アフリカをさるく
ヒラーン州(ソマリア)の決起㊦
- 2010-08-24 (Tue)
- 総合
親切な青年の名前は年齢20台半ばのアリ・モハメドさん。モガディシオ生まれでケニアの西隣のウガンダの大学で経済学を学び、今はナイロビ市内で仕事をしながら、祖国ソマリアの再建を目指し、欧米など世界各地に散った同胞と連絡を取り合い、若者を中心としたグループのリーダーとなっている。
「今、モガディシオやヒラーン州を支配しているイスラム急進派のアル・シャバーブはアル・カーイダの支援を受けています。アル・シャバーブの大半はソマリア人ではなく、外国人です。だから、われわれが彼らの下でいいように使われている若者を説得できれば、事態は変わります」とアリさんは語った。
アリさんによると、ソマリアの悲劇は長年の間、有力者が教育を受けていない若者、特に厳しい遊牧生活を送ってきていた若者を金で操って権力を手にしてきた歴史でもあるという。「ソマリアは他のアフリカ諸国と異なり、部族的な差異はありません。言わば、国全体が一つの部族です。皆が同じソマリ語を話し、同じ文化、伝統に生き、そして100%イスラム教徒です。ソマリアの問題は我々ソマリア人にしか解決できません」とアリさん。
彼らは過去2年、ヨーロッパの都市で集会を重ね、この日を迎えたという。世界各地に散っているディアスポラ(離散)のソマリア人が資金面で支えていることは想像に難くない。近くエチオピア側から州内に入り、アル・シャバーブと戦う一方、交渉にも応じる和戦両様の構えで臨むという。
ひな壇の真ん中に座ったモハムド・アブディ・ガブ知事は初任地八王子支局時代のデスクだったN氏によく似ていた。彼は就任のスピーチの中で「ソマリアの国民は人類史上例のない苦難にあえぎ続けている。我々は祖国をアル・シャバーブという冷酷なテロリスト、犯罪者の手から解放する」と語った。スピーチを終えた知事は会場に詰め掛けた支持者からもみくちゃにされていた。
ホテルを後にした時は日付が変わっていた。ソマリアの悲劇が彼らによって簡単に片がつくとは思わないが、そうなることを心から願う。集会の合間には祖国やヒラーン州をたたえた歌や即興の詩がいくつも披露された。さすが「詩人の国」として知られただけある。
(写真は上が、就任のスピーチを終え、熱狂的祝福を受けるガブ知事=中央、レイをかけられた男性。下が、時に踊りを交え、祖国やヒラーン州をたたえる歌を熱唱する歌い手の人たち)
ヒラーン州(ソマリア)の決起㊤
- 2010-08-23 (Mon)
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思わず、”Who are you?”(あなた方はどなた方ですか?)と尋ねてしまった。先週金曜の夜、ナイロビ市内の高級ホテルのレセプション会場。ひょんなことから会場に足を運んだ私はそこで催されている集まりの趣旨もろくに理解していなかった。ケニアの北の隣国、ソマリアに関係する集会であるとは聞いていたが。
会場で最初に目にしたのは青を基調にしたTシャツを着た若い男女のグループ。細身で端正な顔立ちの人が多い。冒頭の質問に対し、一番端の女性から返ってきた答えは”I’m fine, thank you.”だった。私もつられて”Me, too.”と言ったような気が。はて、このやりとり、どこかで聞いたような(注)。
足を踏み入れたのはfailed country(破綻した国)として知られるソマリアの中央部に位置するヒラーン州(Hiran)の人々が州政府の機構を整備し、州知事を新たに「選出」したことを祝う集まりだった。ケニアの他、欧米に散ったソマリアの人々が結集していたのだ。
私は残念ながら、ソマリアに取材したことはない。私がナイロビに勤務していた時、ソマリアはシアド・バーレ大統領の独裁政権だったが、国内各地の反政府活動により、当時すでに首都モガディシオ以外は無政府状態だった。バーレ政権がその後91年に崩壊した後は、ソマリアは武装勢力の抗争やイスラム急進派の台頭でさらに混迷を深めている・・・ぐらいのことは理解していたが、よくは知らない。
だから冒頭のとんちんかんな問いになったのである。さあ、困った。だが、集会参加者の私を見る目は明らかに好奇心に満ちていて、「招かれざる客」ではなさそうだ。とにかく、誰かに話を聞こう。そう考えていると、優しい笑顔をたたえた青年が「ようこそ、プレスの方ですか」と近づいてきた。いや、そうではない、この間まではそうだったが、今は、気ままにアフリカを旅している身であることを手短に説明する。そうですか、今日は我々ソマリア人とってとても嬉しい、歴史的な日ですから。一緒に祝ってください、というようなことを言われた。会場の喧騒がすごくて耳元で大きな声で話さないと相手の言っていることがよく理解できないのだ。
