- 2020-04-14 (Tue) 14:49
- 総合
私が教えている英語教室の一つは当面の間、休講措置となっている。もう一つは辛うじて命脈を保っている。これも昨今脚光を浴びているテレワークと言えるのだろうか。スカイプを利用したからだ。スカイプがこんなに便利なものであるとは思いもしなかった。
参考までにテレワークは英語では work from home とか telecommute と表現するようだ。電子辞書には teleworker という語が載っていて、telecommuter と同義と書いてあるので、英語でもtelework でいいのだろう。telecommute は「在宅勤務をする」(コンピューターやEメール、電話などを使って顧客やオフィスと連絡をとる)と説明されており、「在宅勤務」はtelecommuting, teleworking と載っている。
これからの時代は今回の新型コロナウイルスを始め、対処不能の恐ろしい感染症が跋扈するのだろうか。そうだとすれば、テレワークがますます普通の働き方になるのかもしれない。もはや「現役」ではない私にはどうでもいいことだが、そこにまた新たなビジネスチャンスが生まれ、新しい生き方、暮らし方が喧伝されるのだろう。
話を戻して、私がスカイプを初めて目にしたのは、アフリカだった。『ブラックアフリカをさるく』という本を書くために新聞社を早期退社し、アフリカ7か国を放浪した2010年、ケニアの奥地にある、野生動物が生息する広大な自然農場を訪ねた。その農場を営んでいた友人のFさんが日本に住む父親とパソコンを使ってテレビ電話しているのを見てびっくりした。彼女はそれがスカイプだと私に告げた。その時は、へえ、こんなことが可能なのか、しかも無料なのか、いや凄いなあと思ったことを覚えている。
あれから10年の歳月が流れたが、私はその間、スカイプなるものに興味は全く抱かなかった。ところが、先日、天神の英語教室の受講生の一人からメールがあり、「先生、新型コロナウイルスでしばらくは外出を控えたいと思っています。スカイプか何かで授業を聞くことはできませんか」と尋ねられた。私の頭に最初に浮かんだ思いは「それは無理!」。だが、何度もこのブログで記しているかと思うが、私は近年、自分を取り巻く出来事すべてが神様の思し召しという考え方で日々を過ごしている。だから、このスカイプの「お願い」も神様がそうせよと言われていると考えた。
それで知り合いや姪っ子に基本的なことを教えてもらい、パソコンをあれこれ触っていたら、あら不思議、スカイプができるようになった。こうしたことに明るい人には何でもないことだろうが、デジタルに弱い私には画期的なこと。そして自宅でパソコンを前にして迎えた先の日曜日。教室の生徒さんは4人しかいないのだが、グループ作りの作業を知らなかったためもあり、一人とは途中でコンタクトが切れた。何とか残る3人への授業を終え、残した一人とはその後に再度連絡を取り、授業らしきものを済ませた。
まだ、私、スカイプができます、などと胸を張ることなど到底できないが、何だか仕事の可能性が広がったような気はする。スカイプを通して英語を教える。家庭教師のようなものだ。教材はメールでやり取りすれば、対面しての教室よりいいかもと思わないこともない。お互いに自宅にいながらにしての授業。なるほど、これはとても便利なシステムだ。これで私の仕事の新しい地平線が見えてこないものかと願い始めている自分がいる。
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