- 2022-08-01 (Mon) 10:14
- 総合
中国語を学んでいて時々考えるのが、語に関する日中の感覚のずれだ。同じような漢字を使っていることゆえの齟齬(そご)と言えるものかもしれない。公民館の中国語教室で使っているテキストに次のような例文があった。「弟弟把( )弄( )了。」( )の中に適語を入れる問題だ。私は次のような文章を作ってみた。「弟弟把(哥哥珍惜的电脑)弄(坏)了。」(弟は兄が大切にしていたパソコンを壊してしまった)
辞書を引くと「珍惜」は動詞で「大切にする」と載っていた。それで「哥哥珍惜的电脑」で「兄が大切にしているパソコン」という意味になるのではないかと考えた。ところが中国語ネイティブ話者の先生は「哥哥贵重的电脑」と訂正した。「贵重」(貴重なという形容詞)を使用したがいいということらしい。なるほど、そう言われれば納得せざるを得ない。こういうことはやはりネイティブ話者の感性に従うしかない。
学問としての中国語を学んだことがないのでよく分からないが、要するに、広い意味で言えば、英語で collocation という領域のことなのだろう。英和辞書には「配列」「コロケーション」「連語関係」という訳が載っている。とある外国航空会社の航空機が日本に近づき、CAが流暢な日本語で「皆様左手前方に富士山が丸見えでございます」と機内アナウンスをしたとか。日本人乗客だけが爆笑したという。語の実際の運用におけるこの種の微妙な行き違いはケースバイケースで学んでいくしかないのだろう。
私もこれまで仕事で英語を使ってきて似たような失敗を時に犯してきたのだろうと思わないでもない。場合によってはそうしたコロケーションの差異を逆手にとって笑いをとってきたかもしれない。コロケーションの例ではないが、外国人が加わった交流の場などでは例えば、国際社会で名高い我々日本人の英語下手をネタにして、次のように自己紹介する手もあるか。“Hallo, everyone. Nice to meet you. My name is Taro Tanaka. Call me Taro. Please forgive my poor English. After all I’ve been studying English for only 50 years.”
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前回の項で次のように書いていた。8月に入ったら、久しく足を運んでいない魚津に旧知のママさんを訪ね、帰途には京都・亀岡の実兄宅に寄り、神戸では古い知己の方々とささやかな宴を催すことを企図していたが、コロナ感染者の急増で高齢の方々が多いこともあり、さすがに見送ることにあいなった。残念!と
この年になると、すべて神様の思し召しと達観しようと努めている。与えられた時間を精一杯生きるだけ。それで8月も動けないのは定めと諦め、その分、近くの海に行き、泳ぎ、漂い、太陽光の恩恵に預かることにした。第一に健康的だ。何度も書くが、私は泳ぎは上手ではないが、海ならば楽に浮かぶことはできる。ぷかぷか浮かびながらゴーグルを通して青い空と太陽を仰ぎ見るのは実に気持ちよい。1時間ほど波間に漂い、時に泳ぎ、海の家でぶっかけうどん(500円)を注文して食べる。私にはこれで十分だ。
海外の旅が解禁になればやりたいと考えていることは幾つかある。おいおいこの欄でそれも書いていきたいが、今は充電期間だと解している。体力面はともかく、資金的にはまだ充電期間がたっぷり必要なようだ。