August 2023
努力は perspiration (汗をかくこと)
- 2023-08-27 (Sun)
- 総合
今年の夏も終わりを告げようとしている。いや、もう終わったと表現すべきだろうか。非常勤講師を務めている中学校はすでに2学期がスタートした。古い人間の私には9月に入ってから2学期という感覚だが、今はそうではないようだ。私は2学期は心機一転と期していたが、どうもそうはいかない。例の帯状疱疹だ。まだ右背中を中心に痛みというか違和感が消えておらず、朝方が辛い。ペインクリニックの服用薬を1錠毎夜飲み続けており、これがやがて功を奏することを願うだけだ。
結局この夏は我慢の日々となった次第だが、一つだけは考えていたことを行った。田舎に戻って墓参りすることだ。コロナ禍で長く足を運ばなかったが、気持ちはずっと故郷に向いていたので亡き両親や兄姉たちも許してくれるだろうと願っていた。コロナ禍が一段落した今夏はさすがに戻らねばならない。それでお盆過ぎに新幹線・高速バスといういつものルートで帰郷した。宮崎駅からは甥っ子の車で西都の山中にある実家へ。両親や姉、長兄が眠るお墓に手を合わせた。
はて、何年ぶりの帰郷だろうとずっと考えていた。最後の帰郷がいつだったか。今パソコンに向かい、過去のブログをスクロールしてようやく分かった。2019年8月18日の項で以下のように記している。
――青島のホテルに3泊した後、山里の実家を訪ね、お袋や父親、長兄、次姉が眠るお墓にも手を合わせた。父親と長兄が好きだった焼酎をお墓にかけた。お袋と次姉のためにはお袋が好きだった健康飲料をかけた。古里の名産品をお土産として沢山買い求めもした。気持ちがいい好天の故郷はこの日は明るく輝いて見えた――
そうか、ちょうど4年ぶりだったのだ。参考までに台北への最後の旅は2019年7月の項で述べている。この4年間は「活動停止」状態だったようだ。中国語の会話力はあれからほとんど進歩していないように感じているが、台北には行ってみたい。昔のような安上がりの旅はできないのだろうな、きっと。旅費から滞在費(5日程度)までざっとみても10万円はかかるのだろう。今の私には尻込みする額だ。帯状疱疹の完治を待とう!
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NHKラジオの中国語講座を聴いていて、「天才とは1%のひらめきと99%の努力である」というトーマス・エジソンの有名な言葉が紹介されていた。中国語では「天才是百分之1的灵感和百分之九十九的汗水」とか。説明文として「天才とは1%のインスピレーション(灵感)と99%のパースピレーション(汗水)である」と記されていた。インスピレーションとパースピレーションが韻を踏んでいる。パースピレーション(汗水)とは漢字が示しているように「汗を流すこと」すなわち「努力」することか。
エジソンの言葉はネットで調べると、“Genius is 1% inspiration and 99% perspiration.”となっている。私は初めてこの言葉、つまり翻訳の文章に出合った時、努力=effortと解釈していた。彼が実際に口にしたのは perspiration であり、おそらくinspirationと韻を踏む語を選択したのだろう。そう考えると、日本語の訳文よりも中国語の訳文の方が原文により近いと思えなくもない。些末なことかもしれないが・・・。
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一度切りの人生は所詮虚しい?
