アフリカをさるく
キベラの微笑み
- 2010-08-12 (Thu)
- 総合
前回、ナイロビ中心部のウフルパークで「平和な光景」を見たと紹介したが、もちろん、それはナイロビの一部分に過ぎない。地元紙、一杯のコーヒーなどを求めて毎朝通るショッピングモールへの道にはいつも一組の物乞いの母子がいる。町中でも食事を済ませ、レストランを出ると、物乞いの女性が複数寄ってくる。
アフリカでよく引き合いにだされる数字は1日1ドル以下で暮らす人々の数だ。総人口の4割とも言われる。ケニアでも多くの人々、特に若者の働き口がないのが現実だ。
ナイロビ郊外のスラム街として知られるキベラの住宅街を訪れた。トタン屋根の小屋がひしめく地だ。雨で土が流された穴を埋めるためか、瓦礫のようなとがった岩石がまかれた道があったり、両脇のみぞに汚水がたまったりと、厳しい暮らしぶりが分かる。ヤギや鶏が私の乗ったタクシーに追い立てられる。車で通るのははばかれる思いもするが、住民は助手席に座った私と目が合うと微笑む。子供たちは「ムズング」(白人)と声をかけてくる。
案内してくれた若者(24)が言う。彼の仕事は自分が住むキベラの外のガソリンスタンドのそばで車を洗うこと。「一台洗うと100シリング。波があるが、一日に5台ぐらいかな」と語る。月々の家賃は1,500シリングで、故郷の両親には毎月2,000シリング送金しているという。
遠くに目をやると、海のようなトタン屋根の向こうに、一群の真新しい建物が見える。「あれは何?」「政府が最近この一帯の住環境を改善するため、建てた住宅だよ。僕らにまではまだ回ってこないけど」
ここはまだ電気も水道水もあり、スラム街としてはまだ恵まれた方だろう。日々の暮らしに必要な品々を売る商店や飲食店が切れることはない。日々の料理に使うのだろう、小さいブリキ缶に入れた木炭を35シリングで売っている店もある。
美容室のような店をのぞくと、若い女性が髪を結ってもらっているところだった。私が珍しいのか、オーナーのような婦人がしきりに「中に入れ」と勧める。何気なくカメラを向けると、嬌声をあげ恥ずかしがりながらも撮らせてくれた。「この髪の毛の結い方はラスタというのよ」と婦人が説明してくれた。私にはとてもできないヘアスタイルだ。
(写真は、道端でポテトチップをあげて、通行人に売る女性と、美容室で髪を結ってもらう女性)
至福の瞬間?
- 2010-08-10 (Tue)
- 総合
ラゴスも朝夕は快適な日々だったが、ここナイロビはさらに快適だ。ただ、早朝は肌寒い感じすらする。ほぼ赤道直下とはいえ、ナイロビは標高1,700メートルの高地。ベッドわきの温湿計に目をやると、温度20度、湿度59%。出かける時は上着をはおる。日本からよくぞ、ジャンバーを持ってきた、トランクが重い思いをしたのは無駄ではなかったと自分に言い聞かせる。
地元の邦人に「ナイロビってこんなに寒かったですかね?」と尋ねると、「今が一番寒い時期ですから。もうすぐすると、春先のいい天候になりますよ」という返事が返ってきた。
とはいえ、日中は暖かい陽光が降りそそぎ、木陰に入ると、澄み切った空気が心地良い。日曜日の午後3時過ぎ、招かれた邦人の家の庭先で炭火で焼いたイカや肉を肴に焼酎やワイングラスを傾ける。猫が足元でじゃれつく。焼いた餅に海苔を巻いていただく。「至福」。かつて、ケニアに入植してコーヒーを栽培していたデンマーク人の作家、カレン・ブリクセンが著書”Out of Africa”(1937年、邦訳アフリカの日々)の冒頭で、ナイロビ郊外にあった彼女の農園での暮らしを記したくだりが脳裏をかすめる。「アフリカの高地では人は毎朝目覚めると思うのです。私はここにいる。私がまさにいるべきところにと」
週末は街中には出かけなかったので、月曜日、いわゆるシティセンターに足を運ぶ。20年の歳月があるから、当然のことながら、当時はなかった高層ビルや真新しい建物が目につく。行きかう車の量は変わらないように思えるが、タクシーの運転手は「自分がハンドルを握ったのは1987年から。当時と比べれば、車の量は少なくとも二倍に増えた」と語る。同じ英国領だったナイジェリアと異なるのは、ケニアでは日本と同じように、車が道路の左側を走っていること。日本人にとっては運転が楽だ。
