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December 2012

有栖川有栖さんの新作『論理爆弾』(東京創元社)という名の爆弾

  推理小説は「ズルい」ものです。名作推理小説に感動した読者は、一方でその作品に心憎いまでの「ズルさ」を感じとっているはずです。ですから推理小説は「ズルさ」を許容するものなのです。ですが、どんなズルさも許されるのかというと決してそうではなく、そこには暗黙の約束事のようなものもあります。その約束事がしっかりと守られている作品を読者は「フェア」だと実感するのです。できるだけ厳密にルールのようなものを遵守しながら、限りなくズルくて巧みな嘘を創出する。優れた推理小説作家は、皆この矛盾した営みに挑戦しているはずなのです。スポーツの世界においてフェアプレイが謳われながら、勝負のためのフェイントプレイが認可されていることと事情は似ているのかもしれません。
  そもそも、どこまでの「ズルさ」が認められるのかという明確な境界線があるわけではありません。どこまでのルールが守られればフェアプレイになるのかという点も同じです。したがって均衡を壊した破格な作品も世の中には登場しうるわけです。しかし、少なくとも有栖川さんの選んだ道は、自身のバランス感覚を頼みの綱として「ズルさ」と「フェアさ」との均衡を保ち続けることだったと考えられます。俗に「創造することは破壊することよりも難しい」といわれますが、さらに難しいのは維持することなのかもしれません。『論理爆弾』において、今回も有栖川さんはその困難な試みに挑戦しています。成功のほどは読者各人が感じとってみてください。
  この「ソラ」シリーズにおいて有栖川さんは非現実的で異様な世界を作品の舞台に据えました。この世界に象徴的な意味を読みとる必要はありません。世界の意味を解釈するのは純文学の仕事だからです。また、どんな世界で起ころうと(異次元世界であろうと日常生活圏であろうと)事件は事件なのです。事件が解決されることに推理小説の第一義があって、それ以外のものは不要だとさえいっていいのです。しかし有栖川さんの「ソラ」シリーズにおいては、作品の舞台となっている世界の謎、あるいはその世界が存在することの必然性、といったようなものを解明するという二重性が仕掛けられています。その仕掛けも推理小説の「ズルさ」を守るためのものだったという解釈が、この『論理爆弾』には当てはまると考えます。
  なお、ここでいう「ズルさ」は作者の人間性と一切無関係であることはいうまでもありません。
 

  

有栖川有栖さん『江神二郎の洞察』(東京創元社)

 「江神二郎シリーズ」と「火村英生シリーズ」は何が違うのか。「江神シリーズ」には「読者への挑戦状」がある、ということは「江神シリーズ」は徹底したフェア・プレイ精神に貫かれて描かれているということです(決して火村シリーズがアン・フェアだという意味ではありません・・・)。今回は短編集のゆえに「読者への挑戦状」こそありませんが、どの作品も真相にいたるまでの途中経過にはフェア・プレイ精神が貫徹されており、読者は真相を推理することが可能になっています(と思って読んでいたら今回の書き下ろし新作に作中作という形で「読者への挑戦状」が登場してきました)。
  フェア・プレイというのは、作者と読者との間での約束事です。しかし、事件の真相に無限のヴァリエーションが想定される以上、そもそも完璧な推理は成り立つはずがないのです。したがって、この約束事は読者が程よく騙された場合は作者の勝利という暗黙の項目も含まれているといえるのです。
  「四分間では短すぎる」の中で、英都大学推理研究会のメンバーが『点と線』(松本清張)と『ニッポン樫鳥の謎』(エラリー・クイーン)を比較して論じるところが面白かったです。
ハリイ・ケメルマン「九マイルは遠すぎる」にまつわるエピソードもまた然り。「ミステリとは何かみたいな話は禁止」としながらも、平素このメンバー達がどんな論議に時間を費やしていたか、よくわかりました。
 タッカー・コウの『蝋のりんご』っていう作品も読みたくなりました。有栖川さんの新作『論理爆弾』が楽しみです。
 

 

R・チャンドラー&R・B・パーカー『プードル・スプリングス物語』(ハヤカワ・ミステリ文庫)

 『プレイバック』の後レイモンド・チャンドラーは『プードル・スプリングス物語』を書こうとしましたが、彼の死によって未完に終わりました。書き残されたのは第四章までで、その続きはロバート・P・パーカーによって完成されました。ちなみにロバート・P・パーカーのデビューは1973年、この『プードル・スプリングス』が出版されたのが1989年。パーカーは円熟期に入ってからチャンドラーの続編に挑戦したと考えられます(チャンドラーの死は1959年)。その後パーカーは『夢を見るかもしれない』という『大いなる眠り』の続編も執筆しています(1991年。私は未読ですが・・・)。
 この作品において探偵フィリップ・マーロウはリンダ・ローリングと結婚しています。孤独と自由を愛するマーロウが夫として家庭におさまっている姿など見たくないチャンドラリアンも多いのではないかと思いますが、この探偵にチャンドラーが伴侶を与えたのは紛れもない事実です。騎士道的な精神をもったマーロウにふさわしい女性は、どんな娘か。俗にいう「お姫様」です。「お姫様」とは、その女性的な魅力を自身の生活のため(生きていくため)発揮する必要性が全くない人種だといえます。したがって姫の魅力には俗にまみれた打算的なところが皆無なのです。ただただ女性を守りたいという純然たる精神には、ただただ愛されたいとう無垢なる精神こそがふさわしいということです。その点では、大富豪の娘リンダは「お姫様」になる資格を有していると考えられます。
 一人の若い人妻をみたとき(鬘が変装になるという設定は少しいただけませんが・・・)、マーロウの騎士道的精神は発揮されます。ただリンダの思いはその精神を独占したいと思うところにあるのです。マーロウの精神は愛されるべき総ての女性へと向けられていきます。そこに齟齬が生じて夫婦の物語が展開していくわけですが・・・。
 『プレイバック』が終わった時点では、チャンドラーは傷つき続けたマーロウに褒章として(あるいは慰めとして)リンダを与えたような印象を受けましたが、この物語のマーロウは生活が安定しても自分が堕落しないことに挑戦していると見受けられました。パーカーが書いたものに比べて、チャンドラーは何と複雑な小説を書いていたことかと思い返されるのですが、無駄が多いとさえ感じさせる展開にこそチャンドラー作品の不思議な魅力があったのです。
 村上春樹の新訳『大いなる眠り』(早川書房)も発売されています。

 

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