嘆いた時、どのようなことを書いていたのかスクロールしてみると、次のような文章があった。2020年11月の項だ。
――ところで、私はこの料亭に着く前にだいぶ道に迷ってしまった。私は以前にも書いたかと思うが、並外れた方向音痴だ。恥ずかしながら地図が読めない。よくこれでアフリカやヨーロッパで一人で初めての土地を訪ね、取材活動ができたものだと今にして思う。ネットであらかじめ場所を検索して最寄り駅からの大体の方向を頭に入れる(入れたつもりになる)。実際に歩き始めると大体正反対の方向に歩んでいることが多い。実人生でも方向音痴の生き方をしているのではないかと痛切に憂えることがある。嗚呼!
ところで英語では方向音痴を的確に表現する表現はないようだ。辞書を引いても、I have no sense of direction. といった表現が出てくる。中国語ではどういうのだろうとネットで検索すると、路痴という語が出てきた。これなら発音はともかく、意味は何となく正しく推察できるような気がしないでもない。――
なんということだ。「路痴」と書いているではないか。すっかり忘れていた。痴呆症の初期症状を呈しつつあるのだろうか。痴呆症は中国語では「痴呆症」。簡体字での表記は覚えている。ピンイン表記も大丈夫。しかし、声調は自信がない。chīdāizhèng。平らに平らに発声して急に下がる・・。これをずっと記憶するのは(私には)容易ではない。
ところで、最近では「人間音痴」という言葉もあるらしい。社会生活で他人との距離の取り方が分からないとか普通の接し方ができない人を揶揄った表現のようだ。こうした烙印を押されては辛いだろう。これを中国語に訳そうと「人间」と書き、その後に「音痴」ははて?と思案したが、後が続かなかった。「音痴」は「五音不全」と言うらしいので、日本語の人間音痴をそっくりスマートに中国語に翻訳するのは無理なようだ。「人间」という表現そのものが中国語では「現世」「人間社会」を意味し、「人间地狱」と書けば「この世の地獄、生き地獄」を指す表現とか。
ウクライナ東部でロシア軍の無慈悲で残忍なロケット攻撃にさらされている人々はまさに今、「人间地狱」(rénjiān dìyù)にあえいでいるのだろう。言葉もない。
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使徒パウロの警告
- 2022-06-03 (Fri)
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毎朝、“Daily Guideposts 2022” という名のキリスト教の祈祷書(devotional)を読むのが日課になって久しい。時々、知らない単語が出てくることもあり、英語の勉強にもなっている。最近になって思うところあり、就寝時にベッドの上で聖書を再び読んでもいる。スマホのYouTubeに邪魔され、全然読めないこともしばしばだが。聖書は一度通読した(と思っている)こともあり、行き当たりばったりの向き合い方だ。
今読んでいるのは新約聖書の中の「コリントの信徒への手紙」(Corinthians)と題された書。使徒パウロがコリントの教会へ送った書簡であり、広辞苑には「原始キリスト教団の生活状態を知る好資料」とある。私は聖書でも初めて読んだ時に気に入った文章、気になった文章はマーカーを走らせており、再読していて「ああ、この文章が印象に残ったんだな!」と思い出したりしている。
今ここでマーカーのある文章を適当に列記してみよう。
For the wisdom of this world is foolishness to God. … we are told that the Lord knows full well how the human mind reasons, and how foolish and futile it is.(人類はいかに文明が進んでも神様から見たら、取るに足らない愚かな存在ということか)
What I meant was that you are not to keep company with anyone who claims to be a brother Christian but indulges in sexual sins, or is greedy, or is a swindler, or worships idols, or is a drunkard, or abusive. Don’t even eat lunch with such a person. It isn’t our job to judge outsiders. … God alone is the Judge of those on the outside. (朱に交われば赤くなるので交遊関係には留意されたし。されども評価を下すのは神様のみということか)
… if you do not marry, it is good. But usually it is best to be married, each man having his own wife, and each woman having her own husband, because otherwise you might fall back into sin.(結婚は絶対ではない。しかし、未婚だと誘惑多しということか)
I wish everyone could get along without marrying, just as I do. But we are not all the same.(なんと未婚の勧め? 独身の私には心強いが、実際には妻帯がベストかと思う)
The important thing to remember is that our remaining time is very short.
