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トランプの家

 エラリー・クイーン『アメリカ銃の秘密』の秘密

(エラリー・クイーン『アメリカ銃の秘密』の真相に直接言及しておりますので、必ず必ず作品をお読みになってから、どうぞ。文中のページ数は越前敏弥・国弘喜美代訳、角川文庫版のものです。)
この『アメリカ銃の秘密』で作者エラリー・クイーンは不可能犯罪とも呼べる大胆な事件を描いています。したがって、こんな犯罪が本当に可能だったのかと難癖をつけることは容易です。さらに、この作品の場合、真相を見抜いていた探偵の振る舞いに対しても疑問がわいてしまいます。しかし、その種の批判や詮索をしてみたところで、あまり生産性がないことも事実です。

とりあえず、この論考では、例によって「読者への挑戦状」までが提示されている『アメリカ銃の秘密』において、探偵エラリー・クイーンの真相を解き明かしていく論理が、どの程度まで妥当なものであったのかを検証してみたいと考えています。

まず、エラリーが注目したのは遺体のベルトです。ベルトの二番目と三番目の穴にできていた縦皺に着目するエラリーの観察眼は見事です。しかし、残念ながら彼が真相にたどりつく契機=「遺体のベルトは一番目の穴で締められていた」という描写がありません。これで遺体の正体を見抜けというのでは、ややアン・フェアだという誹りはまぬがれえないでしょう。これに対して、エラリーの二つ目の根拠、遺体が握っていたリボルバー(拳銃)の「左右」についての言及は、紛れもなくフェア精神を貫徹したものだと断定できます。遺体のどちらの手に拳銃が握られていて、象牙の飾りのどの辺がすり減っておらず、それだけでは説明がわかりにくいという判断があったのか、ご丁寧にエラリーが逆の手で持ちかえて握るという描写まであります。これが真相究明へのヒントだったとすれば、このうえなく「さり気なく」かつ「説得力のある」ものとして描かれているといえるのです。さらにご丁寧なことに、これと対になる拳銃が発見された後、エラリーは両者の微妙な重さの違いを指摘しています。つまり、滅多なことで被害者が左右の拳銃を持ち間違えることはないという傍証まで付け加えられているのです。
   
作家エラリー・クイーンは苦悩する探偵を描いたと、よく指摘されます。一方で作者自身は、いかにフェア精神(サービス精神といっていいのかもしれません)を遵守するのかについて苦悩し続けてきたのではないかと想像されます。「読者への挑戦状」を提示した以上、読者に対して真相を推理するだけに足りる材料を与えなければならないのですが、その材料を与えすぎると今度は真相を簡単に見破られる危険性が増してしまいます。比較的気づかれにくく、しかも真相が判明した後は「なるほど!」と納得してもらえるようなヒントを考案することに、作家エラリーは最大級の心血を注いでいたと考えられるのです。(ですから、多少ヒントとして不十分な場合があっても、目をつぶってあげなければならないのかもしれませんね。)

作者の苦心と工夫との経緯については、全作品を通して検証してみたいと思っています。
   
実は探偵エラリーが、最後の根拠としてあげている金庫の開け方については、私の読解力が足りないせいでしょう、正直いって、よくわかりません。金庫の形状や構造が、うまく思い浮かべられないのです。p83の<事件の瞬間とアリーナ平面図>やp427の<バック・ホーンの乗馬図>のように、金庫を説明する図を添付していただけたらと思うのは、読者の勝手なワガママでしょうか。(ところで、これらの図は原著に載せられているものなのでしょうか、翻訳の際に加えられるものなのでしょうか、機会があれば翻訳者の越前敏弥先生にお尋ねしたいと思っています。)
   
犯罪の不可能性について、一点だけ指摘させていただこうと思います。事件発生直後まずロデオの医者(名前をハンコックといいます)が 遺体を調べるのですが、 この医者、実は事件発生直前にも被害者の健康診断をしています。いくらなんでも、それで遺体の正体が見抜けないようではヤブ医者も甚だしいとさえ思ってしまうのですが、もし、この医者も共犯者だったとすれば、もう少し設定に説得力が生まれ話も面白くなったのではないかと想定できます。
  
