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古希を祝う会

  • 2024-02-25 (Sun) 17:07
  • 総合

20240225-1708848262.jpg 郷里の幼馴染みたちと古希を祝う会が宮崎市内のホテルで開かれ、泊まりがけで参加した。故郷は西都市の奥深い山間地にある。銀鏡という地名で今では限界集落と呼ばれる地区になっており、母校の銀鏡中学校も山村留学生を招き入れ、小中合同の学校となって命脈を保っている。卒業したのは昭和44年(1969年)。当時の時代を思い出そうとしても容易ではないが、明るい未来がきっと待っていると信じるに足る世の中だったのではないか。私は地元の宮崎大学に進学したが、教育学部の専攻に沿って教師とはならず、夢と冒険を求めて新聞記者の道を選択した。
 これが躓きの始まりだったのかもしれない。うーん、分からない。大学時代の仲間は皆教師となり、地元に密着した暮らしを営んだ。郷里を同じくする幼馴染みたちもほぼ同様だ。私は彼らと人生が交差することはなく、たまに会う程度の緩い付き合いとなった。それは苦でもなく、何の罪悪感もなかった。まだ明るい未来が先に待っていると信じることができた時代が続いていた。
 10年前、還暦を祝う会で幼馴染みと再会した時にはさすがにそのような幻想は抱いていなかったかと思う。でも、まだ望みは捨ててはいなかったような。私は新聞社を早期退職して直後の海外放浪の旅も終え、大学で英語の非常勤講師として糊口を凌ぐ日々だったが、人生の残り時間をそう意識はしていなかった。
 そして昨日の土曜日の古希を祝う会。我々は山間部の小さな中学校ゆえ、同級生は48人程度だったと記憶している。当時父親の山仕事でやってきた転校生も何人かはいたが、大半は小学校から机を並べた竹馬の友だった。古希の会に集ったのは幹事役のT君の人徳もあり、20人の友だった。48人で20人だから悪くない数字だと私は思う。
 我々の世代は男女が自由に何でも語り合った、語り合うことができた世代ではない。小中9年間を一緒に過ごしてもそうした思い出はあまりない。いや、皆無に近いと言うべきかもしれない。仲が悪かったというわけではない。男子が女子と屈託なくおしゃべりできる時代ではなかったかと思う。決してほめられたものではない。古希の集まりではこれまであまり会話を交わすことのなかった女子(今では妙齢のご婦人?)とも話をすることができた。彼女たちから私が全然覚えていない中学生の頃のエピソードを聞かされもして驚いた。人の記憶というのは面白い。断片的に記憶として残っているのが人それぞれなのだ。当然と言えば、当然のことかもしれないが。
 半分ほどの参加者が2次会と称してカラオケのお店に流れた。驚いたのはこれまで歌を聞いたことのないH君のカラオケ慣れした様子。彼は地元神社の宮司として銀鏡の地の振興に奮闘してくれている。Mさんも趣味の民謡で鍛えた歌唱力で楽しませてくれた。
 一夜明けた日曜日朝。私は宮崎駅から新八代駅まで高速バスに乗り、そこから九州新幹線に乗り換え、福岡に向かう。今、この項をバスの車内でラップトップに打ち込んでいる。同級生と10年ぶりに語り合った喜びも残っているが、「祭りの後の寂しさ」みたいなものも感じている。嗚呼、私はこんな感傷的な男ではなかったはずなのに! 古希の次に控えるのは喜寿か。いやそこまで待つことはないか。そう遠くない将来また集えることを願う。

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