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October 2012

旅の終わりに

 英国とアイルランドをさるく旅もこれで終わり。ビザがまもなく切れるし、お金のこともある。今回は帰りの飛行機のチケットも日本を発つ前に予約してあった。納豆に味噌汁の朝食も恋しい。この辺りが潮時だろう。今この最終稿をヒースロー空港のロビーでアップしている。
 本当なら、もっとカバーしたい作家もいた。書きたい話題もあった。機会があれば、折を見て紹介したいとは考えている。
 本日(水曜)朝、「ベースキャンプ」にしていたケンブリッジのゲストハウスを出た時、雨上がりですがすがしい感じだった。この程度ならイングランドの秋も悪くないが、これから冷え込んでいくのだろう。夏本番のころは夜10時近くまで明るかったが、このごろは夕刻の6時過ぎには夕闇が迫っている。
 とにもかくにも5か月と少し、陳腐な表現だが、今回の旅もあっという間に過ぎたような気がする。この歳(58歳)になると、何だか、月日の経つのがとても速いような感じだ。同年輩の人には共通する思いだろうか。
 アフリカ、アメリカに続き、英国とアイルランドを訪ね歩き、本人はこれで結構満足している。新聞記者としての「卒業レポート」を書き終えたような心境だ。大学の「卒業論文」と異なり、他から審査されることがないので気は楽だ。
 それにしても、英国を代表するイングランドを中心に歩いて、この国がかくもバラエティーに富んでいることに驚いている。英国は面積では日本と大差ない。イングランドだけなら、当然日本よりさらに小さい国となる。それでも、行く先々で目にした自然の景観、街のたたずまいは優雅で目を見張るものがあった。まさに、ロンドンだけでイングランドを英国を語るなかれである。街のいたるところに日本では考えられないような古い石造り、煉瓦造りの建物が残り、今も一般の商家、住家として機能していた。石造り、煉瓦造りと木造ゆえの差異なのか、地震の少ない国ゆえの差異なのかと羨ましく思ったりもした。
 これで私の海外をさるく旅は終わり。来春からは何か仕事を探して、新しいことにチャレンジするつもりだ。仕事があればの話だが。なければ、宮崎の田舎に引きこもり、野良作業でも手伝って糊口を潤そうかとも考えている。「イソップ物語」で言えば、キリギリスのような人生を歩んできた身としては、秋風が身に染みる。秋風と言えば、11月を前に戻りたかったのはもう一つの理由がある。これまでの旅では冬のど真ん中に帰国していた。虚弱体質の身には寒さがこたえた。風邪にも悩まされた。私は四季の中で「人恋しくなる」秋が一番好きだ。3年連続で日本の素晴らしい秋をやり過ごしたくなかった。
 さあ、これで九州に帰ろう。知力、財力はともかく、気力、体力は有り余っている。また皆さんとこの欄でお目にかかることを願って、ひとまず、休止符を打ちたい。頭の中ではなぜか、「アサンテ・サナ」(asante sana)と「クワヘリ」(kwaheri)というスワヒリ語が浮かんでいる。「ありがとう」と「さようなら」を意味する言葉だ。アサンテ・サナ そして クワヘリ!

ウエストエンド

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 今回の旅で楽しみの一つはウエストエンド(West End)の観劇だった。
 一番好きなのは、ストレートプレイ(straight play)と呼ばれる「歌唱のない一般的な舞台演劇」だ。ウエストエンドでは世界一長く公演しているストレートプレイがある。アガサ・クリスティの推理劇「マウストラップ」(The Mousetrap)。ロンドン勤務時代には日本から友人知人が来ると、この劇を観に連れて行った。久しぶりだったので、粗筋は覚えていたものの、細部は忘れていて、肝心の犯人の目星も怪しいものだった。1952年11月初演というから、延々60年続いていることになる。この辺りは日本の演劇界が逆立ちしてもかなわないかと思う。ただ、一つ気になったのは、役者の演技がかつてほど冴えていなかったような気がしてならなかったことだ。修業中の代役(understudy)のせい?
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 「ブラッドブラザーズ」(Blood Brothers)も何回観たか分からない。これは粗筋も良く覚えているし、特段再び観ようとは思っていなかった。しかし、新聞の劇場欄を読んでいて、10月末でロングランのこのミュージカルが終止符を打つと書いてあった。驚くとともに、それなら、せっかくの機会だから最後の公演を観ておかなくては!
 ロンドン五輪の影響でウエストエンドの劇場はこの夏の客足が落ち込んだともどこかで読んだような気もする。ウエストエンドの一角にあるフェニックスシアターに足を運んだ。
 公演が終わりに近いこともあってか、劇場はほぼ満席のようだった。私の前には地元の高校生ぐらいの年齢の少年少女が大勢座っていた。「ドラマ」の授業の一環で来たとのことで、公演中にノートにメモ書きのボールペンを走らせる少女もいた。
 この劇は、1960-80年代のイングランドが背景になっており、生後すぐに生き別れになった双子の若者及び周辺の人々の悲劇を描いている。貧困ゆえに母親は双子の一人、エディーをメイドとして働いていた裕福な家の子供のいない夫人に、請われるままに「譲渡」する。夫人はこの子供が生みの親やもう一人の双子、ミッキーと出会わないように腐心するが、運命のいたずらか、行く先々で二人の双子は出会ってしまい、意気投合、真相を知らないまま、ブラッドブラザーズ(同志)としての誓いを立てる。エディーは大学に進み、公務員となる。ミッキーはエディーも良く知る幼馴染のリンダと結婚はするものの、犯罪に手を貸したことから転落の人生を歩む。ミッキーは何とか立ち直ろうとあがき、エディーも陰ながらリンダを通して手助けする。エディーの善意をリンダ目当てと誤解したミッキーはエディーの職場に乗り込み、銃を向ける。そこに駆けつけた母親が狼狽の果てに、二人は実の双子だと告げる。結果は無残にも・・・。
 私の前に座っていた女子高生たちはハンカチを濡らしながら観ていた。いつも以上の盛大なカーテンコールだった。これだけ多くの人たちに受けている劇がなぜ終演となるのか? ふと思った。失業や不況、閉塞感は今も英国や欧州全体を覆う大きな問題だ。この劇が訴えている問題の深刻さは何ら変わりはない。劇場にわざわざ足を運ばなくても、それは日々体験していること。客足が鈍っていたのは何も、ロンドン五輪の影響だけでないのかもしれないと思った次第だ。
 (写真は上が、「マウストラップ」の劇場。下が、「ブラッドブラザーズ」の劇場)