それから、再読して気がついたのですが、p224でウッディーという登場人物が、犯罪に使われた拳銃は二十五口径で、自分のは四十五口径だと主張していました。この時点で警察のみが知りえるような情報を彼が入手してるのは、奇妙といえば奇妙です。このときのウッディーは、犯人を目撃していることを自ら気づかぬうちに吐露してしまっているとも解釈できるのですが、その後も探偵エラリーは、この点について一切言及していません。ひょっとして「犯人当て」以外の楽しみを残すため、作者も探偵も、わざと言及せずに置いておいたのでしょうか。

(ウッディーが片手の人物という設定もあるせいか、どうも映画『トイ・ストーリー』を連想してしまう私でございますが・・・)
 

バロネス・オルツィ『隅の老人<完全版>』を10倍楽しむ方法(2)「フィルモア・テラスの盗難」について

(真相部分に言及していますので、必ず「フィルモア・テラスの盗難」を読了されてから、お読みになってください。)
いきなり冒頭から女性記者が迷っているところが面白いです。「隅の老人」が座っているかもしれないA・B・C喫茶店に足を踏みいれていいものなのかどうか、彼女は躊躇しています。しかし、ここでためらっているということは、やはり彼女には「隅の老人」に会いたいという気持ちがあるとも考えられるわけです。どうして彼女は、このような態度をとっているのでしょうか。

結局、彼女の前に姿をあらわした「隅の老人」は、こんな感じで事件について説明を始めました。

フィルモア・テラスを巡回中だった巡査(D21号)は怪しい男を見つけます。その男にクノップス家から出てきた召使いのロバートソンが飛びかかります。この男は泥棒で、主人クノップスさんのダイヤモンドを盗んだというのです。泥棒の身体は調べられますが宝石は出てきません。そのとき、クノップスはシップマンと宝石の取引をしつつあったのですが、兄が重い病気にかかったという知らせを受けとり、遠くブライトンというところまで行っていました。警察は先にシップマンを訪ねたのですが、事情聴取を受けている間にシップマンは不安になり、急いで二階の自室を調べてみると、彼のダイヤモンドも盗まれていたのです。

さて、今回「隅の老人」が着眼するのは次のような点です。
 ・ロバートソンとクノップスが同時にいあわせていない
 ・刑事が訪ねたときに二人とも青い顔をしていた
 ・遠方から帰還したクノップスが風呂あがりだった
さすがは「隅の老人」。ぴたりと辻褄のあう結論を導き出しています。彼の推理の組み立て方は傑出していました。その着眼点が読者にも明確に示されているあたり、「フィルモア・テラスの盗難」においても、充分なフェア精神は貫かれているといえましょう。

とはいうものの、この事件には不鮮明かつ奇妙なところが多すぎます。例えば
 ・ロバートソンが浮浪者めいた男を取りおさえたとき、もし巡査(D21号)がいなかったら、どうするつもりだったのか。
 ・そもそも、この立ち回りは必要だったのか。(最初からシップマンの宝石だけ盗んでおけばよかったのではないか。)
 ・結局シップマンから盗まれたのは、人工ダイヤモンドの方だったのか、ブラジル産ダイヤモンドの方だったのか。
 ・もしフランシス・ハワード刑事がおとり捜査を思いつかなかったら、犯人側はどうするつもりだったのか。

そして極めつきの疑問点が女性記者によって指摘されています。
 ・「隅の老人」によって犯人だと推定された人物の名前が『企業総覧』に載っているのは、なぜか。

そして、その取引先に問い合わせてみれば、間違いなく犯人が優良な経営者であったことは証明されるであろうとさえ「隅の老人」はいっています。にもかかわらず、彼はこの人物こそが犯人であると言い捨てて去っていきました。

というわけで、では「隅の老人」が立てた推理以外に、どんな可能性が考えられるでしょうか。
ひとつには、実は被害者であるシップマンが犯人である可能性があります。何らかの方法でクノップス家の盗難騒動を聞きつけた彼が自作自演の盗難事件を起こしたのではないでしょうか。ここで盗難をすれば少なくとも嫌疑は浮浪者にも向けられます。もし、盗難騒動自体が仕組まれていたのだとすれば、クノップスとシップマンの共犯説も浮上してきます。