Those in frequent contact wth the exciting things the world offers should make good use of their opportunities without stopping to enjoy them; for the world in its present form will soon be gone. (終わりのときが近いとの警告。誰が2000年前の訓戒と一蹴できようか)
Corinthians を読みながら、私はたいてい、途中で疲れを覚え、眠りに落ちている。上記の説諭の中であえてゴチック体にしている箇所を新聞記者として張り切っていた当時に読んだのかはっきりと覚えていない。この聖書は海外の赴任地にも持って行ったが、まともには読んでいなかったような。たまたま手にしている小説の中で聖書の引用があれば、その箇所を繰っていた程度の読み方ではなかったか。
日本各地を不気味な地震が毎月毎年のように襲い、猛暑や豪雨などの異常気象が日常茶飯事に思われ、世界中に未曾有の感染症が蔓延し、果てはロシア軍のウクライナ侵攻に驚愕する昨今の日々。聖書の警告がまだまだ先の話であると心から願いたい、祈りたいが・・・。
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手纸と手机
- 2022-06-01 (Wed)
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先週日曜日に府中の東京競馬場で行われた日本ダービー。私が勝利すると踏んでいた馬は残念ながら敗退した。掲示板に乗るのがやっとだった。やはり競馬で勝利する馬、さらには2着、3着に来る馬をズバリ当てるのは至難の業だ。私は潔く、いやそう潔くでもないが、何年も前に馬券勝負から足を洗って正解だった。これからも色気は出さず、支出ゼロ、興趣たっぷりの予想だけに励もう!
◇
先週の中国語教室。我々受講生がいつものようにテキストを一斉に読み上げていると、老師が発音に駄目出しを入れた。私は??と思いながら、読み続けた。帰宅後もなぜ駄目なんだろうと思った。駄目出しが出たのは「手纸」という語。日本語の「手紙」とは似て非なる語で、中国語ではトイレットペーパーのこと。私はこの語を正確に発音しているつもりだった。しかし、自宅で改めて考えてみると、どうやら勘違いしていたことに気づいた。
中国語では手紙は「信」。私はもちろん、それは承知していた。だからトイレットペーパーを意味する「手纸」を正しく発音しているつもりだった。ところが現実にはそうではなかった。「手纸」の発音は我々には、いや少なくとも私には「手机」と酷似している。「手机」は「携帯電話:スマホ」を意味する。「手机」はピンイン表記ではshǒujī であり、「手纸」は (shǒuzhǐ) 。声調はむろん、jiとzhiの微妙かつ明確な発音の差異。日本人の耳には聞き分けが難しく、私は正直今も区別に四苦八苦している。
私はどうやら「手纸」と発声しているつもりで、現実には「手机」と大差ないあやふやな音を出していたようだ。例えて言えば、英語ネイティブの人たちが日本語の「病院」と「美容院」の発音をよく間違えるようなものだろう。
◇
CNN記事を読んでいたら、パリのルーブル美術館の名画「モナリザ」にケーキを投げつけた来館者が逮捕されたニュースが出ていた。どうも精神を病んだ男性の所業のようで、モナリザは銃弾も貫通しない保護ガラスで守られており、実害はなかったとのこと。男はかつらをかぶり、さらに足が悪いと偽って車椅子に乗り、最前列で鑑賞できるように画策していたようだ。
記事中に次のような記述があった。… throwing a piece of cake at the artwork …これまで a piece of cake は何回か辞書で調べたことのある慣用句だ。確か「朝飯前」といった意味合いの表現だったような。辞書で改めてチェックすると、「朝飯前」「お茶の子さいさい」という意味が出ている。この記事では慣用句ではなく、「一個のケーキ」という本来の意味で使われている。それでもちょっと手がとまった。
私はルーブル美術館には一度だけ足を運んだことがある。その時は近くを歩きながら、露店の店主や通行人に「ルーブル美術館はどこにありますか?」と何度か尋ねたが、一向に要領のいい返事はもらえなかった。フランス語、英語で「ルーブル美術館」と発声したつもりだったが、彼らにはなぜか通じなかった。私はフランス語が嫌い(苦手)になり、それ以来、まともに勉強する気は失せてしまった。
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競馬は予想だけ
- 2022-05-27 (Fri)
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このブログでギャンブルのことはあまり書いていないかと思う。お里が知れることを恐れてのことだ。だが、私はギャンブルには大いなる興味を抱いている。高校卒業後の麻雀を皮切りにパチンコ、競馬、カジノ遊びに現(うつつ)を抜かしてきた。そして辿り着いた結論は・・。見て楽しむ、傍観して楽しむのが一番であり、身銭を切るのは愚の骨頂ということだ。最近出合った英単語を使って表現すれば、It is witless to spend money on gamblingとでもなるのだろうか。もっともお金を賭けなければそれはギャンブルとは言えないかも。
テレビをつけると日本中央競馬会(JRA)が若者に狙いをつけたCMを流しているが、だまされてはいけない。地獄への第一歩となるのだ・・・と私なら言いたいところだ。とはいえ、世の中には何らかの社会経済活動が必要ではある。あまり目くじらを立ててあれこれ言うのはよした方がいいだろう。
お金をかけないで楽しむ分には競馬は刺激的な趣味だ。競馬新聞やスポーツ新聞などを購入する必要はない。ネットを漁れば基礎的な情報は入手できる。過去のレースさえもJRAのサイトから見ることができる。昔は考えられなかったサービスだ。その上でレースを頭の中で組み立て、勝ち馬を予想する。ぼけ知らず。脳内はいやが上にも活性化される。勝ち馬を予想して(馬券を買ったつもりで)テレビでレースを観戦する。結果は?
