Home > 総合 > 遂に私もスマホ!

遂に私もスマホ!

  • 2017-08-29 (Tue) 10:06
  • 総合

 遂にスマホを購入してしまった。すでに数日経過するが、使い方がよく分からなく、ガラケーで十分だったのではないかと少し後悔し始めている。
 ラインが便利とか吹き込まれていたが、考えて見ると、私はラインといった類のものからは縁遠い日々だ。アフリカを旅していた7年まえに携帯電話を不覚にも盗まれたこともあり、新聞社勤務時代の同僚の番号もほぼ喪失した。当時のブログをのぞいてみると、次のように付記している。(私と個人的に関わりのある方々へ。日本で使っていた私の携帯は盗難に遭い、今後、電話や携帯メールなど連絡が一切不可能になったことをご了解ください)。そう私の「過去」はあの時、大半が失われたのだ。
                  ◇
 中国語を学習していると、どうしても日本語のことを考えざるを得ない。それで日本語に関する本も拾い読みすることが多くなった。先日は図書館で『図説・日本語の歴史』(今野真二著・河出書房新社)という本を借りた。2015年の刊行だから最近の本だ。著者は大学教授であるだけに博学であることは間違いないが、内容が難しい上に文章が硬く、門外漢の私には読み進めるのに難儀した。
 最終第五章の「明治・大正時代」の項で、「明治の文豪」として森鷗外、夏目漱石の文章が紹介されていた。夏目漱石は好きな作家であり、代表作の幾つかは再読したことがあるが、森鷗外は残念ながらそう熱心に読んだ経験はない。上記の書では森鷗外の作品『山椒大夫』が称賛されていた。確かな記憶ではないが、小中か高校のいずれかで、『山椒大夫』のさわりを読まされたような。どうも気になったので、書店で文庫本を買い求めて読んでみた。
 著者はこの作品が「平易で落ち着きのある文章で綴られている。それは現代日本語とあまり『距離』を感じさせない文章であり、そうした意味合いにおいては、現代日本語の『書きことば』の源流をこのあたりの時期に求めることができると思われる」と述べている。
 少しショックだったのは文庫本に収められていた『阿部一族』。読み進めていて、途中で「あれ、俺、これはいつか読んだことがあるぞ」と気が付いたこと。読んでいたことをすっかり忘れていた。作品で描かれる江戸時代の武家社会の「殉死」の無慈悲、無意味さに腹立たしさを覚えたことも思い出した。まあ、忠臣蔵の討ち入りだってそうではあるが。
 『図説・日本語の歴史』は最後に「新しい表現の追究」と題して、芥川龍之介の『羅生門』の文章を紹介していた。私は2年ほど前このブログに記した、芥川の作品『秋』を読んでの感想を思い出した。ブログでは次のように書いている。——独特の文体が印象に残った。次のような文章だ。「彼女は・・・我知れず耳を傾けている彼女自身を見出しがちである」。「夫は夜寒の長火鉢の向うに、いつも晴れ晴れと微笑している彼女の顔を見出した」。「彼女はふと気がつくと、いつも好い加減な返事ばかりしている彼女自身がそこにあった」。英語だと I found myself …. She found her …という構文の文章が頭に浮かぶ。「瑣末な家庭の経済の話に時間を殺すことを覚えだした」という文章もあった。「時間を殺す」は英語のkill time の直訳だろう。作家は英語やフランス語に明るかった印象がある。自然と英仏語の表現を自分の文章に取り込み、活かしていったのだろうと推察される——。

Home > 総合 > 遂に私もスマホ!

Search
Feeds

Page Top