- 2016-07-31 (Sun) 21:38
- うははシネマ専科
かつて、これほどわからないことだらけで、これほど面白い映画があったであろうか。
まず幾枚かのモノクロームの写真が続く。いつの時代、どこの場所を映したものかわからない。壊れた建物が見え、映し出されている人々は豊かではない生活を強いられているようには感じとれる。少しカラー写真が映し出されたりもするのだが、肖像画が映し出されている時点で、どこからともなく足音が響いてくる。映画における足音というものが、かくも魅力的になることを改めて実感させられもするが、やがてカメラが不意に横移動し、階段を降りていく後ろ姿とともに、いつの間にか映画は始まっている。
上半身裸の男が向かっているのは牢獄なのか病院なのか、それもわからない。トンネル状の通路を歩いていることだけは確かだ。ここでトンネルを歩く人間の姿が、いかに映画的瞬間にふさわしいかを思い返さずにはいられないのだが、この男が誰なのか、病んでいるのか正常なのか、それすらも知らされないうちに映画は進んでいく。登場する総ての人物が架空と現実の間に存在しており、これまた見舞い客なのか病人なのか(はたまた医者なのか)わからない女性まで出現する。ただ理解できるのは、この女性も映画の中では女優という役割を演じているということだけだ。
やがて何とも味わい深い歌声とともに誰ともわからぬ人々のショットが映し出され、例の男が戦車と兵隊に追いつめられたり、明らかに廃墟となった建物の中で壊れた電話をかけたり、親類とおぼしき男と可笑しな歌をデュエットしたり、極めつけはエレベーターの中で人間なのか銅像なのかわからない銀色の兵隊と会話ともつかぬ会話をしたりと、限りなく面白い場面が目白押しに続くのだが、ただただ面白いのであって、何を描こうとした作品なのか全く理解させないまま映画は終わっていく。
映画のパンフレットを買い求め、冒頭の蓮實重彦氏の文章を読めば、(そこに、あの『伯爵夫人』不機嫌会見が嘘であったかのような朗らかな表情を浮かべた蓮實氏が、ペドロ・コスタ監督と一緒に写っていたりもするのだが)、例の男がヴェントゥーラという名であり、1975年3月31日にポルトガルで起こった「カーネション革命」にまつわる彼自身の体験を描いた映画であることが判明するのだが、何がわかったところで、この映画の面白さが変容するわけでもない。
わからなさという点ではジャン=リュック・ゴダールの映画と双璧をなすのであろうが、ゴダールの映画がただただ美しいのに対して、ペドロ・コスタの映画はただただ面白い。しかも、やはり美しい。特に照明の使い方においては絶品である。おそらく監督自身の発言をはじめ、映画の内容が理解されてくるにつれて、この作品にまつわる言説は日増しに発信されていくであろう。しかし、結局のところ、この映画自体の存在感の前では、あらゆる言節は沈黙せざるをえないのではないか。
ペドロ・コスタ監督の『ホース・マネー』は、そんな映画である。
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