このようなことを話すと、何人かの人に質問されたことがある。「でも、予想した馬券が実際に当たった場合など、特に大万馬券でも当たっていた時などには悔しいと思うのではないですか?」。もっともな指摘である。私は次のように答えている。
「確かに。でも、私が実際に馬券を購入していたら、神様がきっと外れるように差配していたことでしょう。それでも予想した馬券が当たれば私の推理が正しかったことであり、それだけで満足です。それにまあ、まず当たりませんからね。競馬はそう甘くありません」
多少の負け惜しみがあるかもしれない。でも、パチンコを含め一切のギャンブルからきれいに足を洗って良かったと思っている。「足を洗う」。英語では “wash one’s hands” と言うようだ。悪癖や悪事から決別するときに日本語は足を洗い、英語では手を洗う。中韓では?と辞書やネットで調べてみると、中国語では「洗手不干」と出てきた。英語と同じように手を洗うらしい。韓国語では手も足も両方使った表現があるようだ。手であれば「손을 씻다」であり、足であれば「발을 빼다」。
さて、今週の日曜日は競馬の祭典とも称される日本ダービーが府中の東京競馬場で行われる。7500頭を超す3歳馬の中から選ばれたエリートの18頭が一生一度の栄冠を目指す。騎手、調教師はもちろん、競馬関係者には胸躍る一日となるのだろう。馬券を買う競馬ファンにとっても予想の腕の見せ所か。私も密かに心に秘めた馬がいる。その馬の馬名をここに記してレース後に胸を張りたいが、外れる可能性も大。やめておこう。
公民館の中国語教室でギャンブルが話題に上った。ギャンブルは中国語では日本語同様に「賭博」と書き、発音はdǔbó となり、敢えてカタカナ書きすると「ドゥボー」。辞書にはギャンブル狂の訳語として「赌鬼」(dǔguǐ) という語が載っていた。発音はともかく意味合いはすぐ分かる。私もかつては赌鬼の一人だったのだろう。慚愧に堪えない。
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“A Good Man Is Hard to Find”
- 2022-05-24 (Tue)
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戸畑(北九州市)にある大学で非常勤講師をしていた頃は講義の前に駅の近くにある食堂に行くのがとても楽しみだった。私の記憶が正しければお昼の日替わり定食が630円。とてもリーズナブルな価格。味噌汁がぬるくなく、副菜の小鉢も嬉しく、メインのおかずもいつも旨かった。その大学での仕事もなくなり、お店をのぞく機会も失われた。今教えている専門学校では毎度、中華レストランをのぞいている。そこも旨いが、和食の日替わり定食が無性に恋しい。そこで今日途中下車してくだんの食堂に。
この日の日替わり定食は豚肉とキャベツの炒め物。私は時々こうした料理をしているが、いかんせん、この店のような味は出せない。漬物もしかり。味噌汁もしかり。ご飯が多過ぎたのは小食に慣れてきているからだろう。これからは時々途中下車しようと心に決めた。
◇
英語で書かれた短編小説を楽しむ毎月2回のスカイプ英語教室。先の日曜日の教室で風変わりな短篇を読み終えた。アメリカの女性作家、Flannery O’Connorが書いた “A Good Man Is Hard to Find” 。実はこの作品を読むつもりはなかったのだが、読売新聞が日曜日に掲載している書評欄でこの作品のことが簡単に紹介されていた。曰く「オコナーの『善人はなかなかいない』だけは作品中で起こる出来事と、登場人物たちのあいだで交わされるやりとりがあまりにもストレートに恐ろしいので、少々ご注意ください」と述べられていた。
それでああ、確かにそうだった。私も初めてこの小説を読んだ時に奇妙な読後感を抱いたことを思い出した。この作品は世界の秀でた短篇を集めた “50 Great Short Stories” という短編集の中に含まれていた。書評欄でそのことを思い出し、英語教室で受講生に読んでもらおうと考えた。書評欄で紹介されていた通り、心して読む必要がある作品だ。
登場するのは自らをThe Misfit と呼ぶ脱走犯。行きずりの人々を冷酷に射殺することなど意にも介さない極悪人だ。社会に馴染めないのでThe Misfit と自称しているのかと思いながら読み進めていたが、作中で自分の犯行と処罰が釣り合わない、割に合わない罰を科せられているからThe Misfit と呼んでいるのだということが明らかにされる。
彼は行きずりの一家6人を情け容赦なく射殺するような極悪人なのだが、手を下す直前に一家の老婆と交わすやり取りが興味深い。老婆は何とかThe Misfit のご機嫌を取ろうと、やれ高貴の血が流れているに違いないだの、根は善人に違いないだのとおべんちゃらを言う。聖書に記されているキリストの復活(resurrection)も話題に上がる。老婆はキリストを崇める心を説くが、The Misfit は自分がもしキリストの復活を自分自身の目で目撃していたなら、こういう人生を歩んでなどいないだろうと一蹴する。
