- 2012-08-08 (Wed) 17:23
- 総合
『嵐が丘』の舞台となった地を訪れたからには、とりあえずは、作品の舞台となった荒野に足を運ばなくてはと当然のことながら思った。石畳の坂道を上ったところにあるハワースの「観光案内所」で尋ねると、嵐が丘のモデルと見られる農家の廃屋まで散策路が設けられており、4時間もあれば往復できるとの由。
晴れ上がった週末、ゆっくり歩いてみた。エミリーたちが暮らしたブロンテ牧師館博物館の脇を通り抜けて牧場を歩く。羊やヤギがのんびり草を食んでいる。観光客に慣れているのか、近づいてもほとんど気にしない。やがて目の前に地元の人々がムーアズ(moors)と呼ぶ原野が広がる。私はよくは承知していないが、ヒース(heath)とも呼ばれ、ツツジ科の灌木が茂る原野だ。8月末になると、パープル(紫色)一色の美しい風景となるという。残念、私はここでそれを目にすることはない。
イングランド南部のルイスでヴァージニア・ウルフが住んだモンクスハウスを訪ねた際は標識がなくて不安になったが、ここは要所で標識がでているのがありがたい。しかも「歩道」と日本語でも記してある。よほど日本人観光客が多いようだ。「ブロンテの橋」と表記された谷川に差しかかった。案内板によると、1989年の洪水で破壊されたので翌年に再建したと記してある。土壌のせいか、水面下の石が茶褐色をしており、清浄な谷川には見えないが、果たして。さらに上ったところで湧き水に遭遇したが、これはきれいな水だった。さすがに飲みはしなかったが。
写真を撮りながら、双眼鏡をのぞきながら、ゆっくり歩いたので、ウザリングハイツのモデルと見られている石造りのコテッジにたどり着くのに2時間近くかかっていた。緩やかな坂道のところもあり、少し汗をかいた。しまった。水を持参していない。コテッジは廃屋であり、売店や自動販売機などの類はない。ハワースは日中でもすごく涼しいので、水のことは全く頭になかった。
農家の壁に次のような主旨の案内文が彫り込んである。「この農家はエミリー・ブロンテの『嵐が丘』のモデルではないかと見なされている家です。実際の農家は小説の家とは似てはいませんでした。しかし、ブロンテが小説の中の原野を書いた時、彼女の心の中にはおそらくこの家の周りのことがあったものと思われます」。ブロンテ協会が1964年に刻んだ案内文で、ブロンテファンから「あまりに問い合わせが多いので」案内文を設けたということが述べてある。
ハワースの中心部に戻り着いた時はさすがにのどが渇いていた。英国に来て、こんなに汗をかいたのは初めてか。パブの看板が見えたので、飛び込んで、ギネスをワンパイント注文して、喉から流し込んだ。美味い!
『嵐が丘』を歩いてみての感想は、なるほど、寒さが厳しくなる季節に歩けば、これは荒涼たる思いをかみしめながら歩くことになるのだろうという思いだった。原作の中でもそのような記述(注)がある。
(写真は、『嵐が丘』への散策で目にした光景)
注)1802年の9月、ロックウッドがウザリングハイツを再訪したシーンだ。
It was sweet, warm weather – too warm for travelling; but the heat did not hinder me from enjoying the delightful scenery above and below: had I seen it nearer August, I’m sure it would have tempted me to waster a month among its solitudes. In winter nothing more dreary, in summer nothing more divine, than those glens shut in by hills, and those bluff, bold swells of heath. (暖かく心地よい天気だった。旅をするには暖か過ぎるとも言えた。しかし、この陽気は眼下、頭上の光景を味わおうという気持ちの妨げとはならなかった。もし、9月に入ったばかりの時分だったなら、ここで一人一か月ぐらい過ごしたい誘惑に駆られたことだろう。丘陵に挟まれて流れる谷川や無愛想で荒くれたヒースのうねりの中を歩いていると、冬にはこれほど気が滅入る地はないが、夏にはこれほど素敵に感じる地もまた他にはない)
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