サマセット・モーム(Somerset Maugham)④

 モームは1965年に没している。もう少しで92歳の誕生日を迎えるところだった。ロンドンでチャーチル元首相のクレメンタイン夫人を描いた一人芝居を観ていて、チャーチルとモームは生年、没年が全く同じであることに驚いた。二人は面識もあり、前項で紹介した伝記本ではこの二人が仲良く一緒にくつろいでいる写真が掲載されていた。だが、二人の人生には決定的な相違点があった。世界の歴史に名を残す宰相が「自分の人生で最も輝かしい業績は私の妻に結婚を承諾させたことだ」と語るほどの愛妻家だったのに対し、モームの結婚生活は最初からあまり愛情といったものは感じられず、ほどなく作家にとってシリー夫人が憎悪、嫌悪の対象としか見えなくなっていったことだ。
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 モームはすったもんだの末に1929年にシリー夫人と離婚。再び先述の伝記を引用すると、モームは別れた妻について次のように語っていたという。 “She made my life utter hell,” he would say, bitterly referring to Syrie as an “abandoned liar” and the “tart who ruined my life”, and describing her as “[opening] her mouth as wide as a brothel door” in her constant demands for money.(「彼女は私の人生を全くもって地獄にした」とモームはよく語った。彼女のことを「嘘つきの尻軽女」とか「私の人生を駄目にした売春婦」などと口汚く呼ぶこともあった。彼女が常にお金を要求するさまを「彼女の口は売春宿のドアのよう」と表現することもあった)。凄まじい表現だ。愛情のかけらも感じられない。
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 モームは一人娘のライザを可愛がるが、最晩年は秘書も絡んだ財産争いで彼女と醜い法廷闘争を繰り広げる。長年の愛人でもあった秘書が年老いた作家を自由に操った可能性が強いが、世間の評判はこの法廷闘争でがた落ちとなる。文壇の友人たちも彼の元を去って行く。伝記本には最後のロンドン訪問、モームが居住していた南仏からロンドンを訪れ、お気に入りの高級会員制クラブ「ギャリック・クラブ」を訪れた時のことが書かれている。彼が一階のバーに入っていくと、居合わせた全員がピタッと話をやめ、すぐに何人かのメンバーはこれ見よがしにバーから立ち去った。モームは打ちのめされたという。
 私はモームについて、専門家の見解を聞こうと努力はしてみたつもりであるが、不運にもそういう人には巡り合えなかった。大学などでモームのことを研究しているのは稀なのか。彼は生前の文壇でもあまり重く見られることはなかったようである。同時代で言えば、ジェイムズ・ジョイスやヴァージニア・ウルフたちの方がはるかに脚光を浴びた。それは本人が一番認識していたようでもあるが。
 といっても、彼の影響を受けた作家がいないわけではない。ジョージ・オーウェルはモームを尊敬していたと伝えられる。モームの1世代後に生まれたオーウェルの伝記を読んでいたら、彼がモームの「無駄をそぎ落とした文体」と「語りの力」に引きつけられていたという文章(注1)があった。モームが最も得意とした分野は短編小説。娼婦を善導しようとした宣教師はなぜ自死を選んだのか? 娼婦が大団円で “You men! You filthy, dirty pigs! You’re all the same, all of you. Pigs! Pigs!” と叫ぶ “Rain”(邦訳『雨』)は誰もが認める傑作短編小説だ。私もきっとピッグの一人だろう。
 (写真は上が、モームのキングススクール時代の写真。図書室に展示されていた。イスに座っているグループの右から2番目の少年がモーム。ロンドン・ウエストエンドにある「ギャリック・クラブ」。メンバーの紹介がなければ中に入れない高級クラブ)

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サマセット・モーム(Somerset Maugham)③

