- 2021-07-18 (Sun) 20:58
- 総合
前回の項で、蝉時雨のことを書いた。「マンションの自室にいても毎夏、蝉時雨が聞こえていたような気がするが、今夏はまだそういう経験はない。これからあるのか分からない」と。日曜朝、窓を開けて、聖書関連の書を読み、新聞に目を通していると、おっ、聞こえるではないか。まさに降るような蝉時雨が。慣れてしまえば気にならないのだろうが、さすがにうるさい。窓から前方にはマンションしか目に入らないが、どこにこれだけの鳴き声を聞かせる蝉が群れているのか不思議でならない。
わずか一週間の命。とはいえ、それは80年前後の人生を生きる我々の視点から見た思いに過ぎないのだろう。1万年前の化石が見つかるとかいったニュースに接すると、1万年前ってどれほど前の話なんだよと突っ込みたくもなる。想像もつかない。人類は立って歩いていたのか、言葉を文字を持っていたのか?
仮にそうした気の遠くなるような「寿命」の生命体がいたとしたら、我々の一生は蝉のようなものに見えるのかしれない、などと考えたくなるのも、この気の滅入る暑さのせいか。
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公民館の中国語教室で「掩耳盗铃」(yǎněrdàolíng)という表現を学んだ。中国の故事にまつわる表現で、「耳を覆って鈴を盗む」つまり「自分で自分を欺く」という意味。人に気づかれたくないからと耳栓をして鈴を盗んだとしても、鈴の音で人にはその盗みがばればれとなっている。鈴はもともとは大きな鐘だったらしい。
日本語には中国由来の諺が少なくない。似たようなものがあるのではと頭をひねってみたが、思い浮かばない。強いてあげれば、「頭隠して尻隠さず」ぐらいのものだ。でもこれにしてもぴったりという感触はない。
なぜこの「掩耳盗铃」という成句が印象に残ったかというと、私はこのところ、この成句が戒める生活習慣になっているのではないかという危惧があるからだ。例えば、体重。運動不足がたたり、自己最高を更新しているのではないかと恐れているが、体重計にのることはしない。まさに「掩耳盗铃」の典型的例だろう。
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大相撲。日本人の関取が情けない状態に陥ってからはそうは熱心に見ていないが、それでも小兵力士が活躍すると応援したくなる。
名古屋場所。久しぶりに東京を離れての場所となった。注目は大関照ノ富士が横綱昇進を決めることができるか。千秋楽の結びの一番は果たせるかな、照ノ富士と横綱白鵬の全勝対決となった。私はもとより横綱の風格に欠ける白鴎のファンではない。照ノ富士のファンでもなかったが、体調を壊し、序二段まで落ち、奇跡的なカムバックを果たした大関には敬意を表せざるを得ない。
かくいう次第で照ノ富士に声援を送りながら、結びの一番を見たが、白鵬があっけなく勝利した。それにしても、立ち合い時に例によって右肘を使ってのかち上げなど、横綱相撲からはほど遠い内容。耳よりも目を覆いたくなるような一番だった。あれではいくら優勝回数を重ねても名横綱として記憶されることはないだろう。少なくとも私にはそうだ。
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