- 2014-06-20 (Fri) 11:36
- 総合
サッカーのワールドカップは金曜日朝、日本にとって残念な結果となった。解説者諸氏はテレビでこのところ、日本は必ずギリシアに勝てると請け合っていた。FIFAランクではギリシアは12位、対する日本は46位。向こうだってまだ二次リーグ進出の可能性は残されているから必死になってやってくるだろうし、ギリシアのテレビでも似たようなことを言っているのだろうと思っていた。ふたを開けてみれば、お互いにゴールネットを揺らすことなく引き分け。日本には最終戦に条件付きでわずかながら望みをつなげているとはいえ、相手は強豪コロンビアだ。現実は非常に厳しいと思わざるを得ない。
サムライブルーの不振で気分もblue(憂鬱な)に感じながら、ブログをアップしている。『福翁自伝』という本を読了したばかり。福沢諭吉(1834-1901)の自伝だ。『学問のすゝめ』の著者が幕末から明治にかけて生きた偉人であることは承知していたが、これまで彼が書いた本はまともに読んだことがなかった。「食わず嫌い」とも言うのだろうか。
私が諭吉翁を敬遠していたのは、彼が掲げた「脱亜入欧」論による。明治日本は確かに「脱亜入欧」の考え方で欧米の先進国の仲間入りを果たした。それはそれでまことに結構だが、そうした考え方のどこかに「アジアは後進世界。お手本にするべきものは何もない」との傲慢さが巣食い、日本のアジア侵略の伏線となったのではないかとずっと思っていた。
だが、ある書を読んでいて、『福翁自伝』(岩波文庫)は日本の自伝本の最高傑作と評されているのを知り、興味を覚え、購読した。諭吉翁が功成り名遂げて明治30年、64歳の時に口述筆記の形で著したのがこの本だという。期待以上に面白かった。
諭吉翁は幕末、大分・中津藩の下級武士の家に生まれた。生まれがその後の人生を鋳型にはめたように「縛る」封建社会が嫌でたまらず、青年諭吉は自由を求める気持ちから「洋学」(蘭学から英語へ)の道に進む。尊王攘夷か佐幕か、開国かで揺れる幕末で、政治的な動きには一切関知せず、自己の開明だけを志した彼の生き方はあっぱれだ。幸運にも恵まれ、欧米への洋行で見聞を広め、慶応4年に慶応義塾を開設し、多くの有為な人材を輩出する。
世人が明治新政府の役人となり、立身出世を夢見たのに対し、諭吉翁は終生、栄達、富を求めず、飄々と生きている。彼が現代の日本に蘇れば、どのような教育思想を掲げるのであろうか。「脱亜入欧」の帰結とも言える今の日本を見て、彼は何を思うだろうか。諭吉翁は『福翁自伝』の中で余生に手がけたいことの一つに「全国男女の気品を次第々々に高尚に導いて真実文明の名に恥ずかしくないようにすること」を挙げている。自分自身のことはさておき、新聞の社会面を日々賑わす事件や不祥事の数々を考えると、及第点をもらうのは難しいかもしれない。現在進行中のワールドカップの試合会場で日本人ファンがゲーム終了後に観客席のゴミ拾いに精を出した光景はきっと翁を喜ばせたことだろう。
諭吉翁は故郷中津藩のしがらみには頓着しなかったが、夫が若くして病死したため、子ども5人を女手一つで育て上げ、町人や百姓にも分け隔てなく接した母親には深い情愛を抱いていたようだ。諭吉翁は母親のことを「おッ母さん」と呼んでいたことを知った。当時は武家でも母親に対するごく普通の呼称だったのだろう。私も亡きお袋はずっと「おっかさん」と呼んでいた。私にはとても懐かしい呼び名だ。