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 芥川竜之介のユーモア

  • 2017-10-30 (Mon) 09:17
  • 総合

 先週末、宮崎に戻った。例によって新幹線と高速バスを乗り継いでの帰郷。宮崎から新八代までの帰途の高速バスは珍しく満席だった。台風が近づいており、空の便を心配して陸路を選択した県外からの来訪者が多かったみたい。この路線がいつも活況だと宮崎の観光も明るいのだが・・・。
 ところで宮崎を発つのは午後5時前だったが、台風の北上を予感させる曇天。宮崎ではあまり見かけない陰鬱な雰囲気だった。大袈裟な形容をすれば、地球の終わりが来るとすればこういう空模様かと思うほどの陰惨さ。年齢とともに健康が衰えていく姉たちを見舞ったことも幾分気分を沈痛にしていたかもしれない。
                 ◇
 気分が少し沈んでいたのは岩波文庫の近著『芥川追想』(石割透編)を読んでいたことも一因したかもしれない。書店で中国物を物色していて『芥川竜之介紀行文集』(岩波文庫)に行き当たり、延長線上で『芥川追想』を読むに至った。
 『芥川追想』を読んで、この明治末期から大正時代を駆け抜け、昭和2年に自死を選択した作家の人柄にひかれた。睡眠薬自殺に臨んで彼が記し、今も我々の記憶に残っている「将来に対する唯ぼんやりした不安」という表現とともに、我々がよく目にする作家の遺影のイメージから、この作家が何となく「クール」な性格の人物という印象を私は抱いていたが、この追想記を読むと、芥川が来る人を拒まない心の温かい人物だったことが分かった。
 「彼の如き高い教養と秀れた趣味と、和漢洋の学問を備えた作家は、今後絶無であろう。古き和漢の伝統及び趣味と欧州の学問趣味とを一身に備えた意味に於て、過渡期の日本における代表的な作家だろう。我々の次ぎの時代に於ては、和漢の正統な伝統と趣味とが文芸に現われることなどは絶無であろうから」と盟友、菊池寛は書いている。
 『芥川竜之介紀行文集』では1921年に「大阪毎日新聞」から中国の上海、北京などに視察員として特派された折のルポ「上海游記」が興味深かった。例えば、湖心亭という茶館のそばの池で一人の支那人が悠然と小便をしているのに出くわしての述懐。菊池寛は自分(芥川)が下等な言葉を度々使うと指摘していることを紹介した上で、「しかし支那の紀行となると、場所その物が下等なのだから、時時は礼節も破らなければ、溌溂たる描写は不可能である。もし嘘だと思ったら、試みに誰でも書いて見るが好い」と述べている。
 当時の日本人にとって支那が「下等な地」と見なされていたことを改めて知り、私は複雑な心境となった。夏目漱石の中国紀行の文章を読んでも、似たような記述に何度か遭遇する。
 「上海游記」にある次の描写。芥川が上海在住の著名な思想家を訪ね、その高説を傾聴した際の記述で、彼はこの時、薄着をしていたので寒さがこたえたようだ。「私は耳を傾けながら、時時壁上の鰐を眺めた。そうして支那問題とは没交渉に、こんな事をふと考えたりした。————あの鰐はきっと睡蓮の匂と太陽の光と暖な水とを承知しているのに相違ない。して見れば現在の私の寒さは、あの鰐に一番通じる筈である。鰐よ、剥製のお前は仕合せだった。どうか私を憐れんでくれ。まだこの通り生きている私を。・・・・・
 こういう文章に出合うと、私は芥川への親近感がさらに増してくる。

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