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トランプの家

クリスティー『五匹の子豚』論、または異説『月と六ペンス』論

(アガサ・クリスティー『五匹の子豚』の真相部分に言及しておりますので、ご注意のほどを。最新訳は、ハヤカワ文庫から発刊されています。)

まずは驚愕の事実から書いておきます。

このたび再読して気づいたのですが、被害者の画家エイミアス・クレイルの名前は小説家キングズリー・エイミスからとられたものだという説明がありました(最新訳61ページ)。調べてみたところ、このキングズリー・エイミスは、実はロバート・マーカム名義で「新007シリーズ」を書いたこともあり、また「サマセット・モーム賞」を受賞したこともある作家でした。ところが生まれたのは1922年で、クリスティーの『五匹の子豚』が発行された1942年には、まだ20歳でオックスフォード大学の学生だったのです。エイミスが小説家として名を馳せるのは1957年に『ラッキー・ジム』を発表した以降のことです。これらのことから考えると、「母親のリチャード・クレイル夫人がキングズリー・エイミスの愛読者だったので、息子にエイミアスという名前につけた」という記述は、後年に付け加えられたものとしか考えられないのです。

いずれにせよ、被害者の名前が小説家由来のものだという設定は、示唆的で興味深いものだと思います。というのも、この作品においては総ての容疑者が「小説」とはいわないまでも「物語」の記述者になっているからです。彼ら「五匹の子豚」に17年前の事件を回想し記述するように依頼したのはポアロです。このたびポアロが試みたのは、それらの「物語」の解釈を反転させる(=読みかえる)事だったともいえるのです。例えば、AがBに「ひどい人だ」と言った場合、多くの人はひどいことをされたのはAだと解釈します。しかし、AはBがCに対してした行為を見て「ひどい人だ」と言っている可能性だってあるのです。5人の書いた記述には、「妻キャロラインがエイミアスを殺したに違いない」というバイアスがかかっています。そのバイアスをはずせば、また違った解釈を浮上させることができるかもしれない。今回ポアロが試みたのは、そのようなことではなかったのかと思われます。

しかし、解釈は飽くまで解釈です。何しろ17年前の事件ですから、いまさら物的な証拠が出てくるはずもありません。毒の入っていないビール瓶の指紋を拭きとっていたという記述こそ、キャロラインの無実の決定的な証拠だとポアロは断定しましたが、例えば、こんな可能性だって考えられないでしょうか。本当に夫を殺してしまったことに動揺したキャロラインは、自分の痕跡を抹消しなければならないと焦ったあげく、テーブルからグラスからビール瓶にいたるまで総ての指紋を拭きとってしまった。ところが、少し冷静に戻った彼女は全く指紋が残っていないことの不自然さに気づき、とりあえず死んだ夫の手に無理矢理ビール瓶を握らせた・・・。また同様に、ポアロがエルサ・グーリアを犯人だと断定した根拠は、「エイミアスとキャロラインとの会話をエルサは立ち聞きしていた(かもしれない)」「キャロラインがコニイン<毒>を盗み出すのをエルサはこっそり見ていた(かもしれない)」というように想像や推測の域を出ないものです。ポアロとエルサは最後に二人だけで話をしますが、結婚をしようとしているカーラ・ルマルションの将来のために、母親が無実だったという「あらたな物語」を結託して創作していた可能性だってあるのです。(このような点で、私は『五匹の子豚』を、「動機」が「物理的な事象」に落とし込まれた完璧な傑作とする霜月蒼さんの『アガサ・クリスティー完全攻略』とは少し見解を異にします。)