- 2023-08-24 (Thu)
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チェコ出身の作家ミラン・クンデラ氏の代表作 “The Unbearable Lightness of Being”(邦訳『存在の耐えられない軽さ』)を読み終えた。読売新聞のコラムでこの作家と作品のことを知ったのだが、チェコ語から英語に翻訳された小説は予想とはだいぶ異なっていた。
前回の項で書いたが、1968年の旧ソ連軍による「プラハの春」弾圧を背景にした作品だけに、今起きているロシアのウクライナ侵攻のことを思わずにはおれなかった。手垢の付いた表現だが、「歴史は繰り返す」か。
主要登場人物の一人は共産党独裁体制を容認できず、天職の外科医の仕事から追われる不運に遭いながらも、生来の嗜好というか彼にとっての「ライフワーク」と言うべきか、日々の生活で出会う幾多の好みの女性と性的関係を求める妻帯者の男(Tomas)。といえども、そうした womanizer (プレーボーイ)の生き様だけに焦点を当てたものではなく、タイトルが示唆しているように、生きることは何ぞやという重いテーマを追っている。
冒頭部分で次のように記されている。We can never know what to want, because, living only one life we can neither compare it with our previous lives nor perfect it in our lives to come. (我々は人生で何が欠けているのか決して知ることはできない。一度切りしか生きられない我々は我々の前世と比較することもできないし、次にやって来る人生でそれを完璧なものにすることもできない)。(中略)Einmal ist keinmal, says Tomas to himself. What happens but once, says the German adage, might as well not have happened at all. If we have only one life to live, we might as well not have lived at all. (一度は数のうちに入らないのだとトーマスは自分に言い聞かせた。このドイツ語の格言によると、一度しか起こらないものは全く起こったことにはならないのだと。我々が一度しか人生を生きられないとしたなら、それは生きたことにはならないのだ、はなから)
私が興味深く読んだのはヨーロッパの左派的考えの人たちがベトナムがカンボジアに侵攻したことに抗議し、カンボジアの困窮する人々の医療支援をしようと1980年代にタイからカンボジアとの国境に向かおうとした時のエピソードだ。
この医療支援はヨーロッパのグループが提唱したものだが、バンコクに到着してみると、主導権はアメリカ人のグループに握られていた。記者会見も英語で行われ、ヨーロッパの非英語圏の参加者たちは猛反発する。… and here the Americans, supremely unabashed as usual, had not only taken over, but had taken over in English without a thought that a Dane or a Frenchman might not understand them. (アメリカ人たちはお決まりのようにここでも臆することなく主宰の立場に立ち、しかも英語で会見を仕切ったのだ。デンマーク人やフランス人が英語を理解しないかもしれないなどといったことには一顧だにすることなく)
私がアフリカで新聞社の特派員として勤務していた1980年代末を思い出した。各国の記者が集まる会見があれば、当然のことながら英語主導となり、米英の記者が幅を利かせていた。中国は新華社通信の記者をごくたまに見かけることがあったが、目立つことはなかった。今は中国人の記者たちが無視できない存在感を示しているのだろうか。中国人が口にする英語は日本人よりもずっと達者なようだし・・・。
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バランスオブパワー
- 2023-08-17 (Thu)
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チェコ出身の作家ミラン・クンデラ氏の代表作 “The Unbearable Lightness of Being”(邦訳『存在の耐えられない軽さ』)を読み進めている。1968年に旧ソ連に踏みにじられた「プラハの春」が背景にある作品だと理解していたが、旧ソ連を引き継いだロシアが今牙をむいているウクライナ侵略を想起せずにはおれない記述に手が止まる。
All previous crimes of the Russian empire had been committed under the cover of a discreet shadow. The deportation of a million Lithuanians, the murder of hundreds of thousands of Poles, the liquidation of the Cremean Tatars remain in our memory, but no photographic documentation exists; sooner or later they will therefore be proclaimed as fabrications. Not so the 1968 invasion of Czechoslovakia, of which both stills and motion pictures are stored in archives throughout the world. (ロシア帝国による過去の犯罪は人目を引かない密やかな形で行われた。百万人に上るリトアニア人の国外追放しかり、何十万人ものポーランド人殺害しかり、クリミア半島からタタール人の存在を抹殺することしかり。こうした蛮行は我々の記憶に残ってはいるが、映像や写真としては記録されていない。やがてそうした事実は存在せず、でっち上げだと否定されることだろう。1968年のチェコスロバキア侵略はそうはいかない。世界中に写真や映像が記録となって蓄えられているからだ)
翻ってロシアによるウクライナ侵略。どちらに非があるかは明々白々だ。ウクライナの一般市民が圧倒的火力を誇るロシア軍の砲撃を受け、むごたらしい最期を余儀なくされていることは疑う余地などない。とても a discreet shadow などと形容できるものでないことは小学生にでも分かるだろう。だれもこの狂気に終止符を打つことはできないのだろうか?
