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アフリカをさるく

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台風来ないで!

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 宮崎の田舎に戻っている。昨日、福岡から戻った。普通は最も安い手段である高速バスで福岡市中心部の天神バスセンターから宮崎までの長旅だ。時間にして約4時間と10分。料金にして6000円。往復で買うと1万円で済んでいた。飛行機代に比べると格安だから、よく利用していた。(今はこのバスは片道4500円に値下げしているようだ)
 九州新幹線の全線開業でJR九州が新八代駅から宮崎への高速バスの運行をスタートさせたことを知っていたので、今回はこれを利用してみた。片道だと9290円。往復で買うと13600円。午前11時4分、博多駅から新幹線の「さくら」号に乗車。始発駅だから自由席でもまずは座れる。博多駅を出たと思っていたら、わずか51分で新八代駅に到着した。新八代駅を駆け下りると、高速バスが待っていた。人吉インター、都城インターなどを経由して宮崎駅に午後2時12分、時刻表通りに到着した。天神スタートの高速バスより1時間は早い。悪くない。
 おまけに宮崎駅でレンタカーをした際、帰りの切符を見せると、レンタカー代まで割安にしてくれた。とここまで書いてきて、なんだか、JR九州の宣伝みたいになった感じだ。
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 普段は宮崎に戻っても、妹がどこそこに連れていってくれるから、車を運転することはほとんどない。だから、たまにハンドルを握ると最初は少し緊張する。まだ新聞社に勤務していた数年前、レンタカーで九州の過疎の集落を取材した時、10年かそこらぶりにハンドルを握った時、オートマに面食らったことを思い出す。熊本のとある役所まで行き、かぎ(キー)を抜こうとしたら抜けない。ナビの画面も消えない。いくらやってもかぎが抜けない。弱り果ててレンタカー会社に携帯から電話をかけた。先方は「パーキングに入ってますか」と聞いてきた。私は「はい、駐車場からかけてます」。「パーキングですね」「はい、大丈夫です。ちゃんとした駐車場です」「おかしいですね。それなら、簡単に抜けるはずですけどね。パーキングですよね」。ここまで会話が進んで、私は相手が意味するのはオートマのPだと理解した。私は理解が早い。それで私の車のオートマはPではなく、ニュートラのNになっていた。シフト時代の昔はニュートラでかぎを抜くことができた(と思っている)からだった。
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 さて、台風2号が宮崎に近づいている中、帰郷するのも、なんだかという感じだが、現時点(28日土曜朝11時)で小雨は降っているものの、大きな台風が近づいているような雰囲気ではない。私は子供のころから台風が大嫌いで、亡き母親によく、雲行きを見ては「台風がくっごたるや?」と聞いていた。肌身で知っている「嵐の前の静けさ」とはどうも異なるような感じだ。願わくば、このまま、すっと通り過ぎて欲しい!
 東日本大震災のことを考えると、複雑な心境にはなるが。
 (写真は上から、JR新八代駅の駅舎。駆け出しの新聞記者時代には人のいなこんな写真を撮っていたら、デスクに怒鳴られたものだ。水不足で干上がったダム上流の故郷の川。実家の窓から見える山をぱちり。天気さえ良ければ、晴れやかな気分になるのだが)