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 少年モームはやがてウイッツタブルを離れ、カンタベリーにあるキングススクールに寄宿して学ぶようになる。この学校生活も辛かったようだ。先に述べた「吃音症」ゆえに級友たちや時には教師からもいじめのような扱いを受けていた。興味深いのは、後年そのモームが母校に対する篤志家となって学校施設の改善に尽力していることだ。
 カンタベリー大聖堂を仰ぐキングススクールを訪れた。モームがこの学校に寄宿した時は男子校だったが、今では男女共学となり、13歳から18歳の約800人の生徒が学んでいる。日本で言えば、中学と高校が一緒になったような学校で、この国では紛らわしいがパブリックスクールと呼ばれる私立学校だ。裕福な家庭の子供たちが多い印象を受けた。
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 相手をしてくれたのはスクールの図書館で記録係の仕事をしているピーター・ヘンダーソンさん。古い校舎の二階にある図書室に案内してくれた。「この図書室はモームの寄付金でできました。それだけでなく、彼は2千冊の蔵書を贈呈してくれました」。私たちが図書室に入って行った時、生徒が学習をしているところだった。突然のちん入者の私に全員、起立して敬意を表してくれた。
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 私は初めて知ったが、モームは第二次大戦後にはこの学校の理事となり、学校の熱心な後援者となっていた。「モームは確かに学校生活を満喫したとは言えないでしょう。でも、彼が慕った校長もいて、すべてが暗い日々ではありませんでした。だから、彼は死去後に、希望に沿って彼の灰は当時の慕った校長が住んでいた家の前のこの庭にまかれました」
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 私がモームをテーマに卒論を書いた時、モームの同性愛疑惑についても言及したような記憶がある。モームを理解する上ではキーワードだと思っていた。今回の旅で格好の伝記に遭遇した。2009年に刊行された “The Secret Lives of Somerset Maugham”(Selina Hastings著)という本だ。モームが隠し通した同性愛の人生が数々の資料、多くの証言によって明らかにされている。
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 それによると、モームは一度はシリーという名の女性と結婚して、女児ライザをもうけているが、彼が愛したのは生涯を通して男だった。男の秘書は愛人でもあった。人生の後半を過ごした南仏リヴィエラや旅先で秘書を通して若い男の子を「買い求め」たりしていた。彼の親しい友人たちには周知の事実だったが、モームは自分の性的志向が世間に知られることを終生恐れた。オスカー・ワイルドが歩んだ人生が脳裏にあったことは間違いないだろう。モームが生きた時代は同性愛に対しより寛容になっていたとはいえ、成人男性の同性愛が法に触れないとされるのはモームが死去した2年後の1967年のことである。
 1938年に刊行された回顧録 “The Summing Up” (邦訳『要約すると』)に彼の恋愛感を良く示している一節(注1)がある。同性愛志向はともかく、相手を愛し、愛される人生を手にするのがいかに難しいかは多くの人が共鳴する思いだろう。最愛の母親亡き後、モームはずっと「愛の放浪者」だったような気がする。
 (写真は上から、キングススクールからカンタベリー大聖堂を望む。モームの貢献大の図書室。モームのメモ書きが見える蔵書。モームの灰がまかれた庭。それを示すプレート)

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サマセット・モーム(Somerset Maugham)②

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 モームは1874年、父親が英国大使館の顧問弁護士をしていたパリで生まれている。上に3人の兄がいたが、両親が相次いで病死したため、10歳の時にイングランド南東部ケント州のウィッツタブル(Whitstabe)という町で牧師をしていた叔父の家に一人引き取られる。叔父は陰気で面白みに欠ける人物だったようだ。叔父夫婦には子供がなく、兄たちともほぼ没交渉だったため、モームは実質一人っ子のように育った。
 ウィッツタブルはカンタベリーからバスで35分程度の距離にある。“Of Human Bondage” ではBlackstable となっている。「white」が「black」に。晩年まで思慕の情を抱き続けた母親を亡くし、見知らぬ土地で陰鬱な少年期を送ったことがうかがえる。
 そのウィッツタブルは拍子抜けするほど、モームの「足跡」は残っていなかった。少年モームが1880年代に歩いたと思われるオックスフォードストリートからハイストリート沿いには当時の建物が残ってはいたが。地元の図書館にもウィッツタブル記念館にもモーム関連の展示室やコーナーはなかった。こちらがモームの足跡を探していると知ると、パソコンや電話でいろいろ、調べてくれたが、モームのことを地元の作家が書いた小冊子を見つけた程度の収穫しかなかった。記念館のレジにいた係の婦人に「モーム関連の展示コーナーを設けたら観光客に喜ばれるかも」と話したら、真剣に耳を傾けていた。
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 少年モームが時に旅心をかきたてた北海を臨むウィッツタブルの浜辺。私がたたずんだ時は6月中旬の爽やかな時だったが、冬には寂寥感漂う浜辺になるのだろう。牡蠣の貝殻が無数にある。そう言えば、oyster と看板に書き立てたレストランを通り過ぎたような。尋ねてみると、ウィッツタブルは牡蠣や海の幸で名高い町だという。その中でもWheelersというレストランが特に有名だと聞き、のぞいてみた。ハイストリート沿いにあり、表がピンク色に塗ってあり、ドアを開けると、魚が置かれたショーケースがあり、奥にダイニングテーブルがあるレストランになっていた。家庭的な雰囲気の小さいレストランだ。
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 メニューから、12個の牡蠣(9.5ポンド)と8£のクラブケーキ(Crab Cake)を注文した。牡蠣がとても美味かった。お店の人の話によると、今の牡蠣は養殖牡蠣で、天然ものが揚がる秋口にはもっと美味しい牡蠣が食べられるとか。この店は1856年の創業というから、少年モームもこの店をのぞきこんだことぐらいはあるかもしれないと思った次第だ。ロンドンから日本人ビジネスマンがこの店に良くやって来るとも聞いた。
 「いや、これは美味い」と舌鼓を打っていたら、お店の人はが「不思議よね。昔は貧しい人たちの食べ物で、金持ちの人は見向きもしなかったなんて」と言う。そう、物の本によると、牡蠣はディケンズが活躍した19世紀には貧者の食べ物だった。女漁師たちが通りの角などでかご一杯に詰めた牡蠣を通行人に売っていたとか。貧者にとっては普段の食べ物であり、富める者にとってはフルコースに取りかかる前に、口の中を清めるために食されたと書いてある本にも出合った。モームの話ではなく、牡蠣の話になってしまった。
 (写真は上から、牡蠣殻が目立つウィッツタブルの浜辺。牡蠣で知られるレストラン。そこで食した牡蠣。評判の店だけのことはある味だった)

