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April 2013

『劇場版名探偵コナン 絶海の探偵(プライベート・アイ)』について

   『名探偵コナン』が劇場版として制作される場合は、スペクタクル作品(例えば大爆発が起こるといったような)になっている必要があるでしょう。スペクタクルの場合は、それに見合った舞台と人物が設定されていなければ、作品の中に不自然さ(例えば闇雲に爆破事件が起こるといったような)が残ってしまいます。その点でこの度の第17作「絶海の探偵」は無理なく作られているといえるでしょう(前作、前々作は多少無理があったような・・・)。
   科学と近接しているという意味でなら、「名探偵コナン」も「探偵ガリレオ」と通底しています。さらにいうならコナン君の場合は科学力によって開発された薬物(アポトキシン何とかでしたっけ?)によって青春時代を奪われています。いわば彼は科学文明の犠牲者なのです。と同時に彼は多大な科学文明の恩恵を受けています。アガサ博士の発明品が身体的欠損を補強しているからこそ彼は事件を解決できているのです。
   科学もミステリーも人類の「知性中心主義」の産物だと考えることができます。機械文明が人間の知性を凌駕するかもしれないという(先日の将棋の電王戦のような)不安が生じてくるとともに、ミステリーは名探偵に象徴されるような人間の知力の復権を目指して創作されてきました。しかし、必ずしもミステリーは安易な科学批判には向かいませんでした。すでに人類が科学の恩恵を受けてしまった以上、そしてミステリーもまた知性主義の産物である以上、科学を否定することは自己否定につながりかねないからです。ホームズ以降の名探偵達が、浄化運動を促進しようとする新興宗教やオカルティズムと対決してきたことは、このことと無縁ではありません。
   さて劇場版『名探偵コナン 絶海の探偵』は、最新鋭の科学技術が搭載されたイージス艦が舞台になっています。また日本国中に張り巡らされた監視カメラによって犯人の居場所を特定する(あたかも先日のボストンでのテロ事件のような)場面もありました。圧倒的な科学力の前で、一個人としての探偵がもっている調査力や推理力が、どんどん縮減されていくかのような印象さえ受けます。しかし、そのような状況下にあっても直感や想像などの人間的諸能力が最大限に発揮されないと、物事を正しい方向に導くことはできない。また、さらに高度で豊かな知力を持つことこそが、科学の力を最大限有益に発揮させることにつながると、この映画は訴えかけているのかもしれません。
   最新鋭の科学力にも限界というものはあります。その壁にぶつかったときに少年コナン君は、どのようなリアクションを示したでしょうか。あとは映画館でご覧になってください。(残念ながらTVドラマ「探偵ガリレオ」からは柴崎コウ=ウツミ刑事でしたっけ? は姿を消してしまいましたが、この劇場版コナン最新作では別の形で復活しています。シバザキ・ファンの方はお楽しみに・・・)。
   

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