『五匹の子豚』には不思議な場面があります。ポアロはアンジェラ・ウォレン(キャロラインの妹)に、事件のあった当時サマセット・モームの『月と六ペンス』を読んでいなかったのかと尋ねます(最新訳364ページ)。実は、このポアロの指摘はドンピシャリで、当時アンジェラは間違いなく『月と六ペンス』を読んでいたのです。そもそも容疑者5人に公平にひとつずつ質問をしなければバランスが悪いと感じたポアロが、とってつけたような質問をしたわけで、当てずっぽうに尋ねてみたらドンピシャリだっただけなのかもしれません。とはいうものの、不思議なことに、なぜ彼がこのような推理をしたのかについて、一切説明がなされていないのです。ここで、あえて推測してみますと、おそらくポアロが推理したのは、前回アンジェラと会ったときの会話からです。パリでホテルの部屋から出てきた友人にぱったりと出くわしたアンジェラは、その友人のバツの悪そうな表情から連想し、さらに昔に見た友人フィリップ・ブレイクの部屋から出てきた姉キャロラインの表情を思い出し、この二人が恋愛関係にあったことを知ったのです(最新訳241ページ)。『月と六ペンス』にもパリの場面があって、画家ストリックランドとブランチ(ストループの妻。ストループはストリックランドを自分の住居に住まわせてやっていた)が、お互いの目があった後に、ブランチの方がバツの悪そうな表情をする場面があります(光文社古典新訳文庫181ページ)。この二人が恋愛関係に陥ったことは後ほど判明するのですが、「あのときの表情は隠された事実を物語っていた」という認識を、アンジェラは実際の出来事ではなく、読んだ小説から得ていたと考えられるのです。現実だと思われていたことに、いつのまにかフィクション(物語)が忍び込んでいたといえます。

『五匹の子豚』に登場する5人の人物は、それぞれに過去を回想し手記を書きます。それらは、そもそも現実に起こったことの記録だったはずなのですが、先に述べた「傲慢で浮気な画家である夫に腹を立てた妻が、その夫を毒殺した」というバイアスがかかっており、さらに各人がそれぞれに対して抱いているイメージや感情が忍び込んでいます。彼らの記したものは、むしろ客観的な回想の域を超えて、各自が思い描いた物語に変質しているとさえいえるのです。物語である以上、また違った解釈を試みることは可能であると、ポアロが判断したのも当然です。私たちをとりまいている世界は解釈変更可能な物語でおおわれている。それが『五匹の子豚』という作品の隠れたテーマではないでしょうか。

実はモームの『月と六ペンス』という題名も謎めいています。光文社古典新訳文庫の松本朗先生の解説には以下のようにありました。「タイムズ文芸付録」に掲載された前作『人間の絆』に対する書評に、「ほかの多くの青年と同様、主人公フィリップスは『月』に憧れつづけ、その結果、足もとにある『六ペンス』銀貨には気づかなかった」と書かれていた。これを読んだモームが「月」は理想を、「六ペンス」は現実をあらわす比喩として、『月と六ペンス』のストリックランドにも応用できると考えたものと思われる(406ページ)。この『人間の絆』の主人公の名前が『五匹の子豚』の登場人物と酷似しているのは、よくできた偶然の一致です。名前といえば、ポアロがメレディス・ブレイク(フィリップの兄)と会うために紹介状を書いてもらう人物がメアリ・リットン=ゴアとクロンショー提督です。メアリ・リットン=ゴアは『三幕の殺人』の登場人物の名前です。きっとクロンショー提督も、どこかにご出演ではなかったかと推察されます。ご存知の方がいらっしゃれば、是非お教えください。 

また名前こそ明記されていませんでしたが、アンジェラ・ウォレンと初対面したポアロは彼女のことを「好みに合う女性ではなかった」と感じています。また、「ポアロの好みは昔から、華やかで贅沢な女だった」とも書かれてありました(最新訳224ページ)。実際ポアロが愛した唯一の女性ヴェラ・ロサコフ夫人は、まさに「華やかで贅沢な」女性です。このようなクリスティー関連の小ネタを見つけることができるのも、『五匹の子豚』という作品の愉快な魅力です。

アガサ・クリスティー『死者のあやまち』は生者のあやまちか?

