- 2012-07-07 (Sat) 04:56
- 総合
ドーセット郡博物館の展示で気づいたのは、ハーディが自分の本分を小説家としてよりも詩人と見なしていたことだ。ハーディは次のように語っていると紹介されていた。
“In verse is concentrated the essence of all imaginative and emotional literature.” (詩においてこそ、すべての創造的かつ心を動かす文学の真髄が宿っている)
トマス・ハーディ協会の会長であるトニー・フィンチャムさんに話を聞く機会があった。フィンチャムさんはハーディに関する著書もあり、ケント州で開業医をしている。
「彼は小説だけでなく、多くの詩も書いているのですね?」
「その通りです。彼は英国人の中でも19世紀の偉大な小説家として見なされていますが、実は偉大な詩人でもあるのです。生涯で900編以上の詩を書いています。彼の詩は一つをのぞいて1900年以降に発表されていますから、彼は20世紀の偉大な詩人とも呼べると思います」
「小説と詩という二つの異なる分野で業績を残しているわけですね」
「そういうことです。そういう作家は数少ないと思います。彼はもともと詩作に専念したかった。だけど、最初の作品が全然評価されず、見切りをつけました。それなら、小説で稼ごうと。1890年代に書いた小説『テス』や『日陰者ジュード』がヒットし、経済的余裕ができて始めて本来の詩作に励むことができるようになったのです。英国でも多くの人が彼を小説家として記憶していますが、彼の詩は現実には後世の多くの詩人に多大なる影響を及ぼしています」
「彼は二度結婚していますが、子供はいませんね」
「そうですね。彼は長男として生まれ、妹が二人に弟が一人いましたが、母親は子供たちに結婚などしないで、兄弟と姉妹が男女二組のペアになって仲良く暮らすように勧めたそうです。その教えを守ったのか、妹弟は一生独身で通しました。トマスだけが母の教えに背いたことになります。結果として、作家の直系の子孫はいないということです」
ハーディの詩の「触り」でも味わおうと、博物館で手頃な詩集を買い求め、読んでみた。私はどうも詩は苦手で、ほとんど詩集というものを手にしたことがない。言葉を「凝縮」した世界が私の能力を超えていると思えてならない。だが、ハーディの詩は平易な表現で読みやすいと感じた。例えば “One We Knew” と題された詩。この詩は少年ハーディが一歳年下の妹と暖炉に座り、祖母が語る昔話に耳を傾けた時のことを描いた詩であるという。祖母の話に聞き入る兄妹の光景が目に浮かぶようだ。ハーディはドーセット地方の「歴史」への関心と「語り」の魅力をこの祖母から受け継いだのだろう。
その詩は「続き」の欄で紹介。きれいに脚韻がある詩だ。自分の力量の及ばないことは承知の上で、俄仕立ての拙訳も掲載。
(写真は上から、ハーディが1885年から死去するまで暮らした家。マックス・ゲイト(Max Gate)と呼ばれ、ナショナル・トラストの管理する歴史的建造物として、一般公開されている。リビングルーム。暖炉と上の鏡は当時のままだとか)
Owe We Knew
SHE told how they used to form for the country dances –
‘The Triumph’, ‘The New-rigged Ship’ –
To the light of the guttering wax in the paneled manses,
And in cots to the blink of a dip.
She spoke of the wild ‘poussetting’ and ‘allemanding’
On carpet, on oak, and on sod;
And the two long rows of ladies and gentlemen standing,
And the figures the couples trod.
She showed us the spot where the maypole was yearly planted,
And where the bandsmen stood
While breeched and kerchiefed partners whirled, and panted
To choose each other for good.
She told of that far-back day when they learnt astounded
Of the death of the King of France:
Of the Terror; and then of Bonaparte’s unbounded
Ambition and arrogance.
Of how his threats woke warlike preparations
Along the southern strand,
And how each night brought tremors and trepidations
Lest morning should see him land.
She said she had often heard the gibbet creaking
As it swayed in the lighting flash,
Had caught from the neighbouring town a small child’s shrieking
At the cart-tail under the lash….
With cap-framed face and long gaze into the embers –
We seated around her knees –
She would dwell on such dead themes, not as one who remembers,
But rather as one who sees.
She seemed one left behind of a band gone distant
So far that no tongue could hail:
Past things retold were to her as things existent,
Things present but as a tale.
僕らが知っていたその人
祖母は言った。私たちは昔みんな整列して、踊った
曲目は「勝利」とか「艤装終えた新船出港を待つ」
灯りのロウソクは邸宅の板壁を流れ落ち、溝を作った
隙間に置かれた糸心ロウソクもか細い光を放つ
祖母は語った。踊りは動きの激しいステップだった
カーペットやナラの木、そして芝草の上で
紳士淑女が二列の長い列に並んで踊った
規則的な図形を描く、それぞれ一対の動きで
祖母は毎年メイポールを立てた場所を示した
楽団員のステージも忘れずに指摘して
踊りの輪ではズボンをはいた男やネッカチーフを巻いた女が回転し、息を切らした
お互いに最良の伴侶を求めて
祖母は言った。あの日の驚きは尋常ではなかったと
フランス国王が処刑されたことが
フランス革命、ナポレオンは尽きることはなかったと
その野望と傲慢さが
あの男の脅威で英国がいかに戦争の準備に奔走したことか
抜かりはないか、南の海岸に沿って
毎晩毎晩恐怖に震え、狼狽していたことか
ナポレオンが上陸してはいないか、翌朝になって
祖母は語った。何度も絞首台がきしむのを耳にしたと
瞬きもしないうちに刑が執行され、絞首台が揺れる
近隣の町の子供が泣き叫ぶのを聞いたこともあったと
荷車の後ろに手を縛られ、罰として子供が鞭打たれる
帽子をかぶり、見つめる眼差しの先には暖炉の燃えさし
僕らは祖母の足元に座り込み耳を傾ける
彼女は思い出しているわけではない、僕らにとっては遠い昔
祖母は今もなおそれらの光景を目にし続ける
祖母は一緒にダンスを踊った仲間たちから一人置き去りにされたのだ
彼女がどんなに叫んでも、彼らの耳にその声が届くことはない
祖母が語った事柄は彼女にとって過去のことではなく現在のことなのだ
僕らには昔話に過ぎなくても、彼女の目に色あせることはない
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