アフリカをさるく
不均衡な暮らし
- 2010-11-27 (Sat)
- 総合
ケープタウンにももちろん今もタウンシップと呼ばれる黒人やカラード(混血)の居住区がある。アパルトヘイト(人種隔離政策)時代の呼び名だから、本来なら別の名称にすべきだろうとは思うが、こちらの新聞では今もタウンシップと読んでいるので、私もそれにならっている。
名称をどう変えても、現実が変わらなければ同じだ。ケープタウンのタウンシップを20年ぶりに訪れてまさにそう思った。ヨハネスブルクのソウェトでは「変化」を感じることができたが、ここでは昔と大差ないタウンシップの光景があった。改善されている点もあるのだろう。ただ、トタンや板切れで作ったあばら家が立ち並ぶいわゆるシャンティタウン(貧民街)に「変化」を見ることは難しい。
道路のそばで座っている若者が3人いたので声をかけた。年齢を尋ねると、それぞれ22、25、28歳だと答えた。こちらの質問に元気のない答えが返ってきた。「仕事、全然ない。ここに座っているだけだ。仕事があれば昼間ここにいないよ」
南ア国内の統計などで引き合いに出される失業率は約25%。前回紹介したハウス教授は仕事を探す意欲のない人々を含めると失業率は40%、成人の半分は仕事がないのが現実ではと語っていた。
この日、タウンシップには黒人の運転手のタクシーを探して出かけた。市内を出るとき、彼は車体の上にあるタクシーの表示板を外した。「いや、住民の注意を特に引きたくないので」と運転手のジェイコブさん(26)。ジンバブエからの出稼ぎだった。南アで働くようになって3年になる。「祖国では食っていけない。南アで働けてラッキーだと思う。祖母や母親、弟たちに仕送りしている」と大学中退のジェイコブさんは語った。
彼が住んでいる家にも案内してもらった。コンクリート造りの平屋の家で、この間まで白人家庭のメイドだった妻と10歳になる娘の3人暮らし。玄関のドアを開けると結構広くて、そう言おうとすると、玄関のそばの小部屋に案内された。6畳ぐらいの広さの一間の部屋。この家は地元コザ族の黒人が所有しており、彼は毎月500ランド(約5500円)の部屋代をその大家に納めて隅の小部屋に住んでいるのだという。間借り暮らしだ。
「ここの黒人の人たちはジンバブエと比べると大きな違いがあります。まず働きません。英語もろくにしゃべれない人が多い。僕らからお金をせびることはしょっちゅう。置いてもらっているのであまり文句は言えませんが」とジェイコブさんは言った。
ケープタウン市内に戻ると、快適な別の世界がある。ヨハネスでは感じなかった思いが頭をよぎる。このような不均衡な世界をタウンシップに住む彼らはいつまで我慢し続けることができるのだろうか。
(写真は上から、ケープタウンのタウンシップ。20年前とほとんど変わらない印象だ。仕事もなく、座り続ける若者3人。タウンシップの共同の水道。好奇心一杯の子供たちの姿はどこも同じだ。場所によっては新しい住宅の建設も進められてはいる)
大学教授の見立て
- 2010-11-26 (Fri)
- 総合
ケープ州にステレンボッシュ大学という名門大学がある。アパルトヘイト(人種隔離政策)を推進するアフリカーナーの指導者を輩出するなど保守本流で知られた大学だ。政治学部のアマンダ・ハウス教授に話をうかがった。ハウス教授は2001年、政治学部では女性で初の教授となった人だ。1693年に入植したフランスのユグノー(カルバン派新教徒)を先祖に抱く人で、12歳と16歳の二人の娘が12世代目に当たるという。
2010年の南アをどう見ているか?
「(黒人解放組織の)ANC(アフリカ民族会議)はアパルトヘイトを打倒し、皆が等しく豊かに生きる理念を訴えたが、その理念は挫折したと思います。特にこの5年ほどは大衆迎合の政治がまかり通り、ズマ大統領はまさにこの大衆迎合で政権トップの座を射止めました。貧富の差は今やブラジルを抜いて世界で一番深刻な国になっています。これを憂えない人はいないでしょう」
多数派の黒人社会を含め、ANCに対する不満、失望感が充満しているのに、なぜ、ANCは選挙で勝利するのだろうか?