旅行けば魚の香り

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 富山湾に面した魚津での4日間は駆け足で過ぎ去った。いや、沢山食べた。ビールから焼酎、日本酒もいただいた。また太ってしまったが、致し方ない。高リスク、高カロリー、高揚感だ。町中にサウナ付きの温泉もあり、毎夕連れていってもらった。硫黄の匂いのする温泉らしい温泉だった。
 飲食で疲れた胃袋を癒すには水が一番だ。魚津の隣の黒部市の生地(いくじ)地区には至るところに黒部峡谷を源流として、流れ下ってきた伏流水が湧き出る清水を利用した「共同洗い場」があった。ここでは清水は「しみず」ではなく「しょうず」と呼ぶらしい。
 私が訪れたそのうちの一つ「清水庵」(しみずあん)の案内板には、「約三百年前、元禄2年の夏、俳聖松尾芭蕉が越中巡遊の途中、寺の庭にこんこんと湧き出る清らかな水を見て、清水庵と命名した」経緯が書かれていた。水は常時摂氏11度で夏は冷たく、冬は温かいという。背後に望める峡谷の山頂部付近はまだ雪をいただいており、「神秘とロマンの清水」(案内板より)を何度も口に運んだ。
 そういえば、だいぶ以前に富山市に遊んだ時も、川沿いで似たような水飲み場でこんこんと湧き出す清水を味わったことを思い出した。富山は県全体がこのような清水に恵まれているのかもしれない。
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 Mママが帰郷後、よく利用している生地地区にある鮮魚店も一緒にのぞいた。店の人が炭火でカレイとイカを焼いていた。「ガスで焼くとの違い、じっくり焼き上げるから時間は倍もかかる」という。見るからに旨そうだ。水にしろ、魚にしろ、こういうものを普段から口にする地元の人々の幸せを思った。
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  Mママの家は新築間もなく、快適な空間だった。読書好きだけあって、二階の客間にも読み応えのある本が書棚に並んでいた。東京から引っ越しするに際し、200冊ほどは処分せざるを得なかったという。深夜遅くまでのスナック経営から解放されて、少し太ったとか。手料理の腕は相変わらずだ。「那須さん、故郷が一つ増えたと思えばいい。定期的にいらっしゃい」とありがたい言葉をかけていただいた。深く感謝。
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 それはさておき、東京から合流した友人も加わり、土曜日夜はMママの家で楽しく飲食した。Mママの家の真ん前に住むいとこの家族も加わった。この家にRちゃんという小学校1年生のかわいい娘さんがいた。本来、子供好きな性格の私は小学5年生以下の女の子は「お得意様」だ。おそらく向こうも私が自分と同じレベルの頭脳の持ち主と即座に見抜くのだろう。「すずめ」「めだか」「からす」「すずめのこ」「こま」「まめ」「めだかのこ」などとしりとり遊びなどをしていて、すっかり小馬鹿にされ、仲良くなった。これであと、4、5年はお友達になってくれるだろう。これも感謝。
 (写真は上から、「清水の庵」の共同洗い場。こんこんと湧き水が流れていた。香ばしい焼き魚の匂いが漂う鮮魚店。食卓に並んだ刺身の数々。右端はホタルイカ。魚津を去る日、駅に見送りに来てくれたRちゃん。写真を撮られるのを嫌がり、やっとOKしてくれたと思ったら、おすまし顔に)

新幹線車中

 前回の項を書いてから一か月以上が経過した。ブログを更新する気がないわけではなかったが、本来がとても怠惰な性格、そのうちにと思っていたら、こんなに間があいてしまった。まあ、仕事ではないし、義理があるわけでもないので、致し方ない。
 ただ、曲がりなりにも文章を書いて食ってきた身。読む方は毎日「鍛錬」しているとしても、やはり、書く方も「鍛錬」していないと錆びつくのではという危惧を抱いているから、できれば、そう日を置かずして書いていきたいと思っている。
 書きたいことがなかったわけではない。日々生きていれば、それなりに心に浮かぶことはある。今はこのブログは「身辺雑記」を綴る欄としているから、日々の思いを書く格好のスペースだ(ったはずなのに)。
 私は今、新幹線の車中にある。博多駅を午前10時に出て、新大阪経由で富山・魚津に向かっている。魚津に住む長年の知人宅が目指すところだ。知人と言っても、私にとっては大恩ある人だ。長く東京・千駄木でスナックを営んでいたMママ。私が新聞社に就職して東京本社に勤務していた20年余、独り身の私には「母」や「姉」のような存在だった。本社勤務となるたびに、このスナックの周辺にあるアパート・マンションに住んでいた。
 毎年冬になると風邪をひいて寝込む私には本当にありがたい人だった。「ママ、また風邪ひいたみたいだ」と電話を一本入れるだけで、「あいよ。分かったわ。寝てなさい。今、持っていってあげるから」と応じてくれた。そして、ほどなく、市販の風邪薬にお握りとお惣菜、それとなぜか黒砂糖を袋に入れてアパートまで届けてくれた。悪寒と発熱で朦朧とした私がどれだけ感謝したか分かっていただけると思う。東京勤務時代には毎年繰り返された「年中行事」のようなものだった。
 大阪や福岡勤務になると、出張で上京するたびに、スナックの上にあるMママの住居の一室に泊まらせてもらった。Mママ同様、可愛がってもらった旦那さんの位牌に手を合わせ、いつも泥酔したまま就寝させてもらった。
 そのMママが何年になるのだろうか、40年近くなるのだろうか、長年営んできたスナックを友人にバトンタッチしてもらい、昨年、実家のある魚津に「引退」したのだ。私は来月、今度はアメリカを「さるく」ことにしているが、Mママからその前に一度魚津にいらっしゃいと誘われていた。大恩ある人からのお誘いだ。千駄木時代の親しい飲み仲間にも声をかけ、この週末お邪魔することにした次第だ。
 魚津を訪れるのは、Mママの旦那さんの葬儀以来。あれは何年前になるだろう。最近はこうしたことを思い出すのに難儀する。ついこの間のことでもだいぶ昔のことだったりして驚かされる。どちらにしろ、駆け足での葬儀参列だったから、何を食したのかなど記憶にない。
 魚津はきっと酒の肴が素晴らしいだろうな。Mママと会うのも久しぶりだ。今夜も明日の晩も私はまた泥酔するのかしら。ああ、怖い。ううん、全然!