ケニアが英国のくびきを離れ、独立したのは1963年12月。ナイジェリアより3年遅い独立だった。シティセンターの一角に「独立」を意味するウフルパークと呼ばれる公園がある。高層ビルをのぞんで眺めが良かったので、車から降り、写真を撮る。公園では家族連れやカップルが寝そべったり、談笑したりしているのが見えた。とても平和な光景だ。
それでも、日中は一人でも街中は歩いて大丈夫だが、夜間はやはり一人で歩くのはリスクがあり、車(タクシー)を利用した方が無難という。この点は昔も今も変わらない。
(写真は、ウフルパーク越しにナイロビの高層ビル群をのぞむ)
懐かしのナイロビ
- 2010-08-09 (Mon)
- 総合
先週ラゴスを出て東アフリカ・ケニアの首都ナイロビに入った。赤道直下、アフリカ大陸を西から東に飛ぶこと約5時間の飛行。時差が2時間あるため、昼前にラゴスを立ったが、ナイロビに着いた時は夕闇が迫っていた。
ラゴス空港を出る時、かつてこの空港で悩まされた、空港職員らの「俺になにかあげるものはないのかい?」といった小金せびりもなく、スムーズに出国手続きを済ますことができた。本当にラゴスは変わったのか。ナイジェリアは独立50周年祝賀式典が催される10月に再度訪れるつもり。その時が楽しみだ。
ケニアのビザを入手していなかったため、ナイロビ空港ではパスポート審査カウンターの隣のカウンターでビザを取得。費用2,500シリング。トランクや手荷物検査もフリーパスで気持ちよく出口に向かう。ナイロビでの滞在先は在留邦人の旧知の友人宅。ホテル暮らしから「解放」され、ほっと一息をつく。ありがたい。
訪れた国で最初にやるのは現地通貨への両替で、気になるのは日本円、米ドル、英ポンドなどとの交換レート。ケニアの通貨シリングと日本円との交換レートは非常に大雑把に言うと、1円が1シリングのように感じた。20数年前にナイロビ支局に勤務していた時の印象では、1シリングが10円ぐらいの価値があったように思うから、少し驚いた。
ナイロビは昔から日本食レストランも複数あり、居心地のいい都市だった。久しぶりにナイロビの地を踏み、目を見張った。昔はなかった快適なショッピングモールができていた。そこにはレストラン、カフェ、衣料品店、スーパー、書店、銀行のATMなどがあり、日本と大差ない時間を過ごすことができる。
一番嬉しいのは「サイバーカフェ」と呼ばれるお店があることだ。日本を立つ前にネットの接続の仕方を接続会社の担当者から電話で教わっていた。悲しいかな、ハイテク音痴の私はラゴスで何度も何度もトライしたが、だめだった。仕方なく、ホテルのランにお世話になったが、これが切なくなるくらいスピードが遅く、途中で切れることもしばしば、ブログの更新にも四苦八苦した。それが、このお店では実にスムーズに作業ができる。到着した翌日にサイバーカフェを訪れ、持ち込んだラップトップのパソコンでメールを確認、ブログを更新し、料金はわずか40シリング。思わず、長らく忘れていた「アサンテサナ」(産休いやサンキュウ)のスワヒリ語が頭に浮かんだ。
(写真は、ショッピングモールの駐車場で開かれていたマーケット。手製のバッグやアクセサリー、木工品などお土産に最適の品々がところ狭しと並んでいた)
ナイラの価値
- 2010-08-08 (Sun)
- 総合
石油を産し、資源に恵まれ、日本のほぼ2.5倍の国土に約1億5千万の人々が住むナイジェリアは「グッドガバナンス」(良い政治)さえあったら、アフリカを代表する経済大国になっていただろう。残念ながら、そうはいかなかった。2回目の項でも書いたが、「コラプション(汚職)」が昔も今も蔓延しているためであり、社会から腐敗を一掃するリーダーシップが発揮されたことがないからだ。
ある夜、親しくなったナイジェリア人と夕食を食べに出かけた。彼は自分が20年以上前に住んでいた住宅街に案内してくれた。でこぼこだらけの道を車で走ること40分、着いたのはまばらな街灯と飲食店や雑貨店の軒先の明かりで辺りの様子が辛うじて分かるところだった。彼は言った。「この辺りは20年前と全然変わらない。何も良くなっていない。政治家は自分たちの口座を膨らませることだけを考えており、一般大衆は捨てやられたままの生活だ」