この作品が発表されたのは1955年。作家自身は難しい病気に冒されていたようで1964年に39歳の若さで没している。ウクライナ情勢のこともあり、上記のキリストの復活のくだりが現実味を帯びて迫ってくるようだ。
余談を一つ。次のような一節があった。… said the children’s mother hoarsely. 私はこの hoarseが苦手。「 (声が)しわがれた、かすれた」という意味で発音はお馬さんのhorse と同じ。だが、私はどうしてもこの語をホースではなく、ホアースと発声したくなってしまう。
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80歳に壁あり?!
- 2022-05-19 (Thu)
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CNNの記事をネットで読んでいたら、ロシア軍のウクライナ侵攻の余波の話題が大きく紹介されていた。Thousands of Britain’s ‘fish and chip’ shops could close within a year. Here’s why という見出し。え、あのイギリス名物のフィッシュ&チップスのお店がロンドンその他の都市から消えてしまうの? そんなアホな、と思い、本文をクリックして読む。
ロシア軍のウクライナ侵攻でイギリス名物料理の原材料であるタラ(cod)と調理用油が不足しつつあるらしい。タラの4割はロシアの海域で獲れており、調理用油の半分はウクライナから輸入されている。このまま推移すれば、英国内にある約1万店舗のフィッシュ&チップスのお店の3分の1が今後9か月以内に閉店に追い込まれる可能性があるとか。
私が興味深く読んだのは次の一節。Fish and chips is one of the UK's unofficial national dishes. The first shops opened in the 1860s and spread rapidly as the country industrialized, helping to feed factory workers, according to the trade group. During World War II, as the government rationed other staples such as tea, butter, meat, fish and chips were exempt, so important was the dish to the working classes.
フィッシュ&チップスはイギリスの非公式な国民食か。なるほどそうだ。私も嫌いではなかった。この国民食は産業革命時に工場労働者の胃袋を満たすのに貢献し、大衆食として広まっていった経緯があるとまでは知らなかった。フィッシュ&チップスの人気はイギリスだけにとどまらず、ケニアやタンザニアなどかつて英国の植民地だったアフリカの国々にも広まり、絶大な人気を誇っている。
◇
高齢化社会を反映して中高年を意識した商品の広告がテレビや新聞などでは人気を博しているようだ。私もそうした商品が狙う購買層の一人だが、あまりまともに読むことはない。まだ切実に感じることがないからだろう、きっと。
しかし、昨日の新聞で目にした本の広告は思わず目を走らせた。『80歳の壁』(和田秀樹著)。はて、似たような書名をどこかで目にしたことがあるような。高齢者医療の第一人者である精神科医の書だという。興味をそそられるうたい文句が並んでいる。――未知なる「人生100年時代」のための新しい人生の迎え方。体力も気力も80歳からは70代と全然違う!健康寿命の平均は男性72歳、女性75歳。80歳を目前に寝たきりや要介護になる人は多い。「80歳の壁」は高く厚いが、壁を超える最強の方法がある。それは、嫌なことを我慢せず、好きなことだけすること――
以下、短冊状に諸々の注意点が列記してある。▷肉を食べよう、しかも安い赤身がいい▷運動はほどほどに。散歩が一番▷高齢者に多いうつ症状。心と体を動かすことが予防に▷欲望は長生きの源。枯れて生きるなんて百年早い▷記憶力は年齢ではなく、使わないから落ちる▷孤独は寂しいことではない。気楽な時間を楽しもう▷テレビを捨てよ、町に出よう▷学びをやめたら年老いる。行動は学びの先生だ
私が最も心を動かされたのは次の文句。「80歳の壁を超えたら、人生で一番幸せな20年が待っています!」え、本当かな?そうだったら嬉しいなあ!♪♪♪
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