ところで、“The Unbearable Lightness of Being” には謎めいた男女の愛憎関係も描かれている。例えば、Sabina というチェコから逃れてきた画家の女性が愛人となった男性Franz の奥方であるMarie-Claudeに無礼な扱いを受けるシーン。Sabinaは手作りのペンダントを首にかけ、Marie-Claudeの邸宅で催されたカクテルパーティーに初めて足を運ぶ。Marie-Claudeはそのペンダントを目にして周囲に他の訪問客がいるにもかかわらず、大きな声で叫ぶ。“What is that? How ugly! You shouldn’t wear it.” 彼女には悪意はなかったようだが、旦那のFranzは妻は他人に対しお世辞を言うことが習性のようなって久しい(flattery had long since become second nature to her)ことが分かっており、驚きを隠せない。
しかしすぐに彼は理解する。なぜ妻のMarie-Claudeが初対面のSabina に対して彼女のペンダントを酷評する挙に出たのかを。妻が二人のただならぬ関係を嗅ぎ取ったからではない。Sabina はMarie-Claudeが主宰する画廊で作品展を開いたことがあるが、評判はあまり芳しくなかった。次のように書かれている。Yes, Franz saw plainly: Marie-Claude had taken advantage of the occasion to make clear to Sabina (and others) what the real balance of power was between the two of them.(そう、フランツははっきりと分かった。マリークロードはこの機会に乗じてサビナや他の人々に対して二人の立場がどういう上下関係にあるかを知らしめようとしたのだ)。Marie-Claudeのようなご婦人とはお近づきになどなりたくないものだと思う一方、人間関係をバランスオブパワーの語句で形容しているのを面白く感じた。
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“The Unbearable Lightness of Being”
- 2023-08-08 (Tue)
- 総合
いや、それにしても暑い。こんな暑さは日本になかったのではないかとさえ思う。アパートの近くを歩いていると、植栽の近くの歩道に蝉の死骸が天を仰ぐように転がっているのを何匹か目にした。7日目だか8日目の生命が尽きたのかもしれないが、こんなに蝉の死骸を目にする夏は初めてのような気がする。この信じ難い酷暑のせいではないか。
南からは大きな台風が北上しつつある。もう何日も前からパソコンの画面に「念」を送り、九州を逸れるように神様にお願いしていたが、上陸は免れるものの、西岸をかすめて北上するようだ。激しい風雨は避けられないのだろう。被害が最小限で済むことを願う!
暑さで思い出すのは、私が個人的に最高に暑いと感じたのは1980年代末、スーダンの首都ハルツームで過ごした数日間。当時、このようなブログがあったならと思うが、なかったので仕方ない。よく覚えているのは朝起きて(水)シャワーを浴びて、ホテルを出て情報省に向かい、数分後にはホテルに舞い戻り、再びシャワールームに駆け込んでいたこと。それほど強烈な暑さだった。
◇
読売新聞の朝刊コラムでとあるヨーロッパの作家が死去したという報に接した。チェコ出身のミラン・クンデラ氏。亡命後に住んでいたフランスで逝去。享年94歳。東西冷戦下の1968年にプラハの春が旧ソ連の弾圧を受けて亡命した作家で、その代表作『存在の耐えられない軽さ』で知られるという。
私が読んだコラム記事は<4人の男女が織りなすラブストーリーの背景に複雑な政治情勢を描いた。恋愛、そして左右の思想や体制に触れながら、人間の作り出す「軽さ」が随所にしのばせてある>と書いてある。
恥ずかしながら私はこの作家のことも作品のことも全然知らなかった。旧ソ連を引き継ぐロシアが今ウクライナに対して犯していることを思えば、今からでも読んでしかるべき作品のように思えてきた。読むならば英訳本か。ネットで調べて買い求めた。“The Unbearable Lightness of Being”
数日前に手元に届いたので暇を見て読み始めた。物語は冒頭、チェコの首都プラハに住むTomas という男とTereza という少女が登場する。Tomas はいわゆる「女たらし」(womanizer)で気に入った女性を見れば erotic friendship(官能的友情?)を結ばずにはおれない。しかし、そこにlove(愛)が介在することは許されない。性的行為が終われば、彼は関係を断ち、自分の世界に一人戻る。次のように書いてある。Making love with a woman and sleeping with a woman are two separate passions, not merely different but opposite.
しかし、Terezaはそれまでの女性たちとは異なるようだ。Tomas も彼女の執拗な愛を拒むことはできなくなる。Sabinaという懇意にしている女性と愛の行為にある間もTerezaが気になって仕方がない。早く事を済ませて彼女の元に帰らなければと思う。次のような記述がある。Then one day Sabina caught him glancing at his watch during intercourse and trying to hasten its conclusion. これは日本語に翻訳するのはある意味、苦労するだろうなあと思った。いや、そうでもないかな?
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