ナイジェリアの悲劇は国の成り立ちにも由来する。1960年に英国の支配を離れ、独立を果たすのだが、北部のハウサ・フラニ族、ラゴスを含む南西部のヨルバ族、南東部のイボ族という三つの言語、宗教、文化の異なる人々により構成され、今なお微妙な確執が続く。マイノリティー(少数派)の部族を含めるとこの国の部族の数は250を超えると言われる。60年代末にはイボ族の人々が独立を目指し、100万以上の人々が死亡したビアフラ内戦も起きている。
現大統領は北部のフラニ族の大統領の急死により副大統領から昇格した南部のマイノリティー出身のグッドラック・ジョナサン氏。来年1月には大統領選が控えており、南部ではジョナサン大統領の出馬を求める声が大勢だが、北部ではこれに反対する動きもあり、決着していない。
ナイジェリアの経済の低迷を象徴するのは通貨ナイラと対ドルの交換レート。1970年代には1ドル1ナイラかあるいは1ナイラが1ドル以上の価値もあったレートはその後徐々にナイラ安となり続け、現在1ドルは約150ナイラ。タクシー会社のオーナーが嘆いた。「70年代末には新車のプジョー(仏車)を4,500ナイラもあれば購入できた。今は最低でも4百万ナイラが必要で金のない我々にはとても手が出ない」(注:100円が約150ナイラ。私の印象ではこの国の「普通」の人の平均月収は約18,000ナイラのようだった)
(写真は、母親が営む雑貨店の前にたたずむ三人姉妹。カメラを向けるとポーズをとってくれた。彼女たちが成長したときの母国はこの笑顔にふさわしいものになっていて欲しいと願う)
ミシンを踏む男性
- 2010-08-06 (Fri)
- 総合
ナイジェリアを旅していてよく出くわすのが衣服店でミシンを踏んでいる男性の姿である。ホテル近くの店でも男性が2人ミシン作業に精を出していた。店に入り、いろいろと話しかけた後にやんわりと写真撮影の許可を求めると、女性のオーナーも男性2人も苦笑しながらOKの返事。早速写真に収めた。
オーナーのブレッスィング・インヤングさん(35)としばし歓談。自分自身の店を持って6年ほどになるという。景気を尋ねると「悪くはない」と言う。今ではナイジェリアの女性たちもとてもファッションにこだわるようになったことが追い風になっているとか。パーティーや祝いの場などでは従来のスーツとかドレスではなく、派手な装いの「アンカラ」と呼ばれる伝統的なドレスに身を包むのがトレンドとして定着。仕立て代金はピンからキリまであるが、彼女の店では例えば、1,500ナイラ(約1,000円)の生地を5,000ナイラでドレスに仕立てている。
確かに日曜日などに教会に出かける女性のファッションは見慣れない私には目を見張るものがある。頭には大きな被り物をして、原色鮮やかなドレス。失礼な言い方だが、日本に比べて太ったご婦人が圧倒的に多い印象を受けるが、そんなことは意にも介さぬ堂々とした着こなしには私など口をはさむ度胸はとてもない。
ブレッスィングさんの店で働くのは男性2人に見習いの少女を含めて8人。訪れた時は停電のため、ミシンを足踏みで作業していた。「停電はしょっちゅうよ。アイロンかける時に停電だったら、火をつけた炭をアイロンの中に入れて作業するのよ。見せてあげるわ」と言って、中が空洞になった年代物のアイロンを持ち出してきた。
この衣服店に飛び込んだのは別の目的もあった。日本から持ってきた薄地のジャケットのポケットの底が浅く、財布などを入れていると、人混みの中では不安なため、ポケットにジッパーを付けたいと思っていたのだ。生地が薄いため、断られても仕方がないかと思っていたが、男性スタッフの一人が快く引き受けてくれ、申し分のないジッパーを両方のポケットに縫い付けてくれた。代金は1,000N。次はズボンのほころびを縫ってもらおう。
(写真は、仕事に精を出す衣服店の男性スタッフ。停電のため、昔懐かしい足踏みでの作業だった)
雲泥の差
- 2010-08-05 (Thu)
- 総合
アフリカで写真を撮ることは結構難しい。撮られることを極端に嫌う人がいるからだ。彼らから見れば、私は白人。写真撮影の意図を怪しむ彼らの気持ちは理解できる。罵声を浴びることもしばしばだ。いや、だったと書くべきかもしれない。なぜなら、今のところ、ほぼスムーズに写真を撮れているからだ。もちろん、カメラを向けてはまずいだろうなというところでは我慢している。私は気弱な男だから。