(『死者のあやまち』の真相に言及しておりますので、ご注意のほどを。文中のページ数はクリスティー文庫のものです。)
まず事件現場のボート小屋に掛けられていた「エール錠」について検証してみます。この鍵が、どのような仕組みになっているかを考えることが、犯人特定へとつながることになるからです。

調べたところ「エール錠」は「シリンダー錠」と同じものらしいのですが、この作品に登場するものには、特殊な性能がついていることになっています。登場人物のマスタートン夫人はp250で次のような説明をしています。
   「エール錠だから、ドアをしめさえすればかかりますもの」
はたして夫人が云うように、総てのエール錠がこのような仕組みになっているかどうかは定かではありませんが 少なくとも作品のおける錠はドアを閉めれば掛かる「自動ロック式」になっていたことは間違いないようです。

実は、それならば被害者マーリン・タッカーが外で殺されてからボート小屋に戻されたという可能性が極めて少なくなります。 犯人はマーリンを呼び出すことができたとしても、鍵のロックが自動的にかかってしまう以上、遺体を中に戻すことが難しくなるからです。ですから作中で警察が外部で殺害された可能性を平気で云々しているのは、かなりナンセンスなことなのです。

ジョージ卿の引き出しに入っている鍵をもちだせるか、鍵が自動ロック式になっていることを知っている人物かというだけで、かなり該当者は特定できます。また、この事件では殺害と失踪とが起こっているのですが、このような場合「人を殺してしまった人間が姿をくらました」と考えるのが最も自然な発想ではないでしょうか(この作品においては誰一人として、この当たり前の考え方をしていないようですが・・・)。
   
とはいうものの、それでは作品の真相は実に単純になってしまいます。

さすがのクリスティー、決して結末が単純にならないように1クッション(いや、2クッション以上かな?)のヒネリをいれています。また、少々うがった推測になってしまいますが、ポアロほどの名探偵(ひいてはクリスティーほどの大作家)が、「エール錠(自動ロック錠)」問題を失念していたとは、どうしても私には思えないのです。

鍵の問題のみに注目しただけで、かなり犯人を絞りこむことができるのですが、おそらくポアロの思考法は、問題の一部分のみを解明しようという方向には向かわないのでしょう。ジグソーパズルを完成させるかのように、この名探偵は真相を解明していきます。殺人犯が誰かという問題のみならず、「事件の背景」や「犯人の動機」といったものまで含めて、隈なく総ての謎を解き明かすように(パズルでいうならば全ピースをはめこむように)、彼は全体像を作りあげていくのです。

誰しも部分的な事柄から全体像を思い浮かべることは可能なのですが、彼は決して想像力に頼ろうとしません。名探偵ポアロの完璧主義(潔癖症?)は、このようなところに見事に描かれていると考えられるのです。

ところで『死者のあやまち』は、かなり大胆な設定の作品だといえます。架空の推理ゲームを演出していたら、被害者役の人物が本当に殺されてしまうわけですから。オリヴァ夫人が考案した推理ゲームの解答を見つけ出すことが、現実に起こった殺人を解明するヒントになっていたとすれば、いわば二重構造(劇中劇構造)をもった新機軸の作品として完成されていた可能性もあります。この作品では、「推理ゲーム」と「実際の事件」に相互影響があったのではというところまでは描かれているのですが、惜しいことに二重構造(劇中劇構造)作品にはなりませんでした。達成するのは困難でしょうが、今後『死者のあやまち』に触発されて新機軸の作品を創作しようとする作家は登場するかもしれません。(「架空の物語」が「実際の事件」に影響を与える作品でしたら、エラリー・クイーンにもあるんですが・・・)

さて作品『死者のあやまち』はデヴィッド・スーシェのTVドラマ「名探偵ポワロ」シリーズの最後の撮影作品になりました。作品としては『カーテン』が最後なのですが、デヴィッド・スーシェは哀しい『カーテン』では終わりたくなかったようです。最後の作品にふさわしくロケ地はグリーンウェイにあるアガサ・クリスティーの別荘が選ばれました。犯人の複雑な失踪方法もドラマで描かれると実にわかりやすいです。

ただ難点となるのは、やはり冒頭に述べた「鍵」の問題です。ドラマの中ではボート小屋の鍵が自動的にかかるという説明がありませんでした。死体を発見するときにオリヴァ夫人がボート小屋の鍵を開けている以上、「自動ロック式」でなかったならば被害者が殺害された後に誰かが施錠していなければならなくなるのです。犯人は殺害直後に巧みなトリックを使って失踪しているわけですから、鍵をジョージ卿の引き出しに戻す時間はなかったはずです。ジョージ卿自身が施錠に協力した、あるいは4つめの合鍵が存在したと考えざるをえなくなってきます。

