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トランプの家

ただただ面白いというしかない映画  ~ ペドロ・コスタ監督『ホース・マネー』

かつて、これほどわからないことだらけで、これほど面白い映画があったであろうか。
まず幾枚かのモノクロームの写真が続く。いつの時代、どこの場所を映したものかわからない。壊れた建物が見え、映し出されている人々は豊かではない生活を強いられているようには感じとれる。少しカラー写真が映し出されたりもするのだが、肖像画が映し出されている時点で、どこからともなく足音が響いてくる。映画における足音というものが、かくも魅力的になることを改めて実感させられもするが、やがてカメラが不意に横移動し、階段を降りていく後ろ姿とともに、いつの間にか映画は始まっている。

上半身裸の男が向かっているのは牢獄なのか病院なのか、それもわからない。トンネル状の通路を歩いていることだけは確かだ。ここでトンネルを歩く人間の姿が、いかに映画的瞬間にふさわしいかを思い返さずにはいられないのだが、この男が誰なのか、病んでいるのか正常なのか、それすらも知らされないうちに映画は進んでいく。登場する総ての人物が架空と現実の間に存在しており、これまた見舞い客なのか病人なのか(はたまた医者なのか)わからない女性まで出現する。ただ理解できるのは、この女性も映画の中では女優という役割を演じているということだけだ。

やがて何とも味わい深い歌声とともに誰ともわからぬ人々のショットが映し出され、例の男が戦車と兵隊に追いつめられたり、明らかに廃墟となった建物の中で壊れた電話をかけたり、親類とおぼしき男と可笑しな歌をデュエットしたり、極めつけはエレベーターの中で人間なのか銅像なのかわからない銀色の兵隊と会話ともつかぬ会話をしたりと、限りなく面白い場面が目白押しに続くのだが、ただただ面白いのであって、何を描こうとした作品なのか全く理解させないまま映画は終わっていく。

映画のパンフレットを買い求め、冒頭の蓮實重彦氏の文章を読めば、(そこに、あの『伯爵夫人』不機嫌会見が嘘であったかのような朗らかな表情を浮かべた蓮實氏が、ペドロ・コスタ監督と一緒に写っていたりもするのだが)、例の男がヴェントゥーラという名であり、1975年3月31日にポルトガルで起こった「カーネション革命」にまつわる彼自身の体験を描いた映画であることが判明するのだが、何がわかったところで、この映画の面白さが変容するわけでもない。

わからなさという点ではジャン=リュック・ゴダールの映画と双璧をなすのであろうが、ゴダールの映画がただただ美しいのに対して、ペドロ・コスタの映画はただただ面白い。しかも、やはり美しい。特に照明の使い方においては絶品である。おそらく監督自身の発言をはじめ、映画の内容が理解されてくるにつれて、この作品にまつわる言説は日増しに発信されていくであろう。しかし、結局のところ、この映画自体の存在感の前では、あらゆる言節は沈黙せざるをえないのではないか。

ペドロ・コスタ監督の『ホース・マネー』は、そんな映画である。

不均衡の極致~ 映画『山河ノスタルジア』を観て

ジャ・ジャンクー(賈 樟柯)監督の『山河ノスタルジア』を観た。

例えば、タオの父が営む家電屋のドアの音。

不均衡に「でかい」音がするのである。この映画の中には、面白いほどに「不均衡」なものが横溢している。

花火やダイナマイトの爆発音。祭りやディスコで鳴る音楽。

何も音だけではない。登場人物たちの演技に突然介入する不思議な間。異常に遅いタオのバイク。困惑から喜びへと豹変する彼女の表情。

唐突に落下する飛行機。横転しそうになりながら石炭を落とすトラック。斜めに飛ぶヘリコプター。

それらを単なるディフォルメな表現と解してもつまらないだろう。また人は「極端な描写」にこそリアリティを感じてしまうのかもしれない。

しかし映し出される個々の画面は、「郷愁」や「自然」を描くという意図を遙かに超えて存在している。

映画においては調和だけが美しいのではない。作品『山河ノスタルジア』は、その事実をあらためて思い起こさせてくれる。

物語は、別れた旧友の不治の病、父の死、息子との再会、その息子の中年女性との恋へと、まさに予定調和から遠ざかるように横滑りに滑っていく。物語の展開そのものが「均衡」を欠いているのである。だからといって、映画『山河ノスタルジア』は「故郷喪失者の破滅的悲劇」という、ありきたりな物語へと集約されていくわけでもない。

