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エミリー・ブロンテ(Emily Brontë)③

  • 2012-08-10 (Fri) 02:19
  • 総合

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 ヒースクリフは最後、キャサリンとの「霊界」での再会を求め、そこでの「幸福」を求めるかのように、何日も食事を断ち、息を引き取る。鬼気迫るタッチで、ヒースクリフが「衰弱死」を求める過程が描かれる。ヒースクリフは死後、希望通り、キャサリンの隣に葬られる。地元ではムーアズ(moors)と呼ばれる原野で二人の亡霊が徘徊しているとの噂がささやかれるようになる・・・。
 ヒースクリフの死後、残されたのは、最後まで彼が心を許すことのなかった義理の娘のキャシーと、教育を受けさせず農場でこき使ってきたヘアトンの二人。最初は険悪な関係だったこの二人のいとこはその後、仲睦まじく結婚を意識するまでになる。二人の関係を温かく見守ってきた女中のネリーはロックウッドに誇らしげに語る。“I shall envy no one on their wedding day: there won’t be a happier woman than myself in England!”(二人の結婚式の日にはあたしゃ、人様のことを羨むことなど決してしやしません。その日にこのイングランドのどこを探したって、あたしほど幸せな女はいやしません!)。この辺りは読んでいて、ほのぼのとさせられた。
 この小説が発表されたのは1847年。発表直後の評判は芳しくなかったようだ。ビクトリア時代の英国民にはヒースクリフの「復讐心」や「亡霊」を連想させる描写などが衝撃的過ぎたのだろうか。
 ブロンテ姉妹が暮らした牧師館は博物館となって残されている。展示品を見ていて、ブロンテ姉妹の当時の暮らしぶりがうかがえた。3人は当初、詩作にも励み、1846年5月には共同で初の詩集を刊行するものの、わずか2冊しか売れなかったという。これを契機に3人は小説に本格的に挑む。シャーロットの場合は1847年10月に “Jane Eyre” を発表(注1)。エミリーとアンは同年12月にそれぞれ、 “Wuthering Heights”“Agnes Grey” を発表する。興味深いのは3人ともに、男性とも女性ともとれる名前で作品を発表していたことだ(注2)。
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 作品の良し悪しを一人の作家として正しく評価されたいという気持ちの現れだったのだろう。今から考えれば想像しにくいが、文学においても「男性の領域」と見なされていたことが分かる。それにしても、一家の3姉妹がそろって「文才」に恵まれていたとは驚きである。ただ、運命は下の二人には過酷だった。シャーロットは “Jane Eyre” が評判を呼び、後の成功につながるが、エミリーとアンは脚光を浴びることはなかった。エミリーはその正当な評価を「享受」することなく1848年に、妹のアンは翌年に後を追うように共に結核で病没している。
 ブロンテ牧師館博物館には平日でも国内外から見学客が絶えないようだ。年間で8万人程度の見学客があるという。日本からの見学客が多いことは①の散策でも十分察しがついた。 
 (写真は上が、ブロンテ牧師館博物館。下が、博物館近くのパブに数日間足を運び、慣れ親しんだ石畳の坂道。雨上がりは対面の丘の緑がことさら美しく見えた)

 注1) “Jane Eyre” の第12章に次のようなパラグラフがある。ヒロインのジェーン・エアの独白だ。ブロンテ姉妹だけでなく、当時の女性が置かれた社会的立場に対する異議申し立てか。今なお、読者、特に女性読者の共感を呼ぶ文章だろう。
 It is in vain to say human beings ought to be satisfied with tranquillity: they must have action; and they will make it if they cannot find it. Millions are condemned to a stiller doom than mine, and millions are in silent revolt against their lot. Nobody knows how many rebellions besides political rebellions ferment in the masses of life which people earth. Women are supposed to be very calm generally: but women feel just as men feel; they need exercise for their faculties, and a field for their efforts, as much as their brothers do; they suffer from too rigid a restraint, too absolute a stagnation, precisely as men would suffer; and it is narrow-minded in their more privileged fellow-creatures to say that they ought to confine themselves to making puddings and knitting stockings, to playing on the piano and embroidering bags. It is thoughtless to condemn them, or laugh at them, if they seek to do more or learn more than custom has pronounced necessary for their sex. 
 (人間は平穏な人生に満足すべきであると言うのは空虚な主張である。刺激を欲しているからだ。刺激が手近になければ、自ら作り出すだろう。何百万人という人々が私の人生と比べてもより平凡な日々を送るよう運命づけられており、彼らはそうした運命に黙々と反旗を翻している。この地球上で暮らす一般大衆の間で政治的な反乱の他に、どれだけの静かな反抗が発酵しつつあるのか、誰も知らない。女性は概して従順であることを求められている。しかし、彼女たちも男性が感じるように感じているのだ。彼女たちはその才覚を遺憾なく発揮したいと考えている。そういう舞台が必要なのだ。彼女たちの兄弟と同様に。彼女たちはあまりの束縛、あまりの沈滞に苦悶しており、同じ立場に男性が立たされたなら、同じように感じるであろう。女性たちがプディングを作ったり、長い靴下を縫ったり、ピアノを弾いたり、バッグに刺繍していればそれで満ち足りた人生ではないかと主張するのは、多くの特権を享受している男性たちの狭量さを示している。彼女たちが慣習に定められたものより、より多くの事柄を学び、行動しようとするのを見て嘲笑するのは思慮に欠けるというものだ)

 注2)ブロンテ姉妹のペンネームは以下の通り。シャーロットがCurrer Bell、エミリーが Ellis Bell、アンがActon Bell。Tom とか Johnといった明確に男性と「推察」できるファーストネームを採用しなかったことについて、シャーロットは「明らかに男性名のクリスチャンネームを名乗ることには良心の呵責を覚えた」と述べている。

Comments:4

tajima 2012-08-10 (Fri) 09:48

ついにブロンテ姉妹に行きつきましたね。「嵐が丘」は20代のころ読んだきりだったので、詳細忘れていました。こんなどろどろだったとは。もう一度、読んでみたくなりました。「ジェーンエア」も面白い小説でした。

nasu 2012-08-10 (Fri) 15:12

田島さん ハワースはとても気にいりました。そう裕福ではなかったブロンテ姉妹のつましい暮らしもうかがえました。時代の「制約」の中で3姉妹が仲良く暮らしたことも分かり、好感度アップでした。今朝は「なでしこジャパン」の敗北で軽い「虚脱」状態です。

やすよ 2012-08-10 (Fri) 21:46

毎回写真も楽しみに見ています。
『嵐が丘』の時代背景にいろいろ感じ入りました。
たまたま読んでいた本の中で、向田邦子がこんなことを言っています。
「『嵐が丘』エミリー・プロンテがもしGパンを知っていたら、あの作品はもっと気楽なものになっていたのではないかと考えたりする」と。
 

nasu 2012-08-10 (Fri) 22:07

やすよさん 向田邦子のその言葉面白いですね。そうかもしれません。ただ、次回最後の項でアップしますが、「衣食住」のうち、当時は「住」が凄い環境のようでしたから、ジーンズが普段着だったとしてもあまり変わりなかったかもしれません。でもそういう発想は私にはできませんでした。そんな発想でこのブログも展開すればより面白いものになるのにと悔やまれます。

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