それにしても、今回の「隅の老人」の態度は気になります。なぜ彼は疑問の余地を残したまま立ち去ったのでしょうか。

それで、もうひとつ考えられてくるのが「隅の老人」犯人説です。ただし、後半の浮浪者消失の一件などを考慮に入れると、彼一人で成し遂げることは無理だといえましょう。もし、彼に共犯者がいたとすれば、作中の登場人物の中での最有力者は・・・、おそらく家政婦です。クノップス家の「雑役婦の老婆」そしてシップマン家の「三人の召使い」。どちらも怪しくなってきます。

ここまで想定してみると、この度、女性記者が「隅の老人」に会うことをためらったのも肯けてきます。彼女は直感的に何か飛んでもない謎に巻き込まれるかもしれないことを予測していたのではないでしょうか。

「謎解き」のみならず「謎の発見」も楽しめる。それが「隅の老人」シリーズの魅力なのです。(また勝手なことを書いてしまいました。翻訳者の平山雄一様、再びお許しください。)

バロネス・オルツィ『隅の老人<完全版>』を10倍楽しむ方法(1)「フェンチャーチ街駅の謎」について

(バロネス・オルツィ『隅の老人』、今回は「フェンチャーチ街駅の謎」についてです。真相部分に触れておりますので、必ずこの短編作品を、是非<完全版>でお読みになってから読んでください。)
変装は難しいですよね。よく『隅の老人』シリーズでは誰かが誰かに化けるという変装が登場しますが、かなり見破られる危険性の高いトリックではないでしょうか。この「フェンチャーチ街駅の謎」には変装した人物が出廷するという場面がありますが、彼の妻や友人が何も気づかないという設定は少し(いや、かなり)不自然だと考えられます。

さて、今回「隅の老人」が語る事件(「フェンチャーチ街駅の謎」)の説明は、だいたい、こんな感じです。

ウィリアム・カーショーの妻と、カーショーの友人カール・ミューラーが警察に駆け込むところから話は始まります。カーショーの身に危険が迫っているというのです。数日前からカーショーは行方不明になっており、古い知り合いで過去に仲間を殺した人物(パーシー、現在はフランシス・スメサーストと改名)に会うことになっていたのです。ミューラーからお金を借りなければならないほど困窮していたカーショーは、海外から帰国したスメサーストに直接会って、過去の罪をネタに高額の金銭を融通してもらうつもりだったのです。

しかしカーショーは帰ってきません。やがて溺死体が発見され、スメサーストは逮捕されます。法廷ではスメサーストとカーショーが会っていたという証言が次々になされていくのですが、ここで弁護士サー・アーサー・イングルウッドによって何と容疑者の無罪を決定づける証人が召喚されました。その証人によれば、カーショーはスメサーストに殺されたと考えられる日時よりも数日後ホテルに姿をあらわしていたのです。しかも、そのホテルにカーショーは財布を置き忘れていました。

これでスメサーストがカーショーを殺した可能性は消え失せ、事件は迷宮入りとなります。そこで「隅の老人」の卓越した推理が始まるのですが・・・と、こういった感じです。

かなり奇妙なのはカーショー夫人が法廷でスメサーストと同席しながら何も気がつかないところです。もっとも、この点に関しては、悲しみのためか夫人はスメサーストに目も向けられなかったと「隅の老人」は説明していました。とはいうものの、友人のカール・ミューラーまでもがスメサーストの正体に気づかなかったのは、あまりにも不可解ではないでしょうか。

さて、こう考えてみると、この友人カール・ミューラーも限りなく怪しい人物であると思えてきます。

「隅の老人」が目をつけたのは、カーショーが出没したというホテルの情報を、どうして弁護士イングルウッド側がキャッチできたのかという点です。このシリーズの面白い点は、どうして、そして、どこに不審をもったのか、「隅の老人」自身がはっきりと語ってくれているところです。彼が不審に思う可能性があるポイントは、あらかじめ読者にもわかるよう呈示されていたりするので、その点でこのシリーズではフェア精神が守られているともいえます。