この辺りがドラマの難しいところです。どうしても細部は省略しなければならないのですが、その細部が肝心なポイントを指し示してしまっていることもあるのです。このような瑕瑾はあるものの、ここは四半世紀にわたって「名探偵ポアロ」を作り続けたデヴィッド・スーシェとスタッフの偉業に、ただただ賛辞を送りたいと思います。

実は映画『ナイル殺人事件』『地中海殺人事件』と同じくピーター・ユスティノフがポアロを演じる『死者のあやまち』もあるそうです。見比べるためにも、スーシェ版がファイナル・シーズンを迎えたことを契機にDVDで発売してほしいものです。(鍵の所在が重要な「鍵」となるアルフレッド・ヒッチコックの名作『ダイヤルMを廻せ』も、何だか懐かしく思い出されてきました。久しぶりにDVDで鑑賞してみたいです。)
 

   

 アガサ・クリスティー『白昼の悪魔』論

 (アガサ・クリスティー『白昼の悪魔』それから一部『ナイルに死す』の真相部分に言及しますので、ご注意ください。)
 作品『白昼の悪魔』に関して挙げられる第一の特徴は「犯人の動機が弱い」ということです。実に巧妙なトリックを考案したにしては、パトリックとクリスチン(レッドファン)夫妻の側にどうしても女優アリーナ・スチュワートを殺さなければならない必然性がないのです。そのようにお感じなった読者の方も多いでしょう。今一度精査する必要はあろうかと判断されますが、むしろクリスティーの諸作品の中では動機が不明確な作品は珍しいと記憶しています(たいていの動機は「財産ねらい」か「報復」または「隠匿」)。
 第二の特徴として、事件解明までのポアロの思考経過がたどりにくいということが挙げられます。作中ポアロがパズルを例に挙げて「いまの一枚みたいなことが起こるんですよ」(p298)と述べていますが、この事件においては決定項となる論拠が発見できているとはいい難いのです。これも精査の必要がありますが、多くの場合ポアロは「さりげないひとこと(主にヘイスティングズの)」や「微妙な違和感」や「些細な矛盾」を拠点(まさに決定的な一枚のピース/笠井潔さんの生んだ探偵・矢吹駆がいう現象学的支点)にして論理を組み立てていきます。ところが、この作品においては、その一点が定められてないのです。たしかにポアロの真相解明の根拠となった事項は示されるのですが、並列に述べられているだけです(洞窟の中の香水の匂い、投げ捨てられたビン、誰かがシャワーを浴びていた音など・・・)。このあたり映画版(邦題は『地中海殺人事件』、脚本は『ナイル殺人事件』のアンソニー・シェーファー=『アマデウス』のピーター・シェーファーの双子の弟)の方が、上手に解明の根拠とプロセスが描けていたように感じました。
 第三の特徴は「トリックの成立が多くの偶然性に任されている」という点です。ドラマ版『白昼の悪魔』にはエミリー・ブルースターが宿泊客をテニスに誘うという場面がありますが、もしテニスがなされていなければクリスチンのアリバイ・トリックを成立させるのが難しくなってしまいます。クリスチンはリンダ・マーシャル(ドラマ版ではライオネルという名の男の子)を海岸に誘いますが、これとてリンダが応じていなければトリックは成立しません。腕時計への細工も困難で、もし時間を戻しているときにリンダが振り向いてしまえば一巻のおわりです。誰でも崖の上から覗けるような場所が犯行現場に選ばれていますし、もしアリーナ・スチュワートが洞窟に向かわなかったとすれば、クリスチンの偽装が不可能になってきます。アリーナは自分の方に向かってくるクリスチンの姿を見て洞窟に隠れるのですが、よくよく考えてみますれば不倫現場を押さえられたわけでもなく、彼女は平然としていてもよかったはずです。偶然の力にも支えられ、これだけの悪条件がクリアーされなければ、この奇想天外なトリックは完成しないのです。
