July 2013
アガサ・クリスティー『白昼の悪魔』論
- 2013-07-27 (Sat)
- 21世紀アガサ・クリスティー
(アガサ・クリスティー『白昼の悪魔』それから一部『ナイルに死す』の真相部分に言及しますので、ご注意ください。)
作品『白昼の悪魔』に関して挙げられる第一の特徴は「犯人の動機が弱い」ということです。実に巧妙なトリックを考案したにしては、パトリックとクリスチン(レッドファン)夫妻の側にどうしても女優アリーナ・スチュワートを殺さなければならない必然性がないのです。そのようにお感じなった読者の方も多いでしょう。今一度精査する必要はあろうかと判断されますが、むしろクリスティーの諸作品の中では動機が不明確な作品は珍しいと記憶しています(たいていの動機は「財産ねらい」か「報復」または「隠匿」)。
第二の特徴として、事件解明までのポアロの思考経過がたどりにくいということが挙げられます。作中ポアロがパズルを例に挙げて「いまの一枚みたいなことが起こるんですよ」(p298)と述べていますが、この事件においては決定項となる論拠が発見できているとはいい難いのです。これも精査の必要がありますが、多くの場合ポアロは「さりげないひとこと(主にヘイスティングズの)」や「微妙な違和感」や「些細な矛盾」を拠点(まさに決定的な一枚のピース/笠井潔さんの生んだ探偵・矢吹駆がいう現象学的支点)にして論理を組み立てていきます。ところが、この作品においては、その一点が定められてないのです。たしかにポアロの真相解明の根拠となった事項は示されるのですが、並列に述べられているだけです(洞窟の中の香水の匂い、投げ捨てられたビン、誰かがシャワーを浴びていた音など・・・)。このあたり映画版(邦題は『地中海殺人事件』、脚本は『ナイル殺人事件』のアンソニー・シェーファー=『アマデウス』のピーター・シェーファーの双子の弟)の方が、上手に解明の根拠とプロセスが描けていたように感じました。
第三の特徴は「トリックの成立が多くの偶然性に任されている」という点です。ドラマ版『白昼の悪魔』にはエミリー・ブルースターが宿泊客をテニスに誘うという場面がありますが、もしテニスがなされていなければクリスチンのアリバイ・トリックを成立させるのが難しくなってしまいます。クリスチンはリンダ・マーシャル(ドラマ版ではライオネルという名の男の子)を海岸に誘いますが、これとてリンダが応じていなければトリックは成立しません。腕時計への細工も困難で、もし時間を戻しているときにリンダが振り向いてしまえば一巻のおわりです。誰でも崖の上から覗けるような場所が犯行現場に選ばれていますし、もしアリーナ・スチュワートが洞窟に向かわなかったとすれば、クリスチンの偽装が不可能になってきます。アリーナは自分の方に向かってくるクリスチンの姿を見て洞窟に隠れるのですが、よくよく考えてみますれば不倫現場を押さえられたわけでもなく、彼女は平然としていてもよかったはずです。偶然の力にも支えられ、これだけの悪条件がクリアーされなければ、この奇想天外なトリックは完成しないのです。
もちろん、どのような計画的犯罪も幾ばくかの偶然性(幸運)に支えられていなければ達成できません。ところで、この第三の特徴と、「動機」の問題(第一の特徴)を重ね合わせてみればどうなるでしょうか。すると犯人は「偶然にも犯罪を成立させる条件が総て整ってしまったがゆえに」犯罪を実行するに及んだという解釈が可能になってきます。その条件のひとつでも欠落した場合、犯人は甘んじてお縄になったか、いち早く逃走したと考えられるのです。では犯人の主たる動機はどこにあったといえるでしょうか。この犯罪者は殺人計画を立てるのが趣味で、その計画が実行できるかどうかを試すことに異常な生き甲斐を感じるような夫婦だったという見解が成り立つのです。殺人が趣味だとすれば、まぎれもなくクリスチンとパトリック(レッドファン)夫妻は「悪魔」だったといえます。『白昼の悪魔』Evil under the Sunは、まさに、そのような点まで踏まえてつけられた題名なのかもしれません。
第二の特徴として挙げたポアロの論理性の欠如もいたしかたないことだったでしょう。だって相手は「悪魔」だったのですから。多くポアロは自分の洞察力によって犯人側の小さなミスを発見します。しかし、それも犯人側がその人間性に基づいて幾分論理的に考えるからできるのであって、相手が文字通り「悪魔の思考」しかできない場合は、論理もヘチマも使いようがないのです。この度の犯人特定の根拠をポアロは大きくふたつ述べています。ひとつは日光浴をするため海岸によこたわる人体(死体)は見分けがつきにくいということです(p362)。しかし遠くから眺める場合と犯罪現場のように近くで見た場合は、あまりにも状況が違います。むしろ、これは後づけの論理というものでしょう。もうひとつはパトリックの印象が「もっともそれらしき(マリーナを殺しそうな)人物」だったということでした(p372)。この論理は単なる直感に等しいのですが、悪魔が相手ですからこんな推理しかできなかったのです。
『白昼の悪魔』は第二次大戦中に執筆されました。うがった見解になってしまいますが、舞台は戦場から遠く離れているものの、人間の心に忍び寄る悪魔の姿が描かれているという点で、この作品にも幾分戦争が影を落としていると考えられます(スチーブン・レーンという牧師までもが精神を病んでいるという設定も、総ての人間が狂気に向かいつつあるという意味で戦争を象徴しているのかもしれません)。
さて、この作品の犯人の設定を『ナイルに死す』と比するという見解がありますが、もうひとつクリスティーの念頭にあったと考えられる作品があります。作中バリー少佐は次のように過去の犯罪を思い出そうとします。
「孤島殺人事件か・・・新聞はそう書くな。そう言えば、いつだったか・・・」(p205)
このあと少佐が続けて言おうとしたのは、どの事件だったでしょうか。話し相手になっているウェストン刑事が直接関わったのは『邪悪の家(エンド・ハウスの怪事件)』の事件でしたが、これは孤島が舞台になっているとはいい難いものです。『白昼の悪魔』の舞台レザーコム湾スマグラーズ島はバー・アイランドがモデルになったとされていますが、同じ島がモデルになっているのは『そして誰もいなくなった』でした(平井杏子さん『アガサ・クリスティーを訪ねる旅』大修館書店より)。最高傑作とも評価される『そして誰も居なくなった』。それにに匹敵するもうひとつの孤島ミステリーをクリスティーは描きたかったのではないでしょうか。もちろん『白昼の悪魔』の舞台は完全な孤島といい難く、そもそも完璧な「クローズ・ド・サークル」が存在するのかという問題もあります。(例えば綾辻行人さんの諸作品においては、「クローズ・ド・サークル」自体の不完全性が巧みに活用されているのです。)
アガサ・クリスティーが、どのようなところまで想定して作品を書いていたのか。それを想像したり推理したりすることもクリスティーを読む愉しみだといえるでしょう。
- Comments: 2