これが完成した本!

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 前回に続き、拙著のことを。ようやく念願のアフリカ本「ブラックアフリカをさるく」が福岡市の出版社、書肆侃侃房から刊行された。副題に付けた「声をあげ始めた人々」が示唆するように、アフリカ取材で感じた「変化」を紹介したつもりだ。この欄で記したブログが基になっているが、ミニ解説的なコラムも設けており、ブログよりは読みやすくなったはず。と願っている。
 本日、このお知らせをアップしていて、少し晴れやかな気持ちになっている。それは東日本大震災発生以来、ずっと気になっていた一つの個人的なことが「解決」したからだ。
 私はアフリカ特派員の後、半年ほどして、岩手県の盛岡支局に1990年から2年間勤務した。仕事の大半は岩手県政のカバーだった。アフリカから岩手県への異動であり、土地勘もないから、原稿のねたを探すのに一苦労した。今回の大震災で甚大な被害が出た三陸海岸には支局の通信部もあり、あまり足を運ぶことはなかった。
 しかし、釜石市には個人的にお世話になり、忘れがたい人がいた。風流な名の旅館を営むSさん。当時、地元の人たちを対象にした教養を深める勉強会を定期的に旅館で催されていて、何かの縁で私にも「釜石の人たちにアフリカのことを話していただけませんか」と声がかかった。もちろん、喜んでその旅館を訪ね、その夜集まった20人ほどの方々に話をさせてもらった。集まりが終わった後は、確か、囲炉裏を囲んでSさん夫妻から三陸のうまい料理と酒をご馳走になった。Sさんは三陸の山の幸、海の幸に明るいお方だった。
 大震災の津波をテレビで見て以来、ああ、Sさんご夫妻は無事でおられるだろうかということが気になっていた。時々、パソコンでその旅館のことを調べてみるのだが、特段の情報は得られなかった。誰かの「投稿」か、旅館の建物は残っているが、津波の大きな被害を受けていることは分かったが、Sさん夫妻の消息をつかむことはできなかった。それが昨日、運よく、消息をご存知の方と連絡が取れ、Sさんと電話で語ることができた。
 電話の声はとても張りのある声で、その声を聞いただけでほっとした。Sさんは旅館の営業は6年ほど前からやめていたこと。今回の津波からは奇跡的に難を免れたこと。津波が2階の天井まで届いており、建物自体の修復は無理なことなどを淡々と語られた。今は盛岡市内の避難所暮らしのSさんからは、釜石の復興や三陸の植物の研究にこれからも頑張る気力があられると推察できた。
 Sさんは私からの電話をとても喜んでいただき、私がアフリカ本のことを話すと、「あなたが私の旅館で話していただいたマンデラさんの話はとても興味深いものでした。今でもよく覚えていますよ」と懐かしそうに語られ、今回の出版もねぎらっていただいた。アフリカから届いた友人、知人のメールにもまして、勇気づけられた思いだ。
 なお、「ブラックアフリカをさるく」は1575円。問い合わせは、書肆侃侃房(しょしかんかんぼう)のホームページを参照してください。電話092-735-2802。

ようやく脱稿!