 もちろん、どのような計画的犯罪も幾ばくかの偶然性(幸運)に支えられていなければ達成できません。ところで、この第三の特徴と、「動機」の問題(第一の特徴)を重ね合わせてみればどうなるでしょうか。すると犯人は「偶然にも犯罪を成立させる条件が総て整ってしまったがゆえに」犯罪を実行するに及んだという解釈が可能になってきます。その条件のひとつでも欠落した場合、犯人は甘んじてお縄になったか、いち早く逃走したと考えられるのです。では犯人の主たる動機はどこにあったといえるでしょうか。この犯罪者は殺人計画を立てるのが趣味で、その計画が実行できるかどうかを試すことに異常な生き甲斐を感じるような夫婦だったという見解が成り立つのです。殺人が趣味だとすれば、まぎれもなくクリスチンとパトリック(レッドファン)夫妻は「悪魔」だったといえます。『白昼の悪魔』Evil under the Sunは、まさに、そのような点まで踏まえてつけられた題名なのかもしれません。
 第二の特徴として挙げたポアロの論理性の欠如もいたしかたないことだったでしょう。だって相手は「悪魔」だったのですから。多くポアロは自分の洞察力によって犯人側の小さなミスを発見します。しかし、それも犯人側がその人間性に基づいて幾分論理的に考えるからできるのであって、相手が文字通り「悪魔の思考」しかできない場合は、論理もヘチマも使いようがないのです。この度の犯人特定の根拠をポアロは大きくふたつ述べています。ひとつは日光浴をするため海岸によこたわる人体(死体)は見分けがつきにくいということです(p362)。しかし遠くから眺める場合と犯罪現場のように近くで見た場合は、あまりにも状況が違います。むしろ、これは後づけの論理というものでしょう。もうひとつはパトリックの印象が「もっともそれらしき(マリーナを殺しそうな)人物」だったということでした(p372)。この論理は単なる直感に等しいのですが、悪魔が相手ですからこんな推理しかできなかったのです。
 『白昼の悪魔』は第二次大戦中に執筆されました。うがった見解になってしまいますが、舞台は戦場から遠く離れているものの、人間の心に忍び寄る悪魔の姿が描かれているという点で、この作品にも幾分戦争が影を落としていると考えられます(スチーブン・レーンという牧師までもが精神を病んでいるという設定も、総ての人間が狂気に向かいつつあるという意味で戦争を象徴しているのかもしれません)。
 さて、この作品の犯人の設定を『ナイルに死す』と比するという見解がありますが、もうひとつクリスティーの念頭にあったと考えられる作品があります。作中バリー少佐は次のように過去の犯罪を思い出そうとします。
「孤島殺人事件か・・・新聞はそう書くな。そう言えば、いつだったか・・・」(p205)
このあと少佐が続けて言おうとしたのは、どの事件だったでしょうか。話し相手になっているウェストン刑事が直接関わったのは『邪悪の家(エンド・ハウスの怪事件)』の事件でしたが、これは孤島が舞台になっているとはいい難いものです。『白昼の悪魔』の舞台レザーコム湾スマグラーズ島はバー・アイランドがモデルになったとされていますが、同じ島がモデルになっているのは『そして誰もいなくなった』でした(平井杏子さん『アガサ・クリスティーを訪ねる旅』大修館書店より)。最高傑作とも評価される『そして誰も居なくなった』。それにに匹敵するもうひとつの孤島ミステリーをクリスティーは描きたかったのではないでしょうか。もちろん『白昼の悪魔』の舞台は完全な孤島といい難く、そもそも完璧な「クローズ・ド・サークル」が存在するのかという問題もあります。(例えば綾辻行人さんの諸作品においては、「クローズ・ド・サークル」自体の不完全性が巧みに活用されているのです。)
アガサ・クリスティーが、どのようなところまで想定して作品を書いていたのか。それを想像したり推理したりすることもクリスティーを読む愉しみだといえるでしょう。