これとて、人は、断片的な記憶で形作られるリアルな「人生の物語」を読みとってしまうのかもしれない。

しかし、そこに人が何を読みとろうと、最後に踊るタオのダンスの生々しさは如何ともしがたいのではないか。

雪の光景にも、タオの年齢にも不似合いなダンス。彼女は単に懐かしがっているだけなのか。それとも、年甲斐もなくふざけているだけなのか。

どんな解釈してみたところで、この作品がもつ生々しい不均衡を調整しつくすことはできない。

今一度いうが、映画においては調和だけが美しいのではない。

ジャン=リュック・ゴダールの新作映画『さらば、愛の言葉よ』とは?

ひとことでいうならばゴダールの新作『さらば、愛の言葉よ』は「水の映画」です。もちろん、この映画は「空の映画」でもあり「木々の映画」でもあり「船の映画」でもあり「犬の映画」でもあります。さらには「火の映画」といっても差し支えないでしょう。何の意図をもって挿入されたのか定かではない戦場のシーンでは、明らかに燃えさかる「火」が映し出されているわけですから、この作品が文字通り「火」を描いていると断言したとして、これを否定することはできないはずです。

そもそも、ある映画をひとつの単語でくくって述べることに無茶があります。とはいうものの『さらば、愛の言葉よ』に対しては、これが「水の映画」であり、作品に中では「水」が一種の特権性・優先性をもっていると断定したくなる誘惑にかられてしまいました。被写体となった「水」もさることながら、レンズを湿らせている「水」に、画面を際立たせる魔力があると断言せざるをえないからです。それは3Dであっても2Dであっても同じことです。あたかもイーストウッドの『アメリカン・スナイパー』で緩やかに走る葬列の車両が、それを捉えるレンズの湿り気によってただならぬ光沢を醸し出していたように、『さらば、愛の言葉よ』では、たとえば泉に手をつけるショットをはじめ、そこに水があるがゆえにきらめき出す画面が横溢しています。一応誤解のないように書いておきますが、これらの画面は単に濡れているから素晴らしいのではなく、イーストウッドやゴダールによって撮られているがゆえに素晴らしいのです。

もちろん『さらば、愛の言葉よ』では間違いなく「犬」も、ある特権性をもって映し出されているといえます。たとえば、この「犬」が雪の上に突然寝転がり、体をこすりつける場面は何度でも観たくなるような名場面ですが、その「犬」も自ら川に流されることによって、さらに面白い映像を創出することに加担しているかのようです。溺れそうになるという危険に遭遇したにもかかわらず、続いて再び「川(湖)」に近づいていこうとするあたり、この「犬」は今一度水に濡れることを希求しているようにも見えます。男と女は必ずシャワーを浴びようとし、その水が絵の具か血か定かならぬ「赤」に染まったりもするのですが、「犬」と同様に「彼ら」は水に触れることがゴダール映画における特権的存在の約束事であることを知っているようです。途中、シャワーを浴びる直前で女が男を拒否するというシーンがあるのですが、そこで観客に何とも裏切られたような気分がもたらされるのは、本来行われるべきであった通過儀礼が中断されてしまったからなのかもしれません。

ところで、この度、この作品を見直して、新たに気づいたことがあります。メアリー・シェリー(『フランケンシュタイン』の原作者)と思しき女性が、自分の名前を署名する場面で聞こえてくる音が、たまらなくイイです。筆が紙にこすれるキュウキュウという音が、このうえない快感を与えてくれます。その幾つか後のシーンで聞こえる万年筆の音も、なかなか心地よいのですが、筆記用具の運動が新鮮な映画的瞬間を創り出すことを、あらためて教えられたような気がしました。

また、この映画の最後(厳密にいえば最後の場面ではないのですが)には赤ちゃんの泣き声が聞こえてきます。この度見直して、その声に「犬」の鳴き声も混じっているように聞こえました。そういえば、この作品に登場する「犬」は映画の最後まで一度たりとも吠えることがなかったのではないでしょうか。なぜ、この「犬」は吠えないのか。再び、この『さらば、愛の言葉よ』と出会うことがあれば、そのときに考えてみたいと思っています。