 悪戦苦闘の末、本日、「ブラックアフリカをさるく」というタイトルの本を脱稿した。この欄で記してきたブログを基にまとめた紀行本だ。もう少し上手に表現できるのではとか、あれこれ工夫の余地があるとは思うのだが、今の自分にはこれが精一杯か。これからようやく次のプロジェクトに向けて動き始めることができる。
 刊行目前にして、東日本巨大地震が起き、実を言うと、がっくりきたことも事実だ。このような「遠い世界」の本など出していいのだろうかと思わないでもなかった。しかし、やはり、自分自身なりのアフリカ観をここらあたりできちんと一冊の本にしてまとめておきたかった。そのために旅をしたのだ。
 何にもまして、アフリカの旅で知り合った人々が「ぜひ、自分たちの本当の姿を日本の人たちに伝えて欲しい」と強く訴えたことに勇気づけられていた。例えば、ナイジェリア・ラゴスで出会った女子大生のベケレボさん。ナイジェリア独立50周年を祝う手作りの記念祝賀行事の裏方で忙しくしていたが、彼女からは記念祝賀で作ったこれも手作りのノートをもらっていた。罫線の入った紙をホッチキスでとめただけの簡素なノートだが、取材帳として重宝した。今もまだ使っている。本当なら、豊かな国からの訪問者である私が彼女に取材に応じてくれたお礼に何かあげてしかるべきだったのに。
 ブログでも紹介したが、彼女が語った言葉が忘れがたい。彼女の国では停電が茶飯事。夜は勉強をしたくても明かりがないからどうすることもできない。貧しい暮らしを余儀なくされていても、それでもくじけない。「私たちの国(ナイジェリア)で一週間暮らしてみれば、誰もが私たちの良さ、苦しくとも笑って未来に向かう強さを理解してもらえると思う」という言葉だ。
 誤解を恐れずに言えば、私は曲がりなりにも、アフリカの動向をこの20年以上、見てきた日本のアフリカ・ウォッチャーの数少ない一人。べケレボさんのような若者の姿をぜひ日本の人たちに伝えたい、伝える責務があると思っている。
 取材で知り合った人の中には、日本の読者のために日本語で書く本だと説明しても、本が完成したら自分のところにも送ってくれと言う人もいた。今回の東日本巨大地震が発生すると、そうした人たちの何人からは、私の身を案じるとともに、犠牲者の追悼、被災者・被災地域の一日も早い復興を祈るメールが届いた。こうしたメールにも後押しされた。
 ナイジェリアの弁護士、アヨ・オベさんは週刊新聞紙上でコラムを書いており、そのコラムで東日本巨大地震のことを書いたとメールしてきた。「ナス、残念なことに、字数制限で、東日本の被災者の方々があれだけの災害に見舞われても、自制心や礼節を忘れることなく黙々と復興に向けて歩き出している、と書いた最後のパラが削られて紙面には載らなかった。実に残念」と嘆いていた。(彼女のコラムに関心のある方は以下がアドレスです)
 (http://234next.com/csp/cms/sites/Next/Home/5684157-146/story.csp)

ものには限度が

 東日本巨大地震。このところ、部屋にいる時はテレビを見る時間が格段に増えた。外出時には携帯ラジオで地震と原発関連のニュースを聞いている。一日も早く収束して欲しいと願うばかりである。
 民放テレビはとっくに普段の番組に戻ったようだ。チャンネルをかちゃかちゃやっていてこのところ、思ったことがある。それは、「ACジャパン」(旧公共広告機構)だかの広告のことだ。こういう大災害時だから、通常の企業広告が流しにくい事情があるのだろうか。このあたりの事情は全然知らないので、あまり言及したくないのだが、それでも気になる。
 それは公衆マナーや健康の大切さを説くそうした広告の「氾濫」だ。いや、あれだけのものが画面からあれだけあふれてくるのには参った。正直、訴えかけてくるメッセージが右の耳から左の耳に出ていくだけで後には何も残らないのだ。あれだけ短時間の間に繰り返しあの種の放送を聞かされると、いかに、我々現代日本人のモラルが落ちているかを「お上に説教されている」印象さえ受けた。しかし、多くの日本人が今回の大地震に心を痛め、支援の手を差し伸べていることは数々の報道が伝えているではないか。ものには限度というものがあろう。
 日本の都市部は「騒音都市」だと私は思っている。聞きたくもない「アナウンス」が街中にあふれている。卑近な一例では、多くの人が利用する施設に行き、エスカレーターに乗れば、「てすりにおつかまりください」といった類の放送がのべつ流されている。のべつだ。近くに座って本でも読もうとしても、気持ちよくそうできる環境ではない。利用者の転倒事故でも起きた際に、我々は『注意喚起』」の放送を絶えず流していました」と責任を求められる事態に対処するための防御措置としか思えないこともある。そのほか、多くの場所で我々は不必要なアナウンスを聞かされている気がしてならない。
 上記のテレビに関して言えば、気になるなら、テレビを消して見なければいいではないかということになる。事実そうだ。ただ、地震発生直後は多くの情報が欲しくて、民放も見ざるを得なかった。そうした中、NHKの地震報道を一番良く見続けている理由は、一番信頼がおけるテレビ局だったからだけの理由ではない。
 日本中が一生懸命、未曽有の大災害の救援及び復興に躍起となっているさなかに、こういう一文を書くことは気がひけるのだが、民放テレビ広告に関する限り、私の偽らざる心境を書くとこうなる。かてて加えて、最近ではどうでもいいような馬鹿げたバラエティ番組が復活したのでなおさらの心境だ。漫才や落語など「お笑い系」が大好きで、「お笑い系」そのものの人生を歩んでいる私をしてもだ。
 気が滅入ってきたので、このあたりでやめておこう。

