- 2013-07-22 (Mon) 22:07
- 総合
「積ん読」の効用で本棚にある未読の本を適当に読み進めている。昨日読み終えたのは遠藤周作の『イエスの生涯』。200頁少しの小品の文庫本だが、この本を買っていたことさえ忘れていた。
自分なりに聖書を改めて読み始めたことは少し前に書いた。週末土日の寝起きにベッドで寝そべりながら、少しずつ読んでいる。当然のことながら遅遅として進まない。そのこともあり、すっとこの本に手が伸びた。
私が読んでいる聖書は、アメリカで出版されたThe Way (The Living Bible) というタイトルの本。聖書を時系列に読む方法が冒頭に述べられている。旧約聖書の創世記(Genesis)の1から22、ヨブ記(Job)、創世記の23から50、出エジプト記(Exodus)、詩篇(Psalm)の90といった具合に細かく指示されている。今はエレミヤ書(Jeremiah)まで到達した。全体のほぼ半分ほど読破したところだろうか。それにしても、何だか同じことを何度も何度も読まされているような気がしないでもない。旧約聖書で描かれる戦(いくさ)の記述にも圧倒されている。敵であれば、女子供にも容赦がなく、1万人、2万人単位の全住民が殺害されているからだ。
「狐狸庵山人」とも称したユーモアあふれる才人でもあった遠藤周作は好きな作家の一人だ。親しみやすいエッセイ本が印象に残っている。代表作で読んだのは『沈黙』。この作品の舞台となった長崎県の五島列島は取材で足を運んだことがある。
新上五島町の東端に浮かぶ頭ヶ島という島。小さい島だが、そこに全国から観光客を引きつける頭ヶ島教会がある。私が取材で訪れた時、観光バスでやって来た観光客の方々はバスガイドさんの観光案内に耳を傾けていた。「みなさん、あちらに見えるのが、江戸時代、隠れキリシタンを転向させるのに用いた拷問の石です」。正座した両足に重い石を載せる拷問だったという。
『イエスの生涯』の解説文を読むと、1996年に73歳で没している作家は1973年、50歳の時にこの作品を発表したのだという。キリスト教とのかかわりをライフワークとした作家のイエス像が作家ならではの表現で描かれていて、キリスト教、キリストへの思いが行間から迸っていた。
印象に残った表現にはサインペンで印をつけた。例えば次のような表現だ。
「イエスは死の不安と闘っておられた。永遠に人間の同伴者となるため、愛の神の存在証明をするために自分がもっと惨めな形で死なねばならなかった。人間の味わうすべての悲しみと苦しみを味わわねばならなかった」
「だが我々は知っている。このイエスの何もできないこと、無能力であるという点に本当のキリスト教の秘儀が匿されていることを。(中略)キリスト者になるということはこの地上で『無力であること』に自分を賭けることから始まるのであるということを」
「受難物語を通してイエスは全く無力なイメージでしか描かれていない。なぜなら愛というものは地上的な意味では無力、無能だからである」
「手元」に引き寄せ、深く考えさせられる記述だ。ずっとこれからも。