- 2012-06-25 (Mon) 21:35
- 総合
アメリカのニューヨークで1843年に生まれ、ロンドンやパリでも教育を受け、1866年以降はヨーロッパで暮らし、没する1年前の1915年には英国に帰化した作家。アメリカ文学の作家としてとらえるのが一般的なようだが、1881年(注1)に発表した“The Portrait of a Lady” (邦訳『ある婦人の肖像』)をこの旅で取り上げてみたい。
読み進めている時の正直な印象を書くと、時に読みづらかった。正直言って、読破するのに骨が折れた。ライにある作家の記念館(注2)を訪れた際、案内役の地元女性にこの印象を語ると、「そうでしょう。英国人もそう思っていますよ。読破したことのない人が多いはずです」という反応が返ってきた。作家が友人の作家たちを招いて食事した部屋には彼の気難しそうに見える肖像画が飾ってある。
アメリカ文学紀行でフィラデルフィアのペンシルベニア大学を訪れた際に会ったエドガー・アラン・ポーに詳しい講師は「精巧な描写を重ねたポーの作風はヘンリー・ジェイムズが継承した」と語っていた。マーク・トウェインの作風につながるヘミングウェイの文体とは対極にある作家だとも。
物語は読者には「見えない」語り手である「私」がその場にいて、登場人物のやり取り、心理状態を読者に伝える形で推移する。書き出しが興味深い。人生において、イングランドの夏のアフタヌーンティーほど心地よいものはないと。午後5時から8時までの間は時に a little eternity (ささやかな永遠)であるとも記されている。残念ながら、私はまだそういう幸運に巡り会っていない。
よく言われることだが、英国の人々はお茶はホットで飲むものであり、アメリカで飲むようなアイスティーは邪道と言われる。どんなに暑くとも、といっても、私の知る限り、ロンドンで猛暑になった記憶はないが、お茶は昔も今も必ずホットで飲むもののようだ。冒頭、息子が父親にお茶の具合を“How’s your tea?” と尋ねるシーンがある。これに対し、父親は “Well, it’s rather hot.” と答える。
物語の舞台はロンドン郊外にあるチューダー王朝時代(1485—1603)の屋敷に暮らすタチェット家。主のタチェット氏はアメリカ出身で英国在住30年。痛風を患っており、老い先が短いことを承知している。彼の息子は病弱で、父親を敬愛。彼は父親を失い、孤独になることより、自分の方が先立つことを願っているような息子だ。息子の友人、ウォーバートン卿を含め3人が語らっているところに、突如として現れるのが、タチェット夫人に海を越えて連れられてやって来た夫人の姪にあたるイザベル。夫人もアメリカ人であり、自分の妹で両親を失ったイザベルをニューヨーク州の州都オールバニーから連れて来たのだ。イザベルは美しい好奇心旺盛で物怖じしない娘。彼女の元に伯母のタチェット夫人がやって来た時、“you must be our crazy Aunt Lydia!”(あなたは家の人たちが話している変人のリディア伯母さんね)と平気で口にするような娘。どうやら、ウォーバートン卿もラルフも一目惚れ!したようだ。
(写真は上から、ライの街並み。ラムハウス。庭園から見たラムハウス)
注1)1881年当時は旧大陸、ヨーロッパ各国から新大陸への移民が盛んに行われていた真っただ中の時代だった。アメリカの魅力が色あせていたとは思えないが、次のような記述があって少し考えさせられた。これはタチェット夫人がアメリカの同胞がヨーロッパをどう考えているか語るシーンだ。“They all regard Europe over there as a land of emigration, of rescue, a refuge for their superfluous population.”(「海の向こうのアメリカでは人口が増え過ぎており、彼らは皆、ヨーロッパの国々に移民し、助けを求め、難を逃れたいと思っているのよ」)
おそらく、上記の言葉はタチェット夫人の皮肉を効かした表現と思うが、アメリカに生まれ育った人々が旧大陸、とりわけ、英国及びイングランドの伝統、歴史に複雑な思いを抱いていたことは間違いないだろう。イザベルの次の言葉がそれをよく物語っている。彼女はいとこのラルフに尋ねる。“Please tell me—isn’t there a ghost?” (「ねえ、教えて頂戴。この屋敷で幽霊見ることができる?」)
イザベルはとある夜、ラルフとウォーバートン卿の3人で深夜に及ぶまで会話を弾ませようとして、タチェット夫人から諌められる。イングランドのきちんとした家柄では若い娘は殿方と夜遅くまで話し込むようなことは致しませんと。イザベルはむっとするが、そういうしきたりなら分かりました、これからも私がこの国でしてはいけないことがあれば、その都度、おっしゃってくださいと夫人にお願いする。イザベルの自立心の旺盛さを物語るやり取りだ。
“But I always want to know the things one shouldn’t do.”
“So as to do them?” asked her aunt.
“So as to choose,” said Isabel.
(「私は自分がしてはいけないことが何であるか、いつも知りたく思っていますのよ、 伯母様」
「してはいけないことをするためにかしら?」
「いいえ、自分がしたいことを選択するためですわ」)
注2)ヘンリー・ジェイムズは1898年からから亡くなる1916年までこの家で暮らした。この家はライの町長を長く務めた地元の名士、ジェイムズ・ラム氏によって1723年に建てられており、地元では「ラムハウス」(Lamb House)と呼ばれている。友人を訪ねてライに来た作家はラムハウスを見て、「一目惚れ」して借家契約を交わしたという。ロンドンの喧騒から離れたこの家で晩年の作品 “The Wings of the Dove” (鳩の翼)や “The Ambassadors”(使者たち)が執筆された。作家はその後、この家を買い取り、1916年に死去後は作家の親類が所有していたが、1948年に「英国と米国の人々の友好の象徴として永久に保存して欲しい」と、ナショナル・トラスト(The National Trust)に寄付された。毎年3月末から10月末の毎週火曜午後と土曜午後、一階部分が有料で一般公開されている。
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