サマセット・モーム(Somerset Maugham)①

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 今回の旅もようやく最後の作家にたどり着いた。サマセット・モームで「打ち止め」としたい。私は学生時代にこの作家を卒論のテーマにした。なぜ彼を選んだのか。おそらく、高校時代の受験参考書に彼の随筆か何かで掲載されていて、その平易な英語表現にひかれたのではないかと思う。
 卒論ではモームの代表作 “Of Human Bondage” (邦訳『人間の絆』)のことを中心に書いた。30年以上前のことだから記憶はおぼろげだが、作品の中で幾つか印象に残っていることがあるので、その辺りのことを取り上げてみたい。
 “Of Human Bondage” はモームの自伝的小説であると言われる。1915年に発表されている。彼は1874年生まれだから40歳代を迎え、劇作家としての成功を背景に、自信に満ちていたころと推察される。物語はモームの実人生のように、両親を病気で失い孤児となった若き主人公フィリップが牧師の伯父夫婦に引き取られ、現実に失望しながらも自立していく成長の過程が綴られている。
 フィリップは叔父夫婦の希望に反し、牧師の道に進むことを拒否し、好きな絵画を学ぶためにパリに行く。ここでボヘミアン的日々を享受するようになり、人生の意味を模索する。印象に残っているのは、今で言えばメンターのような存在となる芸術家がフィリップに語る言葉だ。曰く、人生は「ペルシャ絨毯のようなものだ」。フィリップは最初意味が分からず、煩悶するが、やがて、彼が意図したところを理解する。「人生に絶対的なものはない。各自が好きなように生きればいいのだ。ペルシャ絨毯を織り成していくように、各自がそれぞれの人生を織っていけばいいだけのことだ」と。
 こうした思いに至ったところで、人生とは何ぞや、生きることとは何ぞやと問うた東洋の王様の逸話が紹介されている(注1)。この命題を課された一人の賢者が500冊の膨大な本にまとめて参上する。王様は公務に多忙でそんな量の本など読む暇はない。もっと簡潔にと命じられた賢者は20年の歳月をかけて50冊程度の本に収める。齢を重ねた王様にはこれも読破することは無理。それでさらに短くしろと賢者に命じる。再び20年が経過し、年老い、白髪となった賢者が今度は1冊の本を手にやって来る。だが、王様は死の床に就いており、1冊と言えども本を読むことなど不可能。賢者は王様に生きることの意味を一行で説明する。「人は生まれ、苦しみ、そして死んでいくのです」
 フィリップは孤児であるだけでなく、片足が不自由というハンデを背負ってこの物語に登場する。「吃音症」(stammer)の悩みを終生抱えて生きたモームのハンデは肉体的障害で表現されている。フィリップは毎夜、神様に一心に祈る。明日の朝、目覚めたら不自由な足が治っていますようにと。祈りは聞き入られず、彼は信仰、宗教と「決別」する。宗教的な束縛からの「解放」に続き、パリでの生活で人生の「無意味さ」を悟ったフィリップは至福感を味わう。偉くなろうが、人生に失敗しようが、宇宙の壮大な時の流れの中では取るに足らない。あくせくすることはない。代表作を執筆した当時のモームの人生哲学でもあったのだろう。
 (写真は、ロンドン・ウエストエンド。劇作家として大成功を収めたモームの作品はかつてここの劇場街で何作も同時に公演されるほどの人気だった)

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ウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare)④

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 私が驚くのはシェイクスピアが生きたころは、現代のような辞書がなかったということだ。彼は辞書なくして文章を綴った。それだけ「自由気まま」に書くことができたという見方もできるのだろうが、うーんと唸るしかない。
 バーカムステッドで会った詩人で音楽家のジョナサン・ステッフェン氏は「シェイクスピアの時代はイタリアのルネッサンスの作家たちに影響を受け、我々が今考えている以上に知的刺激がある時代でした。シェイクピアが抜きんでてユニークなのは、彼は自身が育ったウォーリックシャーの方言をふんだんに作品に投じていることです」と語る。「彼の作品に登場する人物には時代を超えてリアリティーがあります。だから、今なお、教育の場で劇場で創作の世界で彼の作品が愛されています。注目に値するのは、英国国教忌避のカトリック教徒であったシェイクスピアが『リチャード二世』など権力にある側(エリザベス女王)から見れば政治的に生臭いテーマの歴史劇を発表しても、咎められることなく活動ができたということです」
 没後400年を経ても、シェイクスピアの作品で接する登場人物の台詞の一言一句は今も瑞々しい。ケンブリッジ大のモードリンカレッジの庭園では喜劇 “As You Like It” (邦訳『お気に召すまま』)を観た。ヒロインのロザリンドが “Do you not know I am a woman? when I think, I must speak.” (私が女であること忘れたの? 女は頭に浮かんだことは口にするものなのよ)と語る場面では観客はどっと笑った。こうしたウィットは今もなお冴えわたっている。
 大英博物館で開催中のシェイクスピア展に足を運んだ。文豪が生きた時代がイングランド、特にロンドンとの関わりを中心に紹介されていた。エリザベス女王からジェイムズ1世の世に移行し、1605年11月に起きた改宗カトリック教徒のガイ・フォークスが首謀した火薬陰謀事件(注1)を題材に “Macbeth” が書かれ、assassination(暗殺)という単語がこの時初めて「登場」したことなど興味深いエピソードの数々だ。
 シェイクスピアの作品は思わぬところでも読まれていたようだ。南アフリカがまだアパルトヘイト(人種隔離政策)体制下にあった当時、反アパルトヘイトの闘士が投獄されていたロベン島の監獄でもシェイクスピアが愛読されていたという。その実物の本(シェイクスピア全集)が展示されていた。インド系の活動家がこの本をこっそり監獄に持ち込み、ヒンズー教の経典のように表紙を装って、囚人たちが回し読みしていた。ネルソン・マンデラ氏も愛読者の一人で、彼が好んだ一節には署名が添えられていた。
 その一節は “Julius Cesar” の中で、夫のシーザーが暗殺されるのではないかと案じる妻のキャルパーニアに対し、古代ローマの将軍が語る言葉だ。「臆病なる者は死を恐れるがゆえに何度も死ぬ。勇敢なる者が死に向き合うのは一度だけだ」(注2)
 南アの虐げられた人々のために生涯を捧げたマンデラ氏だけに「説得力」がある。私はこれまで(飛行機に乗る都度)何度死んだことだろうか!
 (写真は、シェイクスピア展が催されているロンドンの大英博物館。いつ行っても多くの観光客で賑わっている。シェイクスピア展は例によって写真撮影厳禁)

