- 2012-08-03 (Fri) 04:48
- 総合
ノッティンガム大学で運よく、作家の展示会が催されていた。ローレンス自身の表現を引用し、「英国国教会の司祭助手のような若い堅物の男」がなぜ第一次大戦、それに続く1920年代に反体制の象徴のような存在になったのか。1930年に44歳で若すぎる死を迎えると、仲間や文学界から相反する評価の声が相次ぎ、評価が分かれたのはなぜなのか、といった興味深い話題が、初公開の文献、資料などとともに紹介されていた。
この展示会開催に尽力したアンドリュー・ハリソン講師に会った。大学のローレンス研究センターのセンター長だ。とても親切な人で展示品の意義を丁寧に説明してくれ、さらには、その後イーストウッドまで車で連れて行ってくれもした。
「ローレンスはイーストウッドに生涯深い愛情を抱いていたようですね?」
「彼はイーストウッドのことを『私の心の祖国』(“the country of my heart”)と呼んでいます。1928年に弟に宛てた手紙の文末では、(故郷で暮らした)19歳のころに戻りたいというようなことも書いています。第一次大戦中はその反戦姿勢が当局からにらまれ、作品も検閲の対象となり、追われるように出国した彼は、イングランドに対しては苦い思いを抱き続けました。しかし、生まれ育ったイーストウッド、特に、森や野原などの田園は別格の存在だったようです」
「ローレンスが死去した直後の評価は人によって大きく異なるのですね?」
「ローレンスの訃報に接し、E.M.フォースターはローレンスが同世代の最も大いなる想像力に富んだ小説家(the greatest imaginative novelist of his generation.)と称えました。T.S.エリオットはその逆でした。親しく付き合った友人の作家の中でも酷評する者がいました。例えば、キャサリン・マンスフィールドの夫のジョン・ミドルトン・マレイという人物はローレンス死後の翌年に発表した本の中で、ローレンスのすべての作品は彼の性的ノイローゼ(sexual neurosis)の所産であると批判しました」
「私は学生時代に読んだ『チャタレー夫人の恋人』が印象に残っているのですが」
「ジェイムズ・ジョイスは作家の死後翌年に『チャタレー』の冒頭2ページだけ読んで、ずさんな英語(sloppy English)と作品を切り捨てました。ローレンスもジョイスの『ユリシーズ』を読もうとしたが、とても読めなかったと語っています。ヴァージニア・ウルフも ”Sons and Lovers” を初めて読んだのは作家の死後でした。作品は高く評価しました。我々は作家はお互いの作品を読んでいると思いがちですが、実際はその逆のようです」
「彼はずっと『チャタレー』で知られる作家であり続けるのでしょうか?」
「『チャタレー』裁判(注)は確かに英国では一大事件でした。英国は今もって抑圧された社会ですが、『チャタレー』が猥褻ではないとした無罪評決は、性的表現の自由の風穴を開けました。ただ、ローレンスはそうした側面だけでなく、多くの魅力を秘めている作家です。多岐にわたる作品を見て下さい。クラス(社会階級)のタブー、性のタブーを乗り越え、多くの国々の文化と接して、彼は時代の先を歩いていた作家だと思います」
(写真は上が、ローレンス作品の魅力を語るハリソン・センター長。下が、ノッティンガム大学キャンパスにある作家の像。1994年に設置された。ローレンスが両手で持っているのはリンドウの花)
注)「チャタレー裁判」 ローレンスの死後30年後の1960年、英国で『チャタレー夫人の恋人』の猥褻性を巡って行われた裁判。出版社のペンギン社が原作を削除なしで出版することを企図。同年10月20日、ロンドン中央刑事裁判所で審理が開始され、1月2日、無罪評決が出た。日本でもその翻訳書が猥褻文書に該当するとして1952年に東京地裁で審理され、第一審判決は訳書自体に猥褻性はないが、販売方法に問題があったとして訳者を無罪、出版社を有罪とした。第二審では猥褻文書と認定し、訳者にも有罪判決が出た。1957年3月の最高裁大法廷でも被告人側の上告を棄却、有罪が確定した。(ここまではブリタニカ国際大百科事典を引用)
Old Bailey(オールドベイリー)の異名で知られるロンドン中央刑事裁判所で裁かれた「チャタレー裁判」は英国中の耳目を集めた事件だった。検察側の一人が、陪審団のモラルに訴えようとして述べた次の言葉がよく引き合いに出される。彼は本書に多くのセックスシーンが描かれていることを非難した上で、“Is this a book you would wish your wife or your servant to read?” (あなた方はこの本をあなた方の奥様や使用人に読ませたいと思いますか?)と尋ねかけたのだ。今このような発言が公的な場でなされるのは想像しがたい。
無罪評決が出た8日後の11月10日に発売された無削除の初版は20万部が発売初日に完売したという。
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