- 2012-09-06 (Thu) 18:19
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“The Picture of Dorian Gray” を読んでいて、気づくのはJapanese という単語が幾度となく出てくるのだ。物語の筋に絡むわけでもなく、日本あるいは日本人がどうのこうのというわけではない。扇子であったり、和紙であったり、机であったりするだけのことなのだが・・・。
ひょっとしたら、ワイルドは日本文化に殊の外、関心があったのではないかなどと思っていた。そうしたら、この疑問点に「答えて」くれるワイルドの伝記に出合った。いや、正確には作家の妻、コンスタンス夫人の人生をたどった伝記だ。“Constance The Tragic and Scandalous Life of Mrs Oscar Wilde” という書名で、2011年に刊行されたばかり。
この伝記本で夫婦ともども日本の文化に大いなる関心を抱いていたことを知った。殊に興味深く読んだのは、コンスタンス夫人が友人の詩人、W.B.イェイツから聞いた日本の動物画にまつわる伝承が “Dorian Gray” の「下敷き」になっているのではという指摘だ。詩人が語ったのは、お寺の壁に描かれた馬が夜中に絵から飛び出し、田んぼを駆け回り、夜明けまえに壁に戻るのだが、早朝に寺を訪れた人が頭上からしずくが垂れてくるので、不思議に思って見上げると、しずくは壁に描かれた馬の体から落ちてきていた、というお話。このお話を夫人から聞いたワイルドが、肖像画が「命」を宿し、描かれた本人に代わり年を取っていくという構想を得たのではと、伝記の著者、フラニー・モイル氏は述べている。私はネズミが絵から抜け出す左甚五郎の落語を思い出した。
伝記本はワイルドとコンスタンス夫人がお互いに一目惚れで恋に落ち、新婚しばらくの間は蜜月だったが、結婚2年後の1886年に夫人が二人目の子供(男子)を生んだころから隔たりが生じるようになっていく、つまり、ワイルドが男色に走って行く経緯を詳述している。劇作家としては “An Ideal Husband”(邦訳『理想の夫』)など人気作を相次いで発表し、ロンドンではまさに「時の人」となるのだが。
ワイルドが「転落」していく大きな要因となるのは、16歳年下のアルフレッド・ダグラス卿との出会いだ。二人の深い仲はダグラス卿の父親、クィンズベリー侯爵の知るところとなり、激怒した侯爵との間で告訴合戦となる。ワイルドにとってはどう見ても「勝ち目」のない無謀な告訴であり、1895年、彼は敗訴後に、卑猥な行為を繰り返していたとして逮捕、投獄される。1897年に釈放され、フランスに逃げ出す。
コンスタンス夫人は夫の逮捕後、子供二人を連れて、欧州各国を転々として、ワイルドからホランドへと名字を変え、親類や友人たちの援助で生きていく。釈放後のワイルドは子供たちと会うことを切望したが、子供たちとも夫人とも再会することなく、1900年に失意のうちにフランスで他界している。(夫人はその前の1898年にイタリアで病死)
(写真は上から、ダブリン市内の公園に設置されているワイルドの像。人気の観光スポットとなっているようだった。1997年10月、ワイルドにとっては孫にあたる作家、マーリン・ホランド氏により除幕されたと刻まれている。下は、ゴールウェイの中心街でも見かけたワイルド像=左)
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