クリスティー『満潮に乗って』論

  (アガサ・クリスティー『満潮に乗って』の真相部分に言及しますのでご注意ください。)
   今回ポアロはうぬぼれが過ぎてバチが当たっています。『三幕の殺人』の終局で自分はワザと尊大にふるまって相手を油断させていると力説していたポアロですが、どうしてどうして彼の自尊心強さには拭いがたいものがあるのです。
   ローリイ・クロードからロバート・アンダーヘイ(イノック・アーデン)の正体を突き止めてほしいと依頼されたポアロは、アンダーヘイとの旧知ポーター少佐を見つけ出します。実は、もともとポーター少佐のことを知っていたのですが、見栄を張った彼は超人的な技で短時間のうちに見つけ出すことができたかのように嘘をつきます。その結果、騙したはずのポアロが、最終的に騙されることになってしまいました。やや宗教的な教訓も読みとれる設定になっているのですが、カトリックの信者であることをポアロ自身が明言しているところも、この作品の特徴です。
   そのカトリックの信者であるということが、ひとつの伏線になっているあたりの設定は見事なのですが、残念ながら今回の事件の真相は、一点だけに特定することができない高い蓋然性をもってしまっています。人間関係が複雑すぎて、他の人物が犯罪に関与した可能性が否定しきれないのです。気がついたところだけ指摘すると・・・
  *ロバート・アンダーヘイのところに訪れた女性がアデラ・マーチモント、フランセス・クロード、ケイシイ・クロードである可能性はないのか。
  *ポーター少佐がジャーミイ・クロード、ライオネル・クロードとも結託していた可能性はないといい切れるか。
  *モルヒネを処方したのがジャーミイ、ライオネル、あるいはローリイ・クロードだという可能性は捨てられるのか。
  *途中、自殺者が出るが絶対に自殺だと断定できるのか             。
などです。もちろん、どんなミステリーも他の真相がある可能性を否定しつくすことはできないのですが、この事件の場合は選択しうる結論の幅が広すぎるのです。そんな状況にあってポアロの天才性は、他の誰をも思いつかなかった可能性(意外性)にたどりつくという点において発揮されていきます。ポアロお得意の転倒術が意外な真相を導き出していくのです。例えば・・・
  *騙したと思っていた者が騙されており、騙されたと思っていた者が騙していた。
  *女だと思っていた者が、実は男だった。
  *他殺だと思われていたものが事故だった。自殺だと思われていた者が他殺だった。
  *偽物だと思われていた者が本物だった。本物だと思われていた者が偽物だった。
というような点をポアロは解明していきます。しかし、今回の推理の白眉は、次のような転倒をやってのけたところにあると考えられます。
  *動機がないと思われていた者に動機があり、動機がないと思われていた者に動機があった。
普通このような発想が成り立つのは「交換殺人」の場合です。明確な動機が存在する場合、ほとんど人はそれを疑おうとしないからです。それほど人は固定化させて物事を考えてしまうものです。決して物事を決めつけてしまうことなく自由な思考ができるところにポアロの優れた能力があるといえるのです。
   面白いことをポアロが言っている箇所がありました。イギリスの田舎に比べて彼の祖国ベルギーでは夜遅くまで小さなコーヒー店が開いていると言っていました(第二篇5章・P273)。今度ベルギー出身の先生に確かめておきたいと思います。
  