『劇場版名探偵コナン/11人目のストライカー』はじまる

  4月14日。劇場版・名探偵コナンの第16作『11人目のストライカー』が封切り。
  映画館での上映作となると、どうしても大爆発が起こるようなスペクタクルな事件が起こることになります。犯人の動機と事件の規模とのバランスがとれていないことが、この劇場版シリーズの難点といえば難点なのですが、このシリーズの人気が持続してきたことには何か他の要因があるのかもしれません。
  自分のマイナス面を上手に生かせというプロ・サッカー選手の言葉が出てきますが、高校生としての身体を奪われたコナン(工藤新一)こそ、自分の欠落部分を何とか補って事件を解決してきた人間なのです。必死に欠損部分を埋めようとするコナンには、アガサ博士の発明品や少年探偵団のお節介など、あらゆるものが味方をするのです。今回はサッカーによって何かを奪われ、そのことを恨んでばかりいる犯人とコナンは対決することになるわけです。またコナンにはゆっくり考えている時間が与えられていません(特に劇場版の場合)。常にせまりくる時間に追われる危機的状況に彼はおかれます。いかなるときにも彼は「なんとかしなければならない」という思いを最優先にして、実際になんとかしてきたのです。これも高校生の身体が奪われたときから、コナンが貫いてきた発想法なのです。彼はあれこれ悩むより前に、目の前にある自体を「なんとかかする」ということだけを優先させていきてきたのです。
  そんなコナンの姿が、このシリーズを継続させているのかもしれません。

映画『オリエント急行殺人事件』そしてヒッチコックの『バルカン超特急』

  TVドラマ版の新作『オリエント急行の殺人』がついに放映されたので、あらためて映画版「オリエント急行」をDVDで観てみました。日本では興行的に成功はしなかったようですが、ともかく、このキャストの豪華さに舌を巻きます。ポアロ役のアルバート・フィーニーをはじめ、ローレン・バッコールは出ているは、ジャックリーヌ・ビセットは出ているは、ショーン・コネリーは出ているは、マーチン・バルサムは出ているは、リチャード・ウィドマークは出ているは、ヴァネッサ・レッドグレープは出ているは、アンソニー・バーキンスは出ているは・・・、それだけでもすごいのに、うっかり見過ごしそうなところにイングリッド・バーグマンまで出ているは、という超ゴージャス出演陣です。あたかも原作者アガサ・クリスティーを褒めたたえるためにつくられた映画であるかのようです。クリスティーという作家が、いかにヨーロッパやアメリカで愛されてきたかということが伝わってきます。
  監督は『12人の怒れる男』のシドニー・ルメット。よく考えてみれば、この作品自体が陪審員劇『12人の怒れる男』のパロディ(オマージュ)になっていると解釈できることに気づきました。
引き続いて似た映画としてアルフレッド・ヒッチコック監督の『バルカン超特急』(1938年)が、どうしても観たくなり棚の奥からDVDを引っ張り出してきました。日本公開は随分遅く1978年でした。そのときの映画チラシに次のようなフレーズがあったのを覚えています。「『オリエント急行』に似ているが『オリエント急行』より面白い」。たしかに「オリエント急行」に似た設定のうえに、ウィリアム・アイリッシュの名作『幻の女』の面白さがプラスされ、さらには映画『駅馬車』(ジョン・フォード監督)を彷彿とさせる要素が加わっているわけですから、『バルカン超特急』の方が優れた作品だと感じる観客がいたとしても不思議ではありません。
  内田樹先生は『うほほいシネクラブ』(文春新書)の中で、この『バルカン超特急』に登場するクリケットの試合にしか興味がない二人組の男について卓見を述べておられます。
  映画『オリエント急行』ではアンソニー・パーキンス演じる秘書がマザコンであるという設定になっており、何となくヒッチコック監督の『サイコ』(1960年)を意識しているようにも感じられました。日本公開順が逆になった(映画『オリエント急行』公開は1974年)ので気づきにくかったのですが、映画『バルカン超特急』の方が古いのです。『オリエント急行』は『バルカン超特急』も意識して、あるいは、それにヒッチコックに対抗すべく撮られた作品なのかもしれません。シドニー・ルメット監督作品としても、TVドラマ版と比較しても、異様に明るい終わり方をしているのが気になりますが(最後に乗客たちが乾杯までしています)、そこには家族愛そして同じ悲しみを共有した者たちの連帯感が前面に押し出されて描かれているようにも思いました。
  先ほど『バルカン超特急』には、『幻の女』と『駅馬者』の要素が加味されているとうっかり書いてしまいましたが、『幻の女』は1942年の作、『駅馬者』は1939年の作なので、これまた『バルカン超特急』(1938年)の方が古いのです。それだけヒッチコックのサスペンス映画には先駆性があったということなのでしょうが、ジョン・フォードがヒッチコックの影響を受けていたかもしれないなんて想像しただけでも嬉しくなってきます。ちなみにアガサ・クリスティーが原作『オリエント急行の殺人』を発表したのは1934年。かなり近い時点で『バルカン超特急』は映画化されているわけです。それにつけても『バルカン超特急』の原作者エセル・リナ・ホワイト(ロバート・シオドマーク監督の『らせん階段』の原作者でもある)って何者なのでしょうか。