「隅の老人」が不審に思った点については、別の解釈も成り立つように思われます。要するに、ホテル関係者は頼まれて「カーショーが生きていた」と偽証していたのではないかということです。何といっても只今スメサーストは大金持ちになっているので、自分に有利な証人を買収によって捏造することは容易です。しかし、たとえスメサーストが買収に成功していたとしても、ホテルに置き忘れたという「財布」の件は、どうなるのでしょうか。この財布はミューラーによって「間違いなくカーショー本人のものだ」と確認されています。

さあ、そうなってくると、ここでまた怪しい友人カール・ミューラーの存在が浮上してくるわけです。彼もスメサーストと結託しており、犯罪を成立させるための偽証をしていたのではないでしょうか。先に述べたように、法廷でスメサーストの顔を見ていながら、ミューラーが何も不審に思わないのは不可解このうえないことなのです。しかも彼は二度も法廷に足を運んでいました。

ところで、ミューラーもグルだったとして、彼が犯罪に加担する動機は何なのでしょうか。そうなると、ウィリアム・カーショーの妻(カーショー夫人)にも疑惑が向いてしまいます。カーショー夫婦の愛情は冷めてしまっており、この非道な犯罪に協力することと引き換えに、夫人は夫と縁を切りミューラーと結ばれるという契約が交わされていたとは考えられないでしょうか。

そういえば法廷でのカーショー夫人の服装も怪しいです。指輪こそ黒い布で覆っているものの、着飾りすぎでごちゃごちゃしすぎのクレープのドレスが目立ちます。そもそも、カーショー夫人とミューラーは妙に親しすぎる印象を受けないでしょうか。「隅の老人」は夫人が法廷でスメサーストを見ようとしなかったと述べていましたが、実は「見る必要がなかった」ということだったのかもしれません。だいいち、この夫人に貧窮して友人や知り合いにお金をせびるような夫を支えていこうという愛情はあったでしょうか(こうなってくると、何だか登場人物が全員犯人だったみたいな話になってしまいますが・・・)。

このシリーズでは犯罪が立証されたり犯人が逮捕されたりすることがないので、真相については他の可能性も考えられる余地があります。謎めいた老人が一方的に謎を語るだけなので、事件そのものが本当に起こったことなのかさえ疑わしいところがあるのです。さすがに幻想的になりすぎてはならないという判断が生じたのか、単行本化される際には叙述形式の改訂がおこなわれたようですが、この度は、せっかく平山雄一さんが雑誌掲載時の原形のままで翻訳してくださっているのですから、この「隅の老人」の怪しさを徹底的に楽しんでみてはいかがでしょうか。

原作者バロネス・オルツィは、どんなことまで想定して、この『隅の老人』シリーズを創造したのでしょうか。ある未解決の犯罪に対して、A・B・C喫茶店の片隅に座っている老人が勝手に推理を述べる。その推理は驚愕に値するものだが、シャーロック・ホームズの快刀乱麻な明察とは違って、他の見解が絶対に成り立たないわけではない。さて読者には「隅の老人」が提示した以外の(あるいは以上の)真相を探り出すことができるだろうか。このシリーズの一話一話を「読者への挑戦状」として読んでほしい・・・。幻想と申しましょうか、妄想は果てしなく膨らんでいってしまいます。

今回発売された『隅の老人<完全版>』の6800円(税別)という価格は決して安くはない値段です。しかし、この『隅の老人』は、自分の推理を楽しむ余地をおおいに与えてくれる短編集なのです。もし元を取り戻したいと願うならば、「隅の老人」と向きあって読者も積極的に真相究明合戦に参加してみてはいかがでしょうか。単に老人の推理の欠陥をあげつらうだけでは、とてもとても、この金額には足りないはずです。 (随分、勝手なことばかり書いてしまいました。翻訳者の平山雄一様、どうかお許しください・・・。)
 

スティーヴ・ハミルトン『解錠師』で色々と妄想させていただきました。

(スティーヴ・ハミルトン『解錠師』の真相部分に触れていますので、ご注意ください。)
スティーヴ・ハミルトン『解錠師』(越前敏弥さん訳)は、2012年度「このミステリーがすごい!」のベスト1に選ばれていますが、実際のところミステリーのような純文学ような不思議な作品です。おそらく作者は、自分で自分を閉ざしてしまうような主人公マイクルが、鍵を開ける専門家になっているというシニカル(皮肉)な姿を描きたかったでしょうが、作品は彼の独白に終始しているので、マイクルの家族の現状など謎めいたところも多く残ります。描かれていないことが多いせいか、この作品を読んで私はついつい妄想に走ってしまいました。(越前先生ごめんなさい!)