「結局のところ、野党に政権をまかすような存在が見当たらない、他に選択肢がないからです。前回2009年の総選挙でANCは65%の票を獲得しました。次いで野党の、DA(民主同盟)が17%です。これでは勝負になりません。ANCを支持している労組の大本がANCから離れて労働党のような党でもつくれば話は別ですが、そういう展開は今のところ考えられません」
ハウス教授は特に教育面での質の低下を深刻にとらえていた。「残念ながら、民主化の1994年以来、教育が好転したことを示す材料は見当たりません。この国は今ストライキ天国ですが、教育もそうです。教師が最近では6週間ストライキをしました。その間、子供たちはお構いなしです。教育が荒廃し、子供たちの学力が低下するのは避けられません。政府の真剣な姿勢は見えません」と手厳しくズマANC政権を批判した。
希望があるとしたら、黒人社会を含め、中産階級が育っていることと、成熟したCivil Society(市民団体)がある点をハウス教授は指摘した。振り返ってみれば、アパルトヘイト時代にアフリカーナーの国民党の強権政治に抵抗、最終的に民主化実現に貢献した柱の一つに市民団体の存在があった。当時はUDF(統一民主戦線)と呼ばれていた。
ANC政権が現在成立を図ろうとしている法案の一つに、「情報保護法案」がある。「政権にとって不都合な真実を報道機関が報じるのを封じる狙いがあるのは明らか。市民団体や有識者が強く反対しているので政権の思惑通りには運ばないでしょう」とハウス教授は語った。私も心からそう願う。南アが民主国家として繁栄することはアフリカ全体の浮沈にかかわることだからだ。
(写真は上が、南アの現状について語るハウス教授。12歳の次女は日本の漫画の大ファンだという。下が、爽やかなケープタウンの歩行者通り。本当にこのままここにいたいと思わないでもない)
ナイトツアー
- 2010-11-25 (Thu)
- 総合
ケープタウン市内は快適な空間だ。期待していた識者とのインタビューのアポがなかなか取り付けられないので、気分転換に市内観光を楽しんだ。夕方6時から2時間半ほど、ケープタウンをナイトツアーのバスが走っている。料金は80ランド(約900円)。
リーフレットに記された港、ウォーターフロントにある水族館が集合場所だ。夕方6時といっても、南半球の南アは今が夏だから、まだ明るい。30人ぐらいの観光客が集まっていた。ほとんどが白人。欧米からの観光客だろうか。
ほどなく、ロンドンで見かけるような赤い2階建てのバスがやってきた。2階の後部座席は天井もなく吹きさらしだから、写真撮影にはうってつけだ。乗り込む前にイヤホンを渡された。イヤホンホールに突っ込んでボリュームを調整していると、言語のチャンネルがいろいろあるみたいだ。「伊」という文字が見えたので、なんでイタリア語をわざわざ「伊」という漢字で示しているのだろうと思いながら、適当に押していると、電光表示部分に「JPN」という表現が出てきたのではないか。おお、日本語の案内もあるということか。
さて、出発。イヤホンで男女の日本人の「案内」に耳を傾けながら、まずはビーチに沿った道路を通った。クリフトンビーチでは南アで一番の高級住宅地だという紹介を受けた。なるほど、見るからに高そうな邸宅が道路上の崖際や浜辺に広がっている。「南半球では日当たりのいい家というのは北向きです」という「案内」に「なるほど」。ライオンズヘッドと呼ばれる岩山のふもとの駐車場でトイレ休憩。ここからはアパルトヘイト(人種隔離政策)時代にネルソン・マンデラ氏らが収容された悪名高きロベン島が見渡せる。
この駐車場には観光バスのほかにもレンタカーやマイカーで乗りつけた人々がひっきりなしに訪れる。感心したのは自動販売機や売店の類が一切ないことだ。ケープタウンのこの一帯は豊富な生態系で知られており、環境に配慮した措置だろうか。バンを改造した車が一台、コーヒーを販売していて、こちらは客が群がっていた。というのも、ここは風が半端ではないのだ。写真を撮るため、先述の2階の吹きさらしに座っていたが、いや、強風で「案内」のテープが良く聞き取れないほどだった。これだけの風に吹かれたら、コーヒーで暖を取りたくなるというものだ。「案内」では南東の方角から吹き付ける強風は「ケープドクター」と呼ばれ、地上の汚れを吹き清めるからこの名前がついたという。そういえば、タクシーの運転手さんもそう言っていた。なかなかしゃれた表現だ。