前回、紹介したバダグリの奴隷貿易の資料館では嬉しいことがあった。
資料館は近年、海外の観光客だけでなく、国内の学生たちもよく訪れるという。見学の後、浜辺に足を伸ばすと、若者の集団に出会った。資料館を見学に訪れたイバダン大学(ラゴス州の北隣のオヨ州にある名門大学)の学生たちだった。
カメラを向けると、二三人の学生が予想通り「撮るな」と叫んだ。私は自分が20年以上前にこの国を訪れていたこと、今はアフリカ漫遊の旅にあることなどを説明し、できるなら撮らせて欲しいと頼んだ。話を聞いていた彼らの表情が段々と笑顔に変わっていき、撮影OKとなった。仕舞いには彼らに囲まれて記念撮影、学生からは日本や日本語について無邪気な質問も出され、喜んで答えた。(残念ながら、写真は逆光だったのか写りがあまり良くなく、ここでは紹介できない)
資料館のすぐ近くには19世紀に英国のキリスト教宣教師によって建てられたこの国では初めての二階建ての建物があり、これも観光スポットの一つ。イバダン大学の学生たちに会った後、ここではオヨ州の別の大学から見学に来ていたグループに遭遇した。一緒に見学した後、立ち去ろうとすると、学生たちから引きとめられ、再びかわるがわる記念写真を撮られた。私のような人間は珍しいのだろう。学生たちの弾ける笑顔にたくさん出会い、この日は一日中、気分が良かった。
(写真は、二つ目の学生グループの若者たち。このような笑顔に出会う限り、アフリカの旅は楽しい。どこでも言えることだが)
奴隷貿易の地
- 2010-08-03 (Tue)
- 総合
アフリカをさるく(歩くという宮崎方言)旅にいそしんでいるが、新聞記者(特派員)時代の悲しい性か、どうもまだ、何かにせきたてられているような感覚が抜けない。そうだ、それなら観光気分でも味わおうと、ラゴスから車で西に1時間ほど、ベナン共和国との国境沿いの町にタクシーを走らせた。
目指した町はバダグリ。ここに、かつての奴隷貿易時代の遺物が残っていると聞いたからだ。西アフリカのセネガルやガーナ、トーゴなどからは米大陸や西インド諸島に多くの黒人が奴隷として送り出されたことはよく知られているが、ナイジェリアのことはあまり知られていない。私もよく知らなかった。
着いたところは拍子抜けするほど何の変哲もない平屋の小さな小屋のような建物だった。外壁に大きな文字で「バダグリ奴隷遺物資料館」と書かれていなければ、通り過ぎるような建物だ。19世紀にこの一帯を支配した地元の有力者、チーフ・モベー(1893年没)を祭った建物でもあった。
案内してくれた若者が壁にかかっている大小さまざまなチェーンを手に説明してくれた。「これは奴隷の首にかけ、逃げられないようにしたものです。これは二人の人間の足をつなぎました。この扁平の小さな鉄の輪、何に使ったか想像できますか。奴隷がしゃべるのを阻止するため、口にかぶせ、上下の唇に留めがねを貫通させたのです・・・」
西アフリカからは1450年から1850年にかけて、少なくとも1,000万人の黒人奴隷が米大陸などに運ばれたと見られている。資料館の前は入り江になっており、この入り江から沖に浮かぶ奴隷船に向け多くの奴隷が小船に乗せられていったという。
前から疑問に思っていたことがある。奴隷貿易に手を染めたのはヨーロッパの列強だが、アフリカ側でもそれにより潤った地元の有力者や部族の人たちがいたことだ。同胞に対する裏切り。バダグリでは奴隷貿易に従事したのはポルトガル、スペイン、オランダの奴隷商人で、チーフ・モベーはその見返りに銃や酒、嗜好品などを手にした。チーフ・モベーの末裔は今も地元に住んでいるのだろうか。人々との関係はどうなのだろう?
この疑問をぶつけると、案内の若者が明確に答えてくれた。「何の問題もありません。チーフは奴隷貿易に手を染めましたが、ここで奴隷制度を廃止したのもチーフですから」。確かにチーフの生存中に、バダグリでの奴隷貿易は遅れてやってきた英国により禁止となった。若者と話をしていたら、大柄の青年がやってきて親しげに会話に加わった。若者は「彼はプリンスという名前です。チーフ・モベーの末裔です」と紹介してくれた。彼らの「懐」のなんと深いことよ!(写真は奴隷の自由を奪った数々のチェーン。これだけでも奴隷貿易の残忍さが分かる)