『解錠師』の主人公マイクルは、「奇跡の少年」事件と呼ばれる衝撃的な出来事によりトラウマを背負い、口がきけなくなったという設定になっています。これに対して、本当は喋れるのではないかという一つの推論が成り立つわけです。事実、物語の初期段階でアメリアは、そう推測していました。さて、実際にマイクルが喋れないふりをしていたとして、彼が徹底して演技をする理由は、どこにあるのでしょうか。実は彼は喋れないがゆえに許されている節があります。しばしば失敗して逮捕されたとしても、彼のハンデキャップが、ある程度その罪を軽減させているようです。少なくとも、誰もが彼を犯罪の主犯者/首謀者だとは思いません。たとえ逮捕されたとしても自分は比較的早く釈放されるのではないかという思惑がマイケルのうちにあったという推論が成り立つわけです。もし、逮捕されること自体に目的があったとすれば・・・、妄想は、どんどん進んでしまいます。例えば牢獄に収監されている父親を脱走させたかった、その父親と同じ刑務所に収監されるまで逮捕と釈放を繰り返すつもりでいた、というふうに推理(妄想)するのも一つですが、これではイササカ単純です。ここで父親が殺した人物が「ミスターX」というミステリアスな名前であることが気になります。父親がXを殺した(そして、そのことが彼のトラウマの原因になっている)ということになってはおりますが、ここに意外な真相が隠されている可能性はあります。(例えば、父親とXが入れ替わっており、それを決定づける証拠が警察の中に隠されているとか・・・)

それとは正反対の推論も立ててみました。つまりマイクルは本当に口がきけないのではないかという推論です。いうまでもなく彼は喋れないという設定になってはいるのですが、一方で自分のトラウマさえ克服されれば発声できると信じ切っています。それは、マイクルが勝手に信じているだけの話で、どう頑張っても声を出すことができないことを決定づけられているとすれば、(彼が身体的な損傷を被っている、例えば脳の一部や声帯を損なっているとすれば、)どうなってしまうのでしょうか。釈放された後、アメリアに向かって言葉を発したいと願う彼の夢は、単なる幻想に過ぎないということになってしまいます。すでに言葉が失われているにもかかわらず、自分に表現できる可能性が残されていると信じている人間の妄想、それが『解錠師』という作品なのかもしれません(と、妄想してみました。)

もう少し妄想を広げさせていただきます。ゴーストこそが実は警察の人間だった可能性はないでしょうか。一流の金庫開けという技術を売り物にできるマイケルを潜入させ、ゆくゆくは巨大犯罪組織を壊滅させるという目的をもって、ゴーストはマイクルに解錠のノウハウを伝授したのかもしれません。スーパー・マリオネーションの名作「サンダーバード」に登場する執事パーカーは元金庫破りでした。怪盗アルセーヌ・ルパンが探偵役をつとめたときもあります。近年では貴志祐介さんの『鍵のかかった部屋』『ガラスのハンマー』の主人公・榎本 径(「F&Fセキュリティショップ」の店長)は泥棒のような探偵のような人物として描かれていました。四字熟語に「鶏鳴狗盗」という言葉があるように、泥棒の側が正義や救済のために貢献するというパターンの物語は数多存在しています。イササカ文化人類学的な言い方をするなら、辺境人が制度や組織の秩序を維持し、さらには活性させることに貢献するという構造をもった物語が社会の深層には存在しているのです。この『解錠師』も、そのパターンにはまって展開してゆくのかなぁと思いきや、全然そんな物語にはなっていなかったのです。

「口がきけない解錠師(泥棒)」は、物語としてもミステリーとしても多様な膨らませ方ができる美味しいネタだったはずです。にもかかわらず作者は決して面白い方向には展開させようとはしていません。それでいて、なかなか面白く読めて、読者を退屈させたり不快にさせたりしない作品『解錠師』は、あらためて不思議な作品だと思います。

「珈琲店タレーラン」は京都のどこにあるのでしょうか?