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ウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare)③

 前項でロンドンのグローブ座の観劇を書いた。もう一つ書いておきたいことがある。公演の途中から幾度となく強い雨に見舞われた。私は屋根のあるイス席に座っていたので、全然問題がなかったが、平土間の観客はさぞ興をそがれたことだろう。少し風もあり、かなり冷え込んでもいた。ところが、冷たい雨もなんのその、立ち見をあきらめる客は皆無に近かった。海外からの観光客も少なくなかったではあろうが、これは印象に残った。
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 オックスフォード大学のボドリアン図書館にある広場で観た ”“Hamlet” でも、雨に見舞われた。夏限定のオープンエアでの公演で、公演開始の夜7時45分ごろには雨も上がり、予定通りに開演したのだが、途中からまた雨が降り始めた。それでも、集まった320人ほどの観客で席を立つ人は私が知る限り、一人もいなかった。用意していた雨合羽を被り、雨をさして気にする様子もなく劇に見入っていた。
 ロンドンに到着して間もないころ、BBCテレビが “Simon Schama’s Shakespeare” というタイトルの特別番組を放映していた。歴史家として名高いサイモン・シャーマ氏がシャイクスピアの魅力、醍醐味を紹介する番組だった。印象的だったのはシャーマ氏が冒頭に語った言葉だ。概ね次のように語っていた。「クリケットがなくなっても、プロムス(注1)のラストナイトの公演がなくなっても、エンパイア(英連邦?)がなくなっても、イングランは大丈夫、しかし、シェイクスピアなくしてはイングランドはあり得ない」と。日本にはこのようなレベルにまで「称揚」できる文人はいないかと思う。
 番組ではシェイクスピアが生まれた時代の特異性を指摘していた。すなわちイングランドは当時、カトリック教から決別してプロテスタントの英国国教会として再出発していた。カトリック教時代の教会の壁画などは「しっくいを塗って人目につかないようにされ」(ホワイトウォッシュ)その空白を補うものが必要であった。それはワード、言葉だった。シェイクスピアはイングランドがまさに言葉を必要としていた時代に生まれたのであり、彼は庶民の娯楽であった芝居の世界で、言わば水を得た魚のように物語を紡いでいった。
 また、カトリックの呪縛から解放されたイングランドは自分たちが一体誰であるのかというアイデンティティーも模索しなければならなかった。シェイクスピアはイングランドにそのアイデンティティーを与えたのだとシャーマ氏は力説していた。タイムズ紙のレビュー(注2)をそっくり「引用」すると、シャイクスピアはイス席に座っている富める観客も平土間の庶民も一緒に楽しむことができる劇を書いた。シェイクスピアはイングランド人のアイデンティティーを確立するに当たり、イングランドの過去の物語に題材を取った。彼はイングランドの階級闘争を描いた最初の詩人となった。また、縦横無碍に英語を操り、その結果として英語は言語としての裾野を広げ、生き生きとしたイメージを宿し、今日の我々が世界をより光あふれる色彩で見つめることを可能にした・・・。シェイクスピアなかりせば、今の英語の表現の豊かさは存在せずとの主張だ。
 (写真は、オックスフォード大学のボドリアン図書館の広場で行われた「ハムレット」劇。雨合羽を羽織っての観劇となった)

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ウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare)②

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 ハムレットがつぶやく言葉、“To be, or not to be, that is the question.”(「生きるべきか死すべきか、それが問題だ」)で広く知られるシェイクスピアの名作 “Hamlet”
 新潮社版の福田恆存氏の訳本を再読していて、次のようなシーンで手がとまった。第五幕第一場で、オフィーリアを埋葬する墓場でそうとは知らないハムレットと道化役(墓堀人)が交わす会話。道化はハムレット王子がデンマークからイングランドへ追いやられたと語るので、ハムレットは「で、どうして王子はイギリスへ追っぱらわれたのだろう?」と尋ねる。道化は答える。「どうしてといって、それ、気がちがったからでさあ。あそこなら正気になる。もっとも癒らなくたって、あそこじゃ平気だがね」と。ハムレットは重ねて尋ねる。「どうして?」「あそこなら人目はひかない、あたりがみんな気ちがいだからね」というやりとりだ。
 シェイクスピアがイングランド人だから、このような自虐的なブラックユーモアも許されたのであろうかと思う。
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 原文では以下のようになっている。
 Hamlet. Ay, marry, why was he sent into England?
Clown. Why, because ’a was mad. ’A shall recover his wits there; or, if ’a do not, ’tis no great matter there.
Hamlet. Why?
Clown. ’Twill not be seen in him there. There the men are as mad as he.

 ハムレットは敬愛する父親の王が王の実弟、自分にとっては叔父の奸計で毒殺されたことを、亡霊となって現れた父親から知らされる。王位だけでなく、王妃、自分にとっては母親をも略奪され、ハムレットは王位に就いた叔父へ復讐を誓う。自分の意図を悟られぬために狂気を装うが、これが仇となり、結果的にお互いに心を寄せるオフィーリアの死を招いてしまう。最後にリベンジは果たせるものの、自分と母親の命も奪うことになる。シェイクスピアの悲劇の中でも最高傑作と称される作品だ。
 こういう作品を読むと、英文学の「奥行」に思いを馳せざるを得ない。シェイクスピアが生まれた1564年は日本では戦国時代の永禄7年。『ハムレット』は1600年頃に書かれた作品だとか。
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 冒頭に紹介したハムレットのつぶやきの後に、以下のような独白が続く。この辺りは昔も今も多くの人が共感する部分だろう。人は死んだらどうなるのか、死後の世界というものがあるのだろうか、あるとしたら、どういう世界なのだろう。不安だらけだから、現在の生に執着する。
 「それでも、この辛い人生の坂道を、不平たらたら、汗水たらしてのぼって行くのも、なんのことはない、ただ死後に一抹の不安が残ればこそ。旅だちしものの、一人としてもどってきたためしのない未知の世界、心の鈍るのも当然、見たこともない他国で知らぬ苦労をするよりは、慣れたこの世の煩いに、こづかれていたほうがまだましという気にもなろう」(福田訳・原文は続きで)
 (写真は上から、シェイクスピアの故郷、ストラットフォード・アポン・エイボンに残っている彼の生家。シェイクスピア劇のさわりの部分を即興で演じて観光客を楽しませていた。公園で観光客を出迎えるハムレット像)

