- 2015-03-04 (Wed) 00:09
- うははシネマ専科
ひとことでいうならばゴダールの新作『さらば、愛の言葉よ』は「水の映画」です。もちろん、この映画は「空の映画」でもあり「木々の映画」でもあり「船の映画」でもあり「犬の映画」でもあります。さらには「火の映画」といっても差し支えないでしょう。何の意図をもって挿入されたのか定かではない戦場のシーンでは、明らかに燃えさかる「火」が映し出されているわけですから、この作品が文字通り「火」を描いていると断言したとして、これを否定することはできないはずです。
そもそも、ある映画をひとつの単語でくくって述べることに無茶があります。とはいうものの『さらば、愛の言葉よ』に対しては、これが「水の映画」であり、作品に中では「水」が一種の特権性・優先性をもっていると断定したくなる誘惑にかられてしまいました。被写体となった「水」もさることながら、レンズを湿らせている「水」に、画面を際立たせる魔力があると断言せざるをえないからです。それは3Dであっても2Dであっても同じことです。あたかもイーストウッドの『アメリカン・スナイパー』で緩やかに走る葬列の車両が、それを捉えるレンズの湿り気によってただならぬ光沢を醸し出していたように、『さらば、愛の言葉よ』では、たとえば泉に手をつけるショットをはじめ、そこに水があるがゆえにきらめき出す画面が横溢しています。一応誤解のないように書いておきますが、これらの画面は単に濡れているから素晴らしいのではなく、イーストウッドやゴダールによって撮られているがゆえに素晴らしいのです。
もちろん『さらば、愛の言葉よ』では間違いなく「犬」も、ある特権性をもって映し出されているといえます。たとえば、この「犬」が雪の上に突然寝転がり、体をこすりつける場面は何度でも観たくなるような名場面ですが、その「犬」も自ら川に流されることによって、さらに面白い映像を創出することに加担しているかのようです。溺れそうになるという危険に遭遇したにもかかわらず、続いて再び「川(湖)」に近づいていこうとするあたり、この「犬」は今一度水に濡れることを希求しているようにも見えます。男と女は必ずシャワーを浴びようとし、その水が絵の具か血か定かならぬ「赤」に染まったりもするのですが、「犬」と同様に「彼ら」は水に触れることがゴダール映画における特権的存在の約束事であることを知っているようです。途中、シャワーを浴びる直前で女が男を拒否するというシーンがあるのですが、そこで観客に何とも裏切られたような気分がもたらされるのは、本来行われるべきであった通過儀礼が中断されてしまったからなのかもしれません。
ところで、この度、この作品を見直して、新たに気づいたことがあります。メアリー・シェリー(『フランケンシュタイン』の原作者)と思しき女性が、自分の名前を署名する場面で聞こえてくる音が、たまらなくイイです。筆が紙にこすれるキュウキュウという音が、このうえない快感を与えてくれます。その幾つか後のシーンで聞こえる万年筆の音も、なかなか心地よいのですが、筆記用具の運動が新鮮な映画的瞬間を創り出すことを、あらためて教えられたような気がしました。
また、この映画の最後(厳密にいえば最後の場面ではないのですが)には赤ちゃんの泣き声が聞こえてきます。この度見直して、その声に「犬」の鳴き声も混じっているように聞こえました。そういえば、この作品に登場する「犬」は映画の最後まで一度たりとも吠えることがなかったのではないでしょうか。なぜ、この「犬」は吠えないのか。再び、この『さらば、愛の言葉よ』と出会うことがあれば、そのときに考えてみたいと思っています。
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