 岡崎琢磨さん『珈琲店タレーランの事件簿』(宝島社文庫)の中の「盤上チェイス」は、「京都市地図」を片手に読むと、さらに愉しめる作品です。
  ある事情により主人公は京都市内を逃げ惑うことになるのですが、地図があると何処をどう動いているのかがわかって、より面白いです。
 出町柳から丸太町橋までの、あるいは京阪三条駅から地下鉄市役所前駅までの距離感や位置関係が地図を見ていると、よくわかります(京都市民なら地図がなくてもわかるのでしょうが・・・)。
 ところで、この「珈琲店タレーラン」はどこにあると設定されているのでしょうか。
  結論を先にいってしまいますが、「富小路通り」と「二条通り」との交点の近く、もう少し厳密にいうと交点の少し北で「富小路通り」沿いにあることになっています。それは「盤上チェイス」の終局部まで読むと間違いなく特定できることです。また初めて主人公と「タレーラン」が登場する冒頭の短編「事件は二度目の来店で」でも確認することはできます。
  「盤上チェイス」の前半部で主人公がここに着くまで道のりの描写も実に正確です。
  「(地下鉄「京都市役所駅前駅」の)北側の出口から河原町通りに出る。そのまま北上して最初の角を左に折れ、荘厳な京都市役所の建物の裏を西進し、適当なところで右に曲が」ると、たしかに「富小路通り」と「二条通り」との交点にたどりつくのです。
 ここまで具体的な場所が明確になるように書かれている例は珍しいのではないかと思います。エドガー・アラン・ポー「モルグ街の殺人」のパリも谷川流「涼宮ハルヒ」の西宮も、むしろ現実の位置や距離とは違うように描かれているのです。実在の場所をモデルにしながら、あくまで小説はフィクションであるという意識を作者がもっていたからだと考えられます。
  では実際の「富小路通り」と「二条通り」との交点近くには、何があるのでしょうか。それは・・・行ってみなければ、わかりません。
  ちなみに『珈琲店タレーランの事件簿』第2巻は4月24日頃発売予定だそうです。

