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トランプの家

拙著『名探偵を推理する3 フィリップ・マーロウ 傷だらけの騎士道的精神』が出ました。

 『名探偵を推理する3 フィリップ・マーロウ 傷だらけの騎士道的精神』(書肆侃侃房)が発売されました。
 今回はハードボイルドの探偵について考えてみました。ミステリー・ファンの中には推理小説は好きだけれど、ハードボイルドは面白さがわからないという読者も多いのではないでしょうか。私も、そんな読者でした。
 ミステリー愛好家としての立場から、ハードボイルドのミステリーとしての面白さを掴み取ることができないかという思いをもって書かせていただきました。レイモンド・チャンドラーの7つの長編作品について考察しています。
 よろしければ手にとってお読みください。

久坂部羊さん『破裂』(幻冬舎文庫)という名の破裂

 たしかに小説なのですが、これは本当に小説なのでしょうか。前作『廃用身』もそうでしたが、久坂部羊さんの作品を読むとき、多くの読者は小説という概念から疑ってかからねばならないという思いに駆られるはずです。作中に登場する症例や療法がフィクションにしてはあまりにも生々しく、私たちは実際の世界と仮構された世界との中間地帯のようなところにおかれてしまいます。いったい、この奇妙な感じはどこから来るものなのでしょうか。
 小説『破裂』は、「医療ミス」と「医師の野望」そして両者をめぐる裁判劇という点では、山崎豊子の名作『白い巨塔』と似た構造をもっている作品だといえます。しかし『白い巨塔』と明確に一線を画するのは、この作品にとりあげられている問題が勧善懲悪型の善悪二元論では割り切れないという点です。作者の問題意識は、そもそも「医療とは何なのか」という根源的な問いを出発点にしていると考えられます。ある意味人類は「医療」という奇妙なものを背負ってしまっているのです。人間が人間を治すことには神の領域に属する反自然的な側面があり、そこから様々な矛盾や限界が生じてくるのですが、一方で「死」や「痛み」や「苦しみ」から逃れたいという願望があるかぎり人類は医療を捨て去ることができません。「怪我や病気を治したい」という日常的なベールに包まれているかぎりは露呈しないような問題が、ある極限の出来事や発想と結びつくとき、「医療」はその奇異な本体を容赦なくあらわしてきます。いや単に「医師不足」や「介護問題」といった日常的な事柄にも、この容赦ない本体は潜んでいると考えた方がいいのかもしれません。小説『破裂』の登場人物たちは、医師も、作家も、官僚も、どこか正しくてどこか変です。しかし、それは人類が背負ってしまった「医療」というものが、どこか正しくてどこか変だということの如実な反映だとも考えられるのです。
 しかし、この作品の本当の凄さはクライマックスの法廷劇に物語の白眉がおかれている点にあります。気鋭の科学技術が登場し、それをめぐる討議が頂点に達していくあたりは、普通の小説として読んでも充分に面白いのです。『破裂』は二重の意味で特異な医療小説だといえましょう。実は「医療」そのものが人類の生み出した壮大なフィクションなのかもしれません。冷徹な肉眼には、いつでも誰でも完璧な医療を受けられるということ自体が絵空事めいたことに見えてくるでしょう。一方で、医療という創作は現実的な効力、しかもかなり強い効力をもってしまっているがゆえに厄介なのです。その厄介さを単純な理屈で割り切ろうとする者は、必ず医療の重要なエッセンスを見落としてしまうはずです。                        
 これからも人類のとるべき道は、敏感で繊細な感性をもって「医療」という奇妙な事象と付き合っていくことなのかもしれません。作者の次の作品に期待をかけたいと思います。

 

間もなく間違いなく「昆布」ブームが起こります。

 「商い」という言葉が「飽きない」に由来していることは多くの人が知るところです。ポスト・グローバル社会の到来とともに、商品としてこれから最も重宝されるようになる食品は何か?毎日毎日食べても飽きず、健康によく、手頃に入手でき、調理に様々なバリエーションをもたらす食べ物であるはずです。間違いなくその一つが「昆布」です(決して「食べるラー油」や「ガリガリくんポタージュ味」ではないはず)。
 私が懇意にしていただいている「大阪昆布」の喜多條清光社長が、時代を先取りブームを生み出すような著書を発刊されました(しかも2冊同時!)『奇跡の昆布革命』(大和書房)と『昆布水レシピ』(メディアファクトリ-)の2冊です。清光社長は「かぐや姫」の名曲「神田川」を作詞された喜多條忠さんの弟さんでいらっしゃいます。三枝師匠(現・文枝師匠)によって天満天神繁昌亭が開設される直前まで、天満宮の会館で「天満梅光亭」なる寄席の席亭をされていたことが思い出されます。きわだつ「先見の明」をおもちになっている喜多條社長の新著。今からオススメです。

『年収150万円で僕らは自由に生きていく』

 最近、内田樹先生が講演で話題にされるイケダハヤトさんの『年収150万円で僕らは自由に生きていく』(星海社)が発刊されました。
  面白いのは、ここにあらわれている精神が「節約」とも「清貧」とも「我慢」とも、まったく違うところです。本の中に描かれている「お金では買えない喜び」や「お金に換えられない幸せ」は、決して無理な犠牲を強いるものではありません。成長経済が終焉したあとのポスト・グローバル社会を生きる人間像が先取りされています。
 

