- 2014-09-10 (Wed) 21:06
- ミステリーな毎日
(エラリー・クイーン『アメリカ銃の秘密』の真相に直接言及しておりますので、必ず必ず作品をお読みになってから、どうぞ。文中のページ数は越前敏弥・国弘喜美代訳、角川文庫版のものです。)
この『アメリカ銃の秘密』で作者エラリー・クイーンは不可能犯罪とも呼べる大胆な事件を描いています。したがって、こんな犯罪が本当に可能だったのかと難癖をつけることは容易です。さらに、この作品の場合、真相を見抜いていた探偵の振る舞いに対しても疑問がわいてしまいます。しかし、その種の批判や詮索をしてみたところで、あまり生産性がないことも事実です。
とりあえず、この論考では、例によって「読者への挑戦状」までが提示されている『アメリカ銃の秘密』において、探偵エラリー・クイーンの真相を解き明かしていく論理が、どの程度まで妥当なものであったのかを検証してみたいと考えています。
まず、エラリーが注目したのは遺体のベルトです。ベルトの二番目と三番目の穴にできていた縦皺に着目するエラリーの観察眼は見事です。しかし、残念ながら彼が真相にたどりつく契機=「遺体のベルトは一番目の穴で締められていた」という描写がありません。これで遺体の正体を見抜けというのでは、ややアン・フェアだという誹りはまぬがれえないでしょう。これに対して、エラリーの二つ目の根拠、遺体が握っていたリボルバー(拳銃)の「左右」についての言及は、紛れもなくフェア精神を貫徹したものだと断定できます。遺体のどちらの手に拳銃が握られていて、象牙の飾りのどの辺がすり減っておらず、それだけでは説明がわかりにくいという判断があったのか、ご丁寧にエラリーが逆の手で持ちかえて握るという描写まであります。これが真相究明へのヒントだったとすれば、このうえなく「さり気なく」かつ「説得力のある」ものとして描かれているといえるのです。さらにご丁寧なことに、これと対になる拳銃が発見された後、エラリーは両者の微妙な重さの違いを指摘しています。つまり、滅多なことで被害者が左右の拳銃を持ち間違えることはないという傍証まで付け加えられているのです。
作家エラリー・クイーンは苦悩する探偵を描いたと、よく指摘されます。一方で作者自身は、いかにフェア精神(サービス精神といっていいのかもしれません)を遵守するのかについて苦悩し続けてきたのではないかと想像されます。「読者への挑戦状」を提示した以上、読者に対して真相を推理するだけに足りる材料を与えなければならないのですが、その材料を与えすぎると今度は真相を簡単に見破られる危険性が増してしまいます。比較的気づかれにくく、しかも真相が判明した後は「なるほど!」と納得してもらえるようなヒントを考案することに、作家エラリーは最大級の心血を注いでいたと考えられるのです。(ですから、多少ヒントとして不十分な場合があっても、目をつぶってあげなければならないのかもしれませんね。)
作者の苦心と工夫との経緯については、全作品を通して検証してみたいと思っています。
実は探偵エラリーが、最後の根拠としてあげている金庫の開け方については、私の読解力が足りないせいでしょう、正直いって、よくわかりません。金庫の形状や構造が、うまく思い浮かべられないのです。p83の<事件の瞬間とアリーナ平面図>やp427の<バック・ホーンの乗馬図>のように、金庫を説明する図を添付していただけたらと思うのは、読者の勝手なワガママでしょうか。(ところで、これらの図は原著に載せられているものなのでしょうか、翻訳の際に加えられるものなのでしょうか、機会があれば翻訳者の越前敏弥先生にお尋ねしたいと思っています。)
犯罪の不可能性について、一点だけ指摘させていただこうと思います。事件発生直後まずロデオの医者(名前をハンコックといいます)が 遺体を調べるのですが、 この医者、実は事件発生直前にも被害者の健康診断をしています。いくらなんでも、それで遺体の正体が見抜けないようではヤブ医者も甚だしいとさえ思ってしまうのですが、もし、この医者も共犯者だったとすれば、もう少し設定に説得力が生まれ話も面白くなったのではないかと想定できます。
それから、再読して気がついたのですが、p224でウッディーという登場人物が、犯罪に使われた拳銃は二十五口径で、自分のは四十五口径だと主張していました。この時点で警察のみが知りえるような情報を彼が入手してるのは、奇妙といえば奇妙です。このときのウッディーは、犯人を目撃していることを自ら気づかぬうちに吐露してしまっているとも解釈できるのですが、その後も探偵エラリーは、この点について一切言及していません。ひょっとして「犯人当て」以外の楽しみを残すため、作者も探偵も、わざと言及せずに置いておいたのでしょうか。