それにしてもと思った。昔はこんな観光バスが走っていたのだろうか。いや、走っていたわけがない。アパルトヘイト時代は日本を含めた国際社会は南アに対してサンクション(経済制裁)を課していたのだ。そういう意味でも時代の変遷を再認識したナイトツアーだった。
(写真は上から、クリフトンビーチに向けて走るバス。向こうに見えるのがライオンズヘッド。続いてクリフトンビーチ(だと思う)。ダイヤモンドヘッドのふもとの駐車場からロベン島を望む。大西洋に夕陽が沈もうとしていた。午後7時半過ぎごろ)
ケープタウン
- 2010-11-23 (Tue)
- 総合
南アフリカというかアフリカの最南端の都市ケープタウンに入った。かつてアフリカ特派員だったころ、何回か訪れた地だ。当時から南アの中でも比較的治安の良い都市として知られていた。今回の旅でもヨハネスの住民からは「そうか、ケープタウンにも行くのか。あそこはいいところだ。南アでも別格の都市だ」と言われていた。
ダーバンからは飛行機で約2時間。テーブルマウンテンのふもとに近い古い民家に手を入れたゲストハウスに投宿。フロントの女性が「ようこそ。ケープタウンは夜でも安心して歩けますよ。楽しんでください」と微笑んで迎えてくれた。
とりあえず、トランクを部屋に入れ、荷物を整理した後、夕暮れが近かったが、市の中心部を散策する。20分ぐらい歩くとシティーホール(市役所)のある広場にたどり着いた。懐かしい。ここで20年前の1990年2月11日、27年に及ぶ獄中生活から解放された直後のネルソン・マンデラ氏が広場を埋め尽くした人々に国民融和を切々と訴えたのだ。私もこの広場にたたずみ、ホールのバルコニーから語りかけるマンデラ氏の姿を見つめていた。あれから20年の月日が流れて現在に至るとは・・・。広場を通りかかった中年の男性は「そうだね。私もこの広場に立ってマンデラ氏を見ていた。みんな興奮していた。私は片方の靴がなくなっていることに後から気づいたほどだった」と語った。
さすがに20年も経過すると、街の様子は大方忘れている。すっかりお上りさんになった気分で街を歩いていると、「ちょっと、ちょっと。ズボンの後ろポケットに入れているものが見えていますよ。危ないから。完全にしまった方がいい」と若い女性が声をかけてきた。小柄な女性でケープタウンに多いカラード(混血)の人だ。「いや、これはメモ帳だから大丈夫」と答える。女性は「それでも貴重品と思って後ろからすられたり、トラブルに巻き込まれる危険性はある。この町でそういうポケットへのしまい方をして歩いていると、すぐに外国からの旅行者だと分かる」と語り、自分自身の窃盗被害話を披露しながら、町を歩く時は細心の注意をするよう色々説いてくれる。やけに親切な女性だなと思っていたら、やがて「ところで私はあの角でお別れするが、のどが渇いた。7ランド(約80円)くれない?」と言う。「なんだよ。狙いはこれかよ」と思ったものの、「前置き」の長さに感心しつつ、丁重に断ると、何事もなかったかのように立ち去って行った。
それはそれとして、ケープタウンは確かにヨハネスにもダーバンにもない「和らぎ」がある。「夜でも歩ける」という安心感と無縁ではないだろう。ホテル周辺にはしゃれたカフェやレストランが何軒もあって、白人客を中心に賑わっていた。ここだけを見れば、ロンドンで見かけるような瀟洒(しょうしゃ)な街に来た印象だ。
(写真は上から、ケープタウンを象徴するテーブルマウンテン(高さ1086メートル)。写真ほぼ中央の頂上までケーブルカーで行ける。シティーホール。マンデラ氏は時計塔の下のバルコニーから広場を埋め尽くした聴衆にスピーチした。中心部にあるカフェで夕暮れのひと時を過ごす客)
元気一杯の男㊦
- 2010-11-22 (Mon)
- 総合
スブリーの先祖の故郷はインド南部のタミル・ナードゥ州。英国の植民地政策でサトウキビ農園で働く労働者として、インド亜大陸の人々が初めて南アに連れて来られた20年後の1880年、彼の曽祖父一家がダーバンにやってきた。英語では “indentured laborer” (年季奉公の労働者)と表現されている。年季が明けても多くは南アにとどまることを希望し、今の130万人とも言われるインド系コミュニティーの始まりとなった。ダーバンの高級ショッピングモールやカジノに行けば、インド系の人々で埋め尽くされている。