義援金だけでも

 とても憂鬱な日々が続いている。東日本巨大地震。犠牲になった人々、被災者の方々の苦悩は察するに余りある。事態はあまりはかばかしくない方向に動いているようだ。願わくば、報道されているような大きな余震、津波が絶対に起こらず、原発事故もあれ以上の体たらくを見せずに収束に向かって欲しい。
 先週末から本日まで外出することも気が進まず、ずっとテレビ、ラジオにかじりついていた。東北地方の人々があれだけの苦悶の日々を送っているのに、こちらでのんびりと好きなことに時間を費やしていいのかと思わざるを得ない。
 阪神大震災の時はどうだったのだろうか。私は16年前の阪神大震災の時は新聞社のロンドン支局に勤務していたので、その時の日本の様子を直接体験していない。今回は被害の規模、地域が格段に大きいこと、原発が絡んでいることなど、深刻さは当時とは比較にならないだろう。想像を絶する津波の襲来で先祖代々住んできた市や町、村が地図上から消えてしまうような被害をこうむった岩手、宮城、福島三県の太平洋岸の人々はこれからどうやって復興の道を歩むのだろうか。まだ、被害の全容が明らかになっていない現状では、復興という表現を使うことさえはばかられる。
 とはいえ、ずっとテレビ、ラジオに付き合い、ただ彼らの苦しみに思いを寄せ続けているわけにはいかない。とりあえず、今の自分に最低限やれることをやろう。天神に電車で出かけ、郵便局で今回の震災の被災者に義援金を送った。早期退社で無職の今の我が身には少し痛い額だが、少なくとも自分の心の「痛み」は和らいだような気がする。
 振り返ると、震災で義援金を送ったのは、まだ、東京にいた2004年のインドネシア・スマトラ沖地震以来だ。あの時に犠牲になったのは22万人以上という空前絶後の数だった。私は英字新聞のデスク作業をしていて、紙面で使う一枚のイラストを目にして心を打たれた。津波ですべてを失った兄妹が肩を落とした姿を描いたイラストで、連日生々しい現実の被災の写真を目にしていたはずなのに、私は何がしかの行動に出ざるを得なかった。
 今回の巨大地震については、中国や韓国を含め、国際社会から支援の手が差し伸べられ、日本国民に対する各国首脳の哀悼の言葉、激励が寄せられている。国際社会が感銘を受けているのは、これだけの災害にもかかわらず、被災者が見せている落ち着いた対応だ。被災者のマナーの良さについては、阪神大震災の時も「被災者が電池の自動販売機の前で辛抱強く並んで順番を待っていたのには感嘆した」と後年、関西在住の外国人から耳にしていた。
 英紙でも日本人のこうした特質について「評価」する記事が相次いでいるという。阪神大震災の時、BBCの花形のコメンテーターがニュース番組で「都市部でこのような被害が出たということは日本の防災対策のお粗末さを露呈しているのでは」と切って捨てたことを、私はテレビの前で唖然として見ていたことを思い出した。

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