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ウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare)①

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 シェイクスピアは私にとって「無縁」に近い苦手な作家だった。英米文学が専攻みたいなものだった学生時代にもほとんど「素通り」してきた。第一、原書で二三の劇を読んでもほとんど理解できなかった。(当時は)こんなに読みづらいのを無理して読むことはないと思っていた。
 今回の旅に際して、「良薬は口に苦し」の心境で、幾つかの劇を改めて読み直した。多分現代英語への翻訳が格段に良くなっているのか、学生時代よりは楽だった。シェイクスピア劇は読むよりも観て楽しむものだと多くの書に書いてある。ロンドン勤務時代いくつかシェイクスピア劇を観たことはあるが、そう大きな喜びまでは感じなかった。
 今回はきちんとできれば、複数のシェイクスピア劇を観てみようと思っていた。幸い、今年はロンドン五輪にも合わせ、英国各地でシェイクスピア祭典が催されていた。オックスフォード、ケンブリッジ、ストラットフォード・アポン・エイボン、ロンドンでシェイクスピア劇をたっぷり堪能した。
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 やはり直近の記憶が新しい観劇の感激が一番か。(駄洒落ではない)。ロンドンのグローブ座(Globe Theatre)で数日前に見た “Twelfth Night”(邦訳『十二夜』)は素晴らしかった。収容キャパの1600人に近いのではないかと思われるほど詰めかけた観客のカーテンコールの拍手喝采がいつまでも終わらない。私はケンブリッジへの帰途の最終電車の時刻が迫っていたため、一刻も早く地下鉄の駅に走り出したかったのだが、「いいや、これで乗り遅れても良しとしよう。それだけの価値あるものを味わわせてもらった」と腹をくくり、最後まで拍手し続けた。(最終電車には間一髪間に合った)
 “Twelfth Night” で脚光を浴びる登場人物の一人は堅物の執事、マルヴォーリオ。この役をテレビでも良く見かける人気俳優、スティーヴン・フライが演じていた。見物はマルヴォーリオが彼のことを心よく思っていない周囲の連中の策略で、彼が仕えている伯爵令嬢、オリヴィアの偽の恋文の指示通り、「黄色いストッキング」に「クロスガーター」姿で現れる場面。アポン・エイボンで観た “Twelfth Night” はRSCと呼ばれるRoyal Shakespeare Company の公演で、上記のシーンがとてもエロチックで観客に大受けだった。それに比べ、フライ演じるマルヴォーリオの姿は「抑制」が効いていてむしろこちらに好感を抱いた。
 RSCの公演は女性の役者もいたが、グローブ座の公演は男性の役者だけで演じていた。マルヴォーリオが秋波を送るオリヴィアも男性が演じていたが、これも出色の演技だった。男性が演じていることが分かっているからか、「彼女」が片思いの恋の熱情に駆られて取り乱す場面では爆笑の渦だった。
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 グローブ座の公演は人気があるようで私が電話で確認した時はチケットは完売状態だった。キャンセル待ちにかけてテムズ川南岸のサウスバンクと呼ばれる地区にある劇場に足を運んだ。グローブ座はシェイクスピアが活躍したころの劇場を模して復元され、オープンしたのは1997年。私はロンドン勤務時代に再建中のグローブ座を取材で訪れたことがある。グローブ座の係りの人が親切に応対してくれたことはかすかに記憶に残っているが、どういう記事を東京に送ったのか全然覚えていない。
 (写真は上から、観光客で賑わうロンドンのグローブ座。夜間は対岸のセントポール寺院が美しく映える。劇場中央部は屋根がなく、舞台に近い平土間は立ち見となる)

