- 2022-08-29 (Mon) 11:33
- 総合
香椎浜のジョギング路を歩いていると、吹いてくる風に秋の訪れを感じるようになった。過ぎ去ろうとしている夏は惜しまれるが、心地よく過ごすことができる秋の訪れは嬉しい。食欲の秋、スポーツの秋、読書の秋・・・。ただし、今年の秋は食欲だけは留意せざるを得ない。先日の健康診断で血糖値の問題を指摘されて以来、粗食を心がけている。自業自得だ。同じ意味の中国語の表現は日本人には分かりやすい。「自作自受」。英語表現も不思議と腑に落ちる。“What goes around comes around.” もっともこれは何だか「金は天下の回り物」のような印象も受ける。
血糖値の問題を指摘されてから改めて意識するようになったのは、頻度が増してきたように感じていた夜半の異様な喉の渇き。飲酒ゆえの乾きと解釈していたが、どうもそれだけではなさそうだ。そうした喉の渇きを癒す水の旨さに心を奪われていたが、これも黄信号いや赤信号だったのか。とりあえず、夜半の喉の渇きを覚えなくなるのを目標にしよう。
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パソコン上にさまざまなファイルが残してある。スクリーンからあふれ出そうになるのはさすがにまずいので、適宜削除、ゴミ箱に捨てているが、ファイル名を見ても、中身は何だったか忘れてしまっているのもある。
オンラインの英語教室の教材もファイルにまとめており、整理しようと思い立った。その一つは中国人女性作家の “To the Dogs” という作品。1960ー70年代の文化大革命を背景にした短篇で辺鄙な地方に下放された少年の体験を綴った物語。作家は米国在住で年齢的におそらく両親や祖父母などから聞いた話を基に書いたものと想像される。
物語の冒頭に次の言葉があった。“Forgetfulness is essential to moving on.” 私はこのファイルを整理しようとしてふと手が止まった。改めて読むと、凄い表現ではないか。どうしてもっと深く味わわなかったのだろうか。
作品の背景説明をすると、時は1972年。主人公の15歳の少年は上海の駅で父親の見送りを受け、内陸部の地方へと向かう。少年の両親はともに高校教師。毛沢東が率いる共産党政権にとっては少年の出自はブルジョアであり、地方の貧困にあえぐ農民層によって矯正される必要があった。父と子はこの見送りが今生の別れとなると認識していた。涙を我慢しながら、父親が息子に言う言葉が “Forgetfulness is essential to moving on.” だった。
普通だったら読者は何と大げさよと思うかもしれない。だが、当時の中国では誇張でも何でもなく、若者が地方に追いやられる下放は家族からの永遠の離別となる可能性が大だったのだろう。だからこその言葉。「忘却こそが生きる上で不可欠なんだよ」。いや父親が息子に最後に与える言葉だから「何もかも忘れるんだ、そうすれば前に進むことができる」と訳そうか。「嫌なことがあっても忘れるんだ、そうすれば何とかなる」とも。
実人生では我々は日々 forgetfulness を無意識であれ、実践しながら生きているのかもしれない。ともあれ、齢を重ねると段々と忘れっぽくなるのが常のようだ。だが、これも時と場合によってはそう悲観するべきものでもないと考えることができようか。過去の数々の愚行をいつまでも明瞭に記憶していたなら、それはそれで息が詰まるかもしれない。
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