クリスティー『象は忘れない』論

   (アガサ・クリスティー『象は忘れない』の真相に近いところまで言及しますので、ご注意委ください。)
   この『象は忘れない』も、過去の事件の解明にポアロが取り組む『五匹の子豚』『マギンティ夫人は死んだ』『ハロウィーン・パーティ』と同系列の作品です。真相解明が不充分だったがため、遺された人々にとっては過去の出来事に対する不鮮明さがトラウマになっていたりもします。物語においてトラウマを背負った人物は一種の決断を迫られます。もし解明された事実が自分にとって不都合なものだった場合、その人物の絶望は決定的なものになります。もし解明された事実が自分の思い込みに過ぎなかったと判明した場合、その人物はトラウマから解放されることになります。この「過去の事件」系の作品は、精神分析学的主題を内包してといえるでしょう。『マギンティ夫人は死んだ』の被疑者のように自分の人生を捨て去ってしまったような場合もありますが、この『象は忘れない』のシリヤ・レイヴンズクロフトは、『五匹の子豚』の主人公と同じように自分の過去の真実に敢然と立ち向かいトラウマと対決しようとするのです。
   今回は女流探偵作家アリアドニ・オリヴァが依頼を受けます。文学者の昼食会でミセス・バートン・コックスが声をかけてきたのですが、自分の息子が婚約したシリヤ・レイヴンズクロフト(オリヴァ夫人の名付け子)の両親は、10年以上前に同時に射殺されていました。警察の捜査では心中事件ということで片付けられたのですが、どちらが先に撃ったのか、そして心中の真の理由は何だったのかが気にかかるというのです。
   オリヴァ夫人から相談を受けたポアロが着目した事柄は次の2つです。
   ・かつら(シリアの母の所有数が多い)
   ・夫婦の飼い犬(は、どうなったのか)
   名探偵だけ感受できる微細な違和感が、やがて事件全体の解明に役立っていくという推理小説のセオリーを見事に踏襲しています。その違和感の小ささと、得られた情報量の多さとのギャップが大きければ大きいほど推理小説としては成功しているといえるのですが、読者の皆様はどのように評価されるでしょうか。
   概して人は違和感を抱いたとき、それをできるだけ手近でわかりやすい理由をつけて解消しようとします。そもそも人間の精神は不明なものを感じ続けると不安になるようにできているのでしょう。眼前にある異質なものに対して合理的で面白い存在理由を案出できれば、最もすっきりできるはずなのですが、明確なものが得られるまでの不安定さを放棄してしまいがちになるのが人間なのです。やはり名探偵は特殊な資質に恵まれているといえます。
   物語の中で双生児に対する言及がでてきます。双生児は趣味や嗜好、行動パターンまで近似する(例えば好きになる異性のタイプまで同じ)場合が多いとはよくいわれることですが、一方で執拗に激しく(それこそ殺したいほどに)憎み合う場合もあるそうです。前者と後者の相違はどこから発生するのか。その点について、どのような心理学的あるいは生物学的な分析がなされているのか。興味深い問題だと思いました。
 

クリスティー『茶色の服の男』論

 偉大なる落語家・笑福亭福笑師匠が一番お好きなアガサ・クリスティー作品です。『スタイルズ荘の怪事件』『秘密機関』『ゴルフ場殺人事件』に続く第四作で、クリスティーの名声を世界的にならしめた『アクロイド殺し』の一つ手前の作品です。後年執筆される諸名作の原形を読みとるならば、代表的な傑作と呼んでもさしつかえない一品といえるでしょう。
 主人公アン・ベディングフェルドは作中でつぶやきます。「だってシューザン、あなたも探偵小説を読んだことがあれば、いちばん怪しくない人物がいつだって犯人だってことぐらい、知ってるはずよ。」この時点で、推理小説において重要な「意外な犯人」というエッセンスが壁に当たっていることがうかがわれます。推理小説は、すでにクリスティーの時代で行き詰まっていたとも考えられるのです。この壁に直面した推理小説作家にとって選ぶことができた道は、「犯人の意外性」以外の意外性を読者に与えるということでした。その道は現代の推理小説にまで続いています。クリスティーも、この作品において別の意外性をもたらすということを試みていました。
   ところが、この作品以後クリスティーの代表的傑作として後世に残ったものの多くは、「意外な犯人」という試みによって書かれているのです(あの名作しかり、この傑作もしかり・・・)。壁を乗り越えるため、推理小説という形式そのものの破壊が行われたと解釈できるような場合もありました。とはいうものの私たちはクリスティーを新しい形式の創造者とこそ思いはしますが、あまり形式の破壊者とは感じないはずです。なかなか微妙な問題になってきますが、クリスティーにとって推理小説の限界は、決して形式の不備ではなく、自分の力量を向上させるための壁としてとらえられていたのではないでしょうか。ただ単純に割り切れないのは、ある種の創造的な精神にとって「形式の不備」と「力量の向上」は同時に感受される問題になっていることがあるのです。たとえばレイモンド・チャンドラーは既成の推理小説を激しく批判しましたが、彼自身は新しい小説形式の創造に成功しているといえます。
 微妙なのは、そこのところです。ともかくもクリスティー女史は地道に小説を書き続け、数多くの作品を残しました。その中には意外性のインパクトは少ないものの、小説として充分に面白い作品も多くあります。この世には「単なる破壊者」で終わってしまう人もいるでしょう。破壊者となるのも創造者になるのも紙一重なのかもしれませんが、破壊者となりさがらない秘訣を私たちはクリスティーから学ぶことができるのではないでしょうか。