「名探偵モンク」の「ホワイトクリスマス」(シーズン4)について

  クリスマスはモンクにとっても全世界にとっても特別な日です。そう思って観ると、この回のストーリーにはスタッフの強い思いが込められているようにも感じられてきます。
  ドラマの冒頭と最後にはクリスマス・ソングが流れています。冒頭のは女性、最後のは男性のボーカルですが、笑福亭福笑師匠は女性の声はブレンダ・リーではないかと推測されていました。クレジット・タイトルに記載がないのですが、何らかの方法で確認してみたいと思っています。
  ドラマの前半で気になった場面が二つありました。モンクとナタリーがサンフランシスコ市警のクリスマス・パーテイに出掛けるのですが、留守番をする娘ジュリーの様子がたまらなく淋しそうです。こういう場合、アメリカでは子どもも連れてホームパーティに行くのではないかと疑問にも思ったのですが、ジュリーが孤独を背負って自立していかなければならない存在であることを象徴していたのかもしれません。またパーティでストットルマイヤーとディッシャーが聖歌を歌いますが、その時モンク一人は奇妙な方向を見つめています。クリスマスがトゥルーディの命日であることに思いが至ってしまったのでしょうか。その思いを止めようとしていたのでしょうか。それとも二人の刑事の歌に感激しすぎてしまったのでしょうか。ともかく考えさせられる1シーンでした。
  クリスマスのお話しだけあって、この回の物語には明らかな宗教的なテーマが盛り込まれています。ストットルマイヤーは容疑者プレガーが自分への復讐を企てた決めつけ、潜伏先の教会に追いつめました。ところが、その教会のシスターはプレガーをかばいます。プレガーに対する憤懣に駆られていたストットルマイヤーを、シスターは実に深い宗教的な言葉でなだめるのです。
  「許すことこそが最も完璧な復讐です」
  その後、兄を殺したことを忘れさせたくなかった責めるプレガーに対して、ストットルマイヤーがする反論も深刻だったりするのですが、復讐の念を止めることができずに破滅してしまったのが今回の事件の真犯人です。また、実は「復讐」はトゥルーディ殺害の犯人を追い続ける「名探偵モンク」全体に関わるテーマにもなっているのです。
  今回の毒殺トリックは、いかにして特定のターゲットに毒物を摂取させるかという点でアガサ・クリスティーの『三幕の殺人』やエラリー・クィーンの『災厄の町』のパターンを踏襲していますが、それでいて新鮮な印象を与えます。なかなかミステリーとしての出来映えも秀逸ではなかったでしょうか。
  一度も雪を観たことがないジュリーの願いが叶いドラマの最後では文字通りの「ホワイトクリスマス」になります。トゥルーディが亡くなった夜から8年ぶりの雪です。モンクにとってはまさに「奇跡」のような雪だったのかもしれません。降らなかった雪が降ったということが何らかの変化の兆しを象徴しているとも解釈できるのですが、そう一直線へと解決へと進んでいかないのが、このTVシリーズのリアルなところです。例えば、今回ある認識を得たストットルマイヤーは、その後のドラマでさらに大きな憤りにとらわれ試練を受けることになります。
  一方、このドラマにはトゥルーディが遺した緑色の小さな箱のプレゼントが描かれていました。後々、この箱の中味が重大な鍵になることを考えれば、このドラマの一話一話が未来を想定して作られていることがうかがわれます。登場人物達が抱え込んでしまった問題の変遷に対して、この『名探偵モンク』シリーズはかなり長期にわたる視野をもって描き続けようとしていると考えられるのです。 

有栖川有栖さんの新作『論理爆弾』(東京創元社)という名の爆弾

  推理小説は「ズルい」ものです。名作推理小説に感動した読者は、一方でその作品に心憎いまでの「ズルさ」を感じとっているはずです。ですから推理小説は「ズルさ」を許容するものなのです。ですが、どんなズルさも許されるのかというと決してそうではなく、そこには暗黙の約束事のようなものもあります。その約束事がしっかりと守られている作品を読者は「フェア」だと実感するのです。できるだけ厳密にルールのようなものを遵守しながら、限りなくズルくて巧みな嘘を創出する。優れた推理小説作家は、皆この矛盾した営みに挑戦しているはずなのです。スポーツの世界においてフェアプレイが謳われながら、勝負のためのフェイントプレイが認可されていることと事情は似ているのかもしれません。
  そもそも、どこまでの「ズルさ」が認められるのかという明確な境界線があるわけではありません。どこまでのルールが守られればフェアプレイになるのかという点も同じです。したがって均衡を壊した破格な作品も世の中には登場しうるわけです。しかし、少なくとも有栖川さんの選んだ道は、自身のバランス感覚を頼みの綱として「ズルさ」と「フェアさ」との均衡を保ち続けることだったと考えられます。俗に「創造することは破壊することよりも難しい」といわれますが、さらに難しいのは維持することなのかもしれません。『論理爆弾』において、今回も有栖川さんはその困難な試みに挑戦しています。成功のほどは読者各人が感じとってみてください。
  この「ソラ」シリーズにおいて有栖川さんは非現実的で異様な世界を作品の舞台に据えました。この世界に象徴的な意味を読みとる必要はありません。世界の意味を解釈するのは純文学の仕事だからです。また、どんな世界で起ころうと(異次元世界であろうと日常生活圏であろうと)事件は事件なのです。事件が解決されることに推理小説の第一義があって、それ以外のものは不要だとさえいっていいのです。しかし有栖川さんの「ソラ」シリーズにおいては、作品の舞台となっている世界の謎、あるいはその世界が存在することの必然性、といったようなものを解明するという二重性が仕掛けられています。その仕掛けも推理小説の「ズルさ」を守るためのものだったという解釈が、この『論理爆弾』には当てはまると考えます。
  なお、ここでいう「ズルさ」は作者の人間性と一切無関係であることはいうまでもありません。
 

  

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