グレアム・グリーン(Graham Greene)④

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 バーカムステッドでは一泊の宿を提供してくれた夫妻だけでなく、多くの親切な人々に巡り合った。フェスティバルの創設者の一人でもあり、グリーンが学んだバーカムステッドスクールで英文学を教えていた元教師のデイビッド・ピアースさんもその一人。私の顔を見るや否や、「ワタシワエギリシジンデス」と片言の日本語で話しかけてきて、私の訪問の意図を知るや、グリーンが生まれた家やスクールを駆け足で案内してくれた。
 彼はフィスティバル最終日に催されたスクール見学のガイドであり、私は二度も彼のユーモアあふれる案内を楽しむことができた。グリーンは体育系が苦手の読書好きな少年だった。父親は自分が通うスクールの校長であり、このことや、第一次大戦下の勇猛さが尊ばれる時代背景などから、彼は時に級友たちから疎んじられ、いじめられるなど、辛い日々を送ったこともあったようだ。歴代校長の肖像画が飾られたホールでピアースさんは「皆さん方の後ろにあるドアの向こうはグリーン一家が住む住宅でした。ドアをはさんで、少年グリーンの世界は二つに分けられていました。後年彼が作家として世の中の二面性に目を向け、体制や社会から疎外された人々に温かい視線をそそぐのは、そうした生い立ちにも起因していると思います」と語っていた。
 ピアースさんはバーカムステッドを1974年に再訪した「とても背の高い寡黙な印象」の作家と会ったことがある。「私は不遜にも彼に対し、ここでの学校生活でそういじめられたわけではないのでしょうと質問したことを覚えています。現実には彼は自伝で、学校生活で味わった辛さが作家として成功する力になったと述べています。いじめに遭った少年がいじめた少年たちを見返すために、自分の得意とする分野で頑張ったような感じですかね」
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 グリーンは “The Heart of the Matter” に代表される人間と宗教、神との関係をテーマにした作品の他に、“The Third Man” (邦訳『第三の男』)や “Our Man in Havana”(邦訳『ハバナの男』)などエンターテインメントの小説も手がけている。グリーンの文学に詳しい研究者のマーティン・サンプソン氏は、1991年に86歳で死去した際にノーベル文学賞を受賞していないことが話題になったグリーンはもっと評価されるべき作家と語った。
 「宗教的価値観の違いから世界各地で紛争が絶えない現代社会で、宗教と社会との関係を真正面から見つめたグリーンの作品群はこれからも読まれていく作家だと思います。(宗教的)良心に忠実に生きようとして、自分の犯した罪に苛まれるスコービーの姿は今の若者には理解しづらいことは理解できますが、いつの世でも対人関係の確執は不可避の問題です」
 「表題のmatter が何を意味するのか。それだけで博士論文が書ける大きなテーマです。例えば、神とは誰(何)なのでしょうか。簡単に答えることのできる問題ではありません。私はアングリカンであり、カトリック教徒ではありませんが、私にとって神は言葉で表現できる段階、その前のとてつもなく大きな存在です。スコービーが救護所の外で夜空を見上げて考えたこと、それはあなたが考えているようにmatterの真髄だと思います。グリーンの魅力は文学でこの問題をとらえようとしたことにあると思います」
 (写真は上が、バーカムステッドスクールのホールでフェスティバル参加者にグリーンの学校生活のエピソードを紹介するピアースさん。左から4番目の額がスクールの校長だった作家の父親の肖像画。下が、グリーン文学の魅力について語るサンプソン氏)

グレアム・グリーン(Graham Greene)③

 最後まで読み終えて、ああ、こういう物語だったと思い出した。妻に対する愛情というより夫としての責任感からルイーズの幸福を願うスコービー。夫に対する愛情よりも夫が期待通りに副署長から署長への出世の階段を踏み外したことに世間体を気にする妻のルイーズ。新婚間もなく夫を海で失い、路頭に迷う最中にスコービーに出会い、30歳も年長の男を愛するようになるヘレン。
 カトリック教徒に改宗していたスコービーはこの三角関係に陥り、二人の女性を同時に愛することが宗教的に許されない現実に悩む。二人の女性を同時に幸福にできなければ、少なくとも自分にできることは二人の女性を不幸せにしないことだ。そう結論を下したスコービーは自決を決意する。しかし、自殺を忌み嫌うカトリック教徒であるからには、はたからは病気による急死を装う必要がある・・・。
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 その程度の話だ。ただ、スコービーが自決する直前に、神もしくは心の内面に宿る神の対極にある利己的な自我と交わす対話は考えさせられた。ランク神父の言葉が印象に残る。“It may seem an odd thing to say―when a man’s as wrong as wrong he was―but I think, from what I saw of him, that he really loved God.”(「スコービーのように間違った人生を歩んだ人にこう言う表現をするのは奇妙に聞こえるかもしれないが、でも、私は彼のことをいろいろ見知っているから思うのだが、スコービーは本当に神を愛していたのではなかろうか」)。これに対し、ルイーズは心の痛みがぶり返したかのように応じる。“He certainly loved no one else.”(「あの人は確かに誰よりも神を愛していたわ」)
 物語は第二次大戦中の西アフリカの英国植民地が舞台だ。作家は1942-43年、西アフリカで英国政府の諜報部員として活動していた。作家は作品の冒頭にこの物語が特定の国(植民地)に基づくものではなく、創作であることを断っている。アフリカ諸国が次々に独立していくのは1960年以降のことだから、作品には独立の動きが本格的になる前、植民地・保護領を覆っていたムードが色濃く映し出されている。黒人に対する一般的呼称も今ではタブーのniggerだったり、白人が黒人の使用人を呼ぶとき、今では絶対に使ってはいけない表現である “Boy” という言葉を使ったり。
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 スコービーは少なくとも黒人を蔑視するような人種差別主義者とは描かれていないのが救いだ。アフリカでかつて勤務したことのある私には時代は異なるものの、興味深いシーンがいくつかあった。例えば、冒頭のシーン、黒人の子供たちが港に着いた商船から降りて来た船員たちに群がり、“Captain want jig jig, my sister pretty girl school-teacher, captain want jig jig.”(「船長さん、セックスはいかがですか。私の姉さんは学校の先生できれいですよ」)と客引きしている場面もその一つだ。
 翻訳本では確か「船長さん、ダンスはいかがですか」みたいな訳がしてあったが、私のアフリカ経験では「ジキジキ」は性行為を意味していた。エレベーターの中で女性から「ジキジキいかが?」と誘われて、私は日本語の「じきじき(直々)」を連想し、「はて、じきじきに何をどうするのだろう?」と頭をひねったことがある。
 (写真は上が、作家の誕生日を祝い、ワインで乾杯するフェスティバルの参加者。下は、スイスから駆けつけていた作家の長女であるキャロラインさんの姿も)