クリスティー『三幕の殺人』論

 (アガサ・クリスティー『三幕の殺人』の真相部分に言及しますので、ご注意ください。)
  この作品もデビット・スーシェの「名探偵ポワロ」シリーズで今回はじめてドラマ化されました。クリスティー作品の中では比較的ポピュラーな作品なのに、なかなかドラマ化されなかったのは、この作品では物語半ばまでポアロが脇役にまわっているからでしょう。前半部では、チャールズ・カートライトとハーミオン・リットン・ゴア(エッグ)とサタースウェイトの三者によって主に事件の調査は進められていくのですが、ポアロが徐々に主役の座を奪っていくような展開が面白いです。
  そもそも、この作品は演じる者(俳優)と演じる者(探偵)との対決という構図を骨組みにしています。最後のポアロの科白「毒を飲んだのはこのわたしだったかもしれないのですよ」は、前半部にあるチャールズの「ぼくが死体にならないことだ」という言葉に対応しているのです。では何故ポアロの方が役者が一枚上だったのか。チャールズは自分の演技に酔っているかのようにみえます。特に探偵役を演じるときは、壁についたインクのシミから失踪した執事(エリス)に殺人を犯す意図がなかったという自分にとって不利になるような推理を展開したりもしています。対するポアロは演じている自分を客観視できているように見受けられます。サタースウェイトにする最後の述懐がそれを物語っているのです。自分が下手な英語を使うのも、尊大な振りをするのも、総て相手を油断させるためだと。
 そもそもサタースウェイトは別シリーズ『謎のクィン氏』の主人公でした。この作品は心理学的小説ともいえるもので、心の中の「影」とも呼べるクィン氏が登場し謎を解決していきます。サタースウェイトは常に第三者的な位置におり、事件や人物を映し出す鏡のような役割をはたしていました。その役割は『三幕の殺人』引き継がれており、作中ポアロは珍しく自分について述べようとします(例えば祖国に兄弟がいたことなど)。不思議なことに、今度は作中人物が鏡となり、サタースウェイトが自分の過去を語り出すような場面もあります(メアリー・リットン・ゴア=エッグの母にかつて婚約者がいたことを語り出す件。このエピソードは『謎のクィン氏』にも描かれていた)。
  ただしポアロの最後の科白はシニカルな響きをもっています。この名探偵は尊大さを装っているのではなくて本当に尊大な人間である可能性があるのです。「自分を客観視できている自分」を演じている。そんな印象さえ受けます。そうだとするならば、単にポアロの方が演じるものとしての能力が一枚上手だったということになります。
 今回もポアロは「トランプの家」を組み立てていました。しかし事件解決の直接的な糸口になったのは、「トランプの家」自体がもたらした論理的思考ではなく、トランプではなくファミリーカードを使ってしまったという派生的な事柄です。『邪悪の家』のときも、「トランプの家」を作る作業によってもたらされた発想は、事件解決には連動していませんでした。習慣化されているポアロの行為は、それが直接的に解答や解決をもたらすというものではなく、ときにより意外な要素を彼の思考のうちに呼び込んでくるという効用をもっているといえましょう。
 ドラマには、サタースウェイトは登場せず、そのためにチャールズとポアロが古くからの友人であるという設定になっています。チャールズは若いエッグのみならず、友人ポアロをだますということになってしまうわけですが、後の『オリエント急行の殺人』と同じく、どうもこのTVドラマ・シリーズは苦悩するポアロを描くことに眼目があるようです。
 

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