スブリーは妻のタイナさんと一緒に1990年、インドをお互い初めて訪問、6週間ほど旅した。「最初に訪れたムンバイの空港では地元の旅行者と間違われた。だけど、南アとは全く異なる世界で、カルチャーショックに陥って、俺たちは二人とも3日で南アに戻りたくなった。旅行の最後にタミル語が通じる先祖の地の南部に足を運んだ。妻はすっかり気に入って、老後はここで暮らしてもいいわねと言ったが、俺はやはり南アがいい。俺たちは南ア人だから」とスブリーは語った。そばで聞いていたタイナさんが「私だってそうよ。やはりこの国よ」と応じた。
二人とも母国語はタミル語だが、家庭では英語を使って生活する。子供は3人、孫は6人いるが、彼らにとってはタミル語はもはや外国語だ。とはいえ、スブリーとタイナさんは自分たちの先祖の伝統を大切に思っているから、伝統的儀式はできるだけ維持している。子供たちも同様だという。
スブリーがこれからの仕事に情熱を燃やす一方、過去30年近く取り組んでいるのは、彼の祖母を頂点とした「一族」の親睦の灯火を維持していくことだ。祖母のマニアマさんは1977年に105歳で死去。「祖母は15人を出産、11人が成長した。もう28年ほど昔の話になるが、祖母は俺たちの家で暮らしていたので、俺は祖母の誕生日に祝いを催したんだ。彼女の子供たちが家族を連れて大勢集まった。その時、親睦の会をつくることを思いついたんだ。今の俺たちは先祖の苦労があってこそのものだからね。自分たちのルーツをきちんと認識することは大切なことだ。それは南ア人であることを阻害するものではない」
スブリー・ゴベンダーは実は記者としてのペンネーム。本名はマリムス・スブラマニー。祖母の名前を取った「マニアマ・ソーシャルクラブ」は今では500人を超える集まりに育ったという。「2年に一度皆が集まる大きな会を催している。そのほかにも小規模の集まりはある。来月はゴルフコンペを開いて、学資を必要としている若い人たちの支援に活用する計画だ」とスブリーは力強く語った。
(写真は上が、大勢の人出で賑わう週末のダーバンの浜辺。白人、黒人、インド系の人々が思い思いに楽しんでいる光景はダーバンならではか。下は、金曜日のひと時、市内の広場で催されるダンスの腕前と歌唱力を披露するイベント。この若者はユーモラスなダンスで見物客からやんやの喝采を浴びていた)
元気一杯の男㊤
- 2010-11-22 (Mon)
- 総合
スブリー・ゴベンダー。初めて会ったのはヨハネスブルクで、彼は当時、インドの通信社やドイツのラジオ局を中心に仕事をしていた。普段の言動から彼が南アのアパルトヘイト(人種隔離政策)に強い憤りを抱いていることは明らかだったが、話し好きの陽気な性格で、記者としての仕事を楽しんでいた。こちらが日本の新聞社の特派員と知ると、好奇心一杯の質問をしてきて、すぐに仲良くなった。
「スブリー、あのころとほとんど変わらないじゃないか。いや、うれしいよ。昔の仲間が今も元気に頑張っているのを見るのは」
「ショウ、久しぶりだな。お前さんこそ元気そうだな。若々しいではないかいな」。こんな感じの言葉を掛け合って再会を喜び合った。
私は彼が自分と同じぐらいの年齢かなと思っていたが、今回20年以上ぶりに再会して、改めて年齢を確認してみると、1946年12月生まれというから、63歳。日本なら第一線から勇退している団塊の世代だ。
「実は昨年の10月にSABCの仕事をやめ、引退したんだ。ただ、それ以外の仕事は引き続きやっているし、日曜紙へのコラムも書いている。今はインド系コミュニティーを対象にラジオ局を立ち上げることを模索している。逆に忙しくなっているぐらいだ」とスブリーは語った。彼の口からSABCというテレビ局が出てきたので意外だった。アパルトヘイト時代は白人政権と表裏一体の関係にあった南ア国営放送だからだ。「もちろん、民主化された94年から働き始めたんだよ。それまではあそこで仕事する意欲が起きるはずがない」と私の疑念を察して付け加えた。