映画『シャーロック・ホームズ/シャドウゲーム』について

  前作『シャーロック・ホームズ』を観たときは、しきりにダン・ブラウンの『天使と悪魔』が思い出されてしまいましたが、今回は何だか007が思い起こされてしまいました。ただ、このシャーロック・ホームズはジェームズ・ボンドよりも、とぎすまされた身体をもち、鋭敏な観察力と予知能力を発揮できる人物として造型されています。この名探偵の高速度で回転する知能は、彼の身体能力と不可分であるかのように描かれているのです。何よりも、このホームズの事態を「先読み」する力は突出しており、その能力たるや『三国志(演義)』に登場する諸葛公明を思わせるほどでした。
  前作の舞台ではホームズの住むロンドンに文明の力が押し寄せようとしていました。その文明をオカルティズムに転用する悪役が登場してくるわけですが、今回は前作からそれほど時間が経過していないにもかかわらず、さらに文明は進化し「大戦」という名の戦争の影が叙叙に忍びよってきています。実際に大量破壊兵器が登場するにあたっては、ホームズもワトソンもタジタジになってしまっています。しかし、それら人間性を飲み込んでいく文明や戦争の力に対抗できるのが、ホームズのもつような心身能力だと、映画作家は訴えたかったのだと思います。
  今回登場する悪役モリアーティも世界的な格闘家としてホームズに匹敵する身体能力をもった人物として描かれています。原作ではホームズが「バリツ」という日本の武道をマスターしていたから、モリアーティもろとも死なずにすんだという設定になっていますので、この悪役の描かれ方も少し違っています。映画を観ている限り、モリアーティの身体能力は劣化しているような印象を受けました。彼とてモーツアルトやシューベルトの音楽を聴いたりして、自分の感性の維持には努めているようですが、身体能力というものは、それをエゴイスティックに悪用しようとしたとたんに劣化し始めるものなのかもしれません。
  

老境のイーストウッドは、またしても観られ続けるためだけに・・・。

 公開最終日。やっとクリント・イーストウッド監督作『J・エドガー』を観賞できました。
 前作『ヒア・アフター』を観賞したのが、ちょうど一年前です。ひょっとしたら前作が遺作になると思っていただけに、再びイーストウッドの新作にお目にかかれたのは喜ばしいかぎりです。その前の『インビクタス』のときも、その前の前の『グラン・トリノ』のときも、ひょっとしたらこれが遺作という思いで観続けていたイーストウッドは1930年生まれ、くしくもジャン・リュック・ゴダールと同じ年で、当年83歳。
 イーストウッド作品は、ずっとそう感じて観てきたのですが、この『J・エドガー』もただただ観られるためだけに創られた映画だと感じ入りました。若い頃のフーパーの陰影といい、リンドバーク事件のテンポといい、ホモ・セクシャルを描いたシーンの色合いといい、時間軸を無視するかのように描かれていく場面場面は、異質なものから異質なものへと無限に変容していくかのようです。それでいて映画全体に漂う統一感は損なわれていません。鑑賞者は、この映画のから「屈折した正義と使命感」や「歪んだ性愛の孤独」や「権力にとりつかれた男の幻想」など、それこそ無限にテーマをひきだすことは可能ですが、ただただ観ているだけで面白い映画とは、こんな映画だと思います。来年もイーストウッドの新作に出会えるのでしょうか。100歳を超えている世界最長老ポルトガルのマヌエル・ド・オリヴェイラ監督の境地を目指して新作を撮り続けていっていただきたいです。

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