内田樹先生と春日武彦先生の対談

  笑福亭福笑師匠に作家の久坂部羊さんをご紹介いただきました。久坂部さんのデビュー作『廃用身』(幻冬舎文庫)は実に衝撃的な作品です。この物語の中に描かれている妄想のような実話のような世界からは妖しく生々しいリアリティがにじみ出してきます。『廃用身』の解説は春日武彦先生でした。そういえば春日先生と内田樹先生との対談本『健全な肉体に狂気は宿る』(角川oneテーマ21)があったことを思い出し、早速拝読いたしました。
  思わず笑ってしまったのは統合失調症の女性の妄想の中に何故か岸恵子さんがよく出てくるという春日先生のお話でした。吉永小百合ではダメなんですかと突っ込む内田先生。ところで後藤正治先生『表現者の航跡』(岩波現代文庫)の中に内田先生のお好きな映画ベスト3が紹介されています。『秋刀魚の味』と『大脱走』と『燃えよドラゴン』です。前の二つの映画に関しては内田先生自身が言及されているものを読んだことはあるのですが、どうして『燃えよドラゴン』がお好きなのかは、ずっとわからずじまいでした。(合気道と少林寺では随分思想が違うでしょうし・・・)。ご本人に直接お尋ねしたいと思っていたのですが、この本に書かれていました。一読して・・・なるほどです。
  心の病には深刻なものが多いのでしょうが、それに接するときにはユーモアが不可欠であると、あらためて認識した次第です。

桂三枝の笑宇宙・ファイナル

  4月27日。「笑宇宙」の世界も三枝師匠のお名前で開催されるのは、これが最後です。
 文枝襲名の日(7月16日)が近づくにつれて、三枝師匠の中から余裕や貫禄がにじみ出ているように感じました。前回の最後の三枝まつり(3月4日)のときには、三枝師匠の中に故・枝雀師匠の激しさが感じられもしました。今回は春団治師匠のやわらかさ(はんなりさ)を感じました。上方落語の名人たちの霊気が今三枝師匠に乗り移ろうとしているのかもしれません。
 今日の演目は、聴衆に希望を与えてくれるようなお話でした。「商活・栄町商店街野球部」は商店街を立て直そうとする物語。「誕生日」は米寿の誕生日を祝う話です。特に「誕生日」は、なぜお祖父さんが末っ子の名前だけ言い間違えないのかというサスペンス的なところもあり、またクライマックスのどんでん返しには文学的な一面もあり、実に魅力的なお話でした。まさに文枝の名跡を襲名されようとしている三枝師匠は、落語によって「夢」を語ろうとされているのではないか。そんな気がいたしました。
 三枝師匠は、いったい幾つ創作落語を作られたのでしょうか。125作で一つの区切りをつけられてから、さらに100近い作品は作られているはずです。何とか頑張っていただいて365作作っていただけないものでしょうか。いつの日か「一日一席・六代目め文枝落語」が聴けるときが来るのかもしれません。

内田樹先生の新著『街場の読書論』はホームズのお話から始まりにけり

  4月12日。内田樹先生の『街場の読書論』が発刊されました。
 嬉しいことに今回の先生の御著作はシャーロック・ホームズ(コナン・ドイル)の『緋色の研究』研究から始まっています。ホームズの推理にとって重要なのは「うまく説明のつかないもの」である。ところが、合理的な説明を成りたたせようとするあまり、しばしば人は「うまく説明のつかないもの」を軽視してしまいがちになる。「うまく説明のつかないもの」に反応する知性は、「ないはずのものがある」ことや「あるはずのものがない」ことを敏感に識別する察知能力にもつながっていく、と内田先生はおっしゃっています。その後、ルース・レンデルやフレデリック・ブラウン(しかも『電獣ヴァヴェリ』について)にも言及されており、ミステリー・ファンにとっても美味しい一冊になっていました。
  ほとんど同語反復的なことばかりを書かれていながら、またしても内田先生の御著書は面白いです。特に今回は福沢諭吉への言及が面白かったです。言論界は必ずしも先生が指摘されているような作家=「イデオロギー」や「正論」を拠りどころにして発言している人たちばかりではないと思います(そんな人たちの実数は多いでしょうが・・・)。一方で多くの文筆家はリーダビリティ(読みやすさ)をもった「私の言葉」の表現をめざしているものです。それでも幾多の著書は凡庸な内容におさまってしまいます。では、なぜ内田先生の著作は面白いのか。それは先生が、読者に届く言葉(表現)を鋭敏に察知する能力に優れているからだと説明してしまえば、この御著書の内容の同語反復になってしまいます。あえて別の説明を試みるとすれば、それは先生がユニークな人物だからだといえるかもしれません。ユニークさというものは、単なる技法ではなくて、その人物の人間性に深く関わる能力だといえます。名探偵の推理力に対するのと同じく、先生の能力にエビデンス(証拠)を示すことは不可能ですが・・・。

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