スブリーも白人政権から80年代には自宅軟禁措置に遭ったり、パスポートを取り上げられたりといった弾圧を受けていた。「当時の白人政権は俺の報道が(アパルトヘイト打倒を目指していた)ANC(アフリカ民族会議)を利していると考えたようだ。実際、ANCに共鳴して記者の仕事をしていたけどね。ただ、他の人々が強いられた苦境から比べれば、俺のは比較にならない」
「南アの民主化から16年。ズマ大統領が率いるANC現政権をどう評価している? あまりほめる人には出会わないけど」
「確かに問題は山積している。コラプション(汚職)、犯罪、行政機能の低下・・・。ただ、この国は過去350年の人種差別、圧政からようやく解放されたばかりということを考えてくれ。すぐにはすべての問題は解決しないよ」と一定の理解を示した。しかし、ダーバン周辺ではインド系住民が犯罪の被害者になっていると語り、「インド系住民は自分たちがターゲットになった犯罪の多さにうんざりしている。俺たちは先祖の苦難の末に今の暮らしを作りあげた。南アの民主化にも経済発展にもちゃんと貢献してきた。それが、黒人社会の貧困層のねたみを買っているのは情けないとしか言えない」とも。
(写真は、南アの現状について語るスブリー。奥さんのタイナさんも同席)
ダーバン入り
- 2010-11-20 (Sat)
- 総合
ヨハネスブルクを立ち、ダーバンに入った。インド洋に面しており、南アではヨハネス、ケープタウンに次いで3番目に大きい都市だ。ズマ大統領の出身部族である南ア最大黒人勢力のズールー族が拠点とするクワズールー・ナタール州の中心都市でもある。
ダーバンは海に面しているのでそれだけで、晴れ晴れとした思いを抱かせる都市だ。ホテルが並ぶ海岸通りはきれいに整備されており、早朝から地元の人や観光客が散歩やジョギングを楽しんでいる。私も到着した翌朝、6時過ぎに浜辺を歩いたが、波の荒い海で早くも泳ぐ人を見かけた。到着した日は曇っていて風も強く、少し肌寒かったが、次の日は南半球の南アが夏に向かっていることを確認できるほど暑い日差しだった
ダーバンはインド系住民が多いことでも知られる。アパルトヘイト(人種隔離政策)時代には白人、黒人、カラード(混血)とは別に、エイジアン(アジア人)として区分けされた人々である。インド系の人々が南アにやって来て、今年が丁度150年の節目の年だという。「やって来た」というより、正確には「連れて来られた」というべきか。
1860年、当時南アを支配していた英国は主にサトウキビ農園で働く労働者をまかなうため同じく植民地支配していたインド亜大陸から多くの人々をここダーバンに送り込んだ。ケニアやウガンダなど東アフリカで鉄道を敷設するためにも多くの人々がインド亜大陸から送り込まれたのと同じ図式だ。東アフリカと異なるのはその後、インド系の人々はアパルトヘイト打倒に向け、アフリカ民族会議(ANC)の中で黒人やカラードの人々と共闘した歴史から、民主化後の現在の南アを支える一つの「柱」として遇され、ANC政権の中枢やビジネス、メディア、教育、医療などの分野で多くの人材を輩出していることだ。
ダーバンはあのマハトマ・ガンディーが一時、住んでいた地でもある。1893年、英国で教育を受けた青年弁護士ガンディーはインド系会社に請われて南アに入国。列車の一等席の切符を購入していたにも関わらず、肌の色を理由に白人乗客から同席を拒否され、列車から追い出される。ガンディーはその後、ダーバン郊外に誰もが住める居住区を創設、インド系住民の権利向上に奔走するなど、南アに貴重な足跡を残し1915年に帰国する。世界各地の独立活動に大きな影響を与えた不服従運動もここで萌芽させる。
ガンディーが当時住んでいた居住区の家が民主化後の2000年に復元され、今はガンディーゆかりの地として訪問者に無料公開されている。案内担当者のボンガニ・ムテンブさん(38)は「ワールドカップもあったので今年は年間1万人の来訪者を記録しそう。社会正義を真摯に求めた彼の精神を多くの人々に知ってもらいたい」と語っていた。
さて、そのダーバンでは再会を楽しみにしていた人物がいた。インド系のジャーナリスト、スブリー・ゴベンダー氏だ。1980年代末、この国で何度か取材をともにした。彼は南アを祖国と考え、誇りに思う南ア人だ。彼の目には南アの現状はどう映っているか。
(写真は上から、ダーバンの海岸通り。マハトマ・ガンディーのゆかりの地に立つ彼の胸像。ガンディーの妻の名を取った真下の学校で学ぶ子供たち)