グレアム・グリーン(Graham Greene)②

 ルイーズが南アに立った後、スコービーはベンデという地に出向く。乗っていた船が敵軍から銃撃を受け、ボートで40日間も漂流していた乗員、乗客の事情聴取のためだ。生存者の一人、機関長はスコットランドなまりの英語でスコービーに語りかける。“Ah’m Loder, chief engineer.” 翻訳本では「わたすは機関長のローダーです」と訳されていた。日本語なら東北弁の感じだろうか。翻訳者の苦労がうかがえる。
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 書名の “The Heart of the Matter” は小説のほぼ真ん中、第二部の始め辺りに出てくる。救出された人々が収容された救護所の外でスコービーが夜、一人たたずみ、その夜が越せないであろう重篤の幼児や生死の境をさまよう女性など、彼らの置かれた境遇に思いを馳せるシーンだ。その部分を引用すると・・・
 Outside the rest-house he stopped again. The light inside would have given an extraordinary impression of peace if one hadn’t known, just as the stars on this clear night gave also an impression of remoteness, security, freedom. If one knew, he wondered, the facts, would one have to feel pity even for the planets? if one reached what they called the heart of the matter?(救護所の外で彼は再び立ち止まった。中の明かりは状況を知らない人には平安そのものの印象を与えたことであろう。それは丁度雲一つない夜空の星たちが隔絶、安全、自由といった印象を与えるように。彼は思った。もし我々が事実を知ったなら、そうした星たちにも憐みの感情を覚えなくてはならないものであろうか。いわゆる事象の核心と呼ばれるものを理解しえたとしたなら)
 私が共感を覚えたのは、先述の生死をさまよった女性、ヘレンが新婚の夫を上記の事故で失い、そのことをもうすでに遠い過去のように忘れ去ろうとしていることを嘆き、「私ってなんて嫌な女かしら」と自嘲気味に語る場面で、スコービーが彼女を優しく慰める場面だ。“You needn’t feel that. It’s the same with everybody, I think. When we say to someone, ‘I can’t live without you,’ what we really mean is, ‘I can’t live feeling you may be in pain, unhappy, in want.’ That’s all it is. When they are dead our responsibility ends. There’s nothing more we can do about it. We can rest in peace.”(「そんな風に感じるべきではないよ。皆同じようなものだと私は思う。『あなたなしには生きていけない』と人が言う時、その意味するところのものは、『あなたが苦しんでいたり、不幸であったり、貧しい暮らしにあることを承知の上で、生きていることはできない』ということだ。でも、愛する人が死んでしまえば、責任はそれで終わる。我々ができることは何も残されていないのだから。心安らかに休息することができるってわけさ」)
 グリーンは1904年の生まれ。カトリック教徒の妻と結婚するために、カトリック教に改宗したが、最後まで宗教については思い悩んだと言われる。“The Heart of the Matter” はそうした作家の信仰や神に対する考えがにじみ出ている作品だ。私はこの本のタイトルは『事象の核心』の方がいいと思う。森羅万象の「事象」だ。
 (写真は、バーカムステッドで催されたグリーン・フェスティバルの研究発表の様子)

グレアム・グリーン(Graham Greene)①

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 グレアム・グリーンにゆかりの地を探していて、ロンドンの北、電車で30分ほどの距離にあるバーカムステッド(Berkhamsted)が作家の故郷であり、毎年彼の誕生日(10月2日)前後の週に作家の偉業をしのぶフェスティバルが催されることを知った。今年が15回目になるという。フェスティバルに足を運び、彼が1948年に発表した“The Heart of the Matter” (邦訳『事件の核心』)について書いてみたい。
 この小説は数年前に一度読んだことのある作品で、今回の旅を前に再びこの本を手にした時、恥ずかしい話だが、どういう小説だったか思い出せなかった。この本に関しては最初に日本語の翻訳本に目を通し、英語の原書で訳を確認しながら読み進めていった。正直に書くと、翻訳本は正直読みづらかった。
 物語は西アフリカの英国植民地が舞台で、第二次大戦が時代背景となっている。主人公のスコービーは警察の副署長。15年ほど勤務したところで、上司の署長が転勤となるが、自分が署長に昇格する人事は実現せず、結婚14年の妻のルイーズは精神的にショックを受けていることが分かる。
 作品の冒頭近くに例えば、次のような会話がある。
  「閣下」 “Sah?” 「なにかあったのか?」 “Anything to report?” 「署長がお会いしたいと言っておられます、閣下」 “The Commissioner want to see you, sah.”
 これはスコービーと部下の巡査部長のやり取りだ。いくら植民地時代の現地の黒人警察官と白人の上司との会話でも、「閣下」は大げさ過ぎるという印象を禁じえない。役職名の「副署長」で十分だろう。
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 ルイーズは心機一転、南アフリカ行きを決意する。それには200ポンドの大金が必要で、スコービーは自分の良心に反する行為で何とかその金を工面する。彼女を送り出す船が港に入るのを二人は港に面した自宅から目にする。その時の二人の心境が happiness is never really so welcome as changelessness と説明されている。翻訳本では「幸福は実は変化のない生活ほど歓迎すべきものではない」と訳されていた。その通りだろうが、理解しづらい訳文だ。「毎日きちんと同じ暮らしができれば、それで十分満足なのだ」ぐらいの意味だろう。
 本好きのルイーズは、同じく詩を愛好する、植民地関係の団体の信任会計係として着任したばかりのウィルソンと親しくなる。この青年が本当は何を仕事としているのか、読者は不思議に思いながら読み進めることになる。作家が熟知していたスパイ活動が本業か。
 グリーン・フェスティバルでは作家の作品に精通している大学教授や専門家の人たちが研究の成果を披露していた。地元の作家ファンも多かった。私がケンブリッジからロンドン経由で片道2時間で来ていることを知ると、とある初老の夫婦が「良かったら我が家にいらっしゃい」と誘ってくれた。こういう親切はまことにありがたい。
 (写真は上から、バーカムステッドの中心街。左の建物は1859年建設のタウンホール。グリーンも保存活動に加わった。近くを歩いていたら、教会での結婚式に遭遇。披露宴に向かう花嫁)

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