会場に足を踏み入れた時は夜の8時ごろだった。まさか、この後、日付が変わるまで長居することになるとは思わなかった。
(写真は上が、ソマリアの国旗にヒラーン州のシンボルをあしらったTシャツを着た若者。下が、会場に詰めかけたヒラーン州を中心にしたソマリア出身の人々)
注)どこかの国の首相がかつて、ビル・クリントン政権時代のホワイトハウスを訪問した時、英語に自信のない首相は側近に大統領に何と挨拶したらいいか聞いた。側近は「首相何の心配もいりません。ただ、微笑みながら、How are you? と言えばいいのです。そうすると、大統領は必ず、I’m fine, thank you. And you? と聞いてきます。そうしたら、首相はMe, too. と答えればいいのです」と説明。首相は安心してホワイトハウスへ。クリントン大統領との顔合わせで、歩み寄ってくる大統領に首相は Who are you? と言ってしまった。ユーモア心のある大統領は慌てることなく、I’m Hilary’s husband. と返答。首相も即座に Me, too. と応じたとか。本当か嘘かしらないが、一時、新聞記者の間で流布した噂話だ。ご存知の方も多かろうが、あえて参考までに。
ミドルクラスの成長
- 2010-08-22 (Sun)
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ナイロビ市内を西北に向かって車を走らせれば、ウエストランズという地区に出る。ここにウエストゲイトという名の3年ほど前にできたショッピングモールがある。地元の人はここが市内でベストのモールだと言う。
なるほど、ミルク色の大きなビルの正面ゲートから次々に買い物客が出入りしていた。中は吹き抜けになっており、一階のゆったりしたスペースにはスーパーやカフェ、香水、宝石、アクセサリー店などが並ぶ。
欧米からの観光客かホワイトケニヤンと呼ばれる白人のケニア人か分からないが白人の姿や、エイジアン(アジア人)と呼ばれる旧植民地時代から住み着いているインド、パキスタン系のケニア人が目立つ。黒人のケニア人も負けてはおらず、ショッピングカートに山のように買い物した品々を積んでいる。
こうした光景を目にするたびに、黒人のミドルクラスが着実に増え続けているのではないのかと思えてくる。先に紹介したキベラのようなスラム地区から抜け出せない住民が依然多いことも承知してのことだが。
ナイロビ大学の人文科学学部長のエノス・ンジェル教授に尋ねた。教授は「国の発展はミドルクラスの国民の成長がかぎを握ります。ケニアは今、経済的にも政治的にもいい方向に向かっており、この傾向はこれからも続くと楽観しています」と語った。
教授の言う政治的な動きとは、今月初めの国民投票で新憲法が賛成多数で承認されたことを指している。「新憲法の特長はいろいろありますが、その一つは中央の権力が地域に分与されることです。一人の個人が絶対的な権限を握ることもなくなり、各地域がそれぞれの特徴を生かしながら、国づくりに協力することになります」
ケニアを代表するデイリー・ネーション紙は国民投票直後の紙面で国民の意識を探った世論調査結果を発表。それによると、調査対象者の76%が来夏には自分たちの暮らしぶりが良くなっていると思うと答えている。だからか分からないが、バスやマタツに乗り込んでも、乗客の雰囲気が柔らかい。安い定食を食べさせる食堂に入っても、周囲の視線が気にならない。
ネーション紙は21日の紙面で、低所得層の住宅地区で暮らす10人の女性がグループを作り、1日それぞれ20シリングを出し合い、お互いの生活を支えあっている記事を報じていた。ことわざでしか知らない「爪に火をともす」ような苦労を重ねての互助会なのだろう。上記の世論調査結果がぜひ現実のものになって欲しいと思う。
(写真は上が、ナイロビで一番モダンなウエストゲイト。写真を撮っていたら、警備員から「セキュリティー上、写真撮影は禁じられている」と注意された。下はナイロビ大学のンジェル教授。気さくにインタビューに応じてくれた)
部族の垣根
- 2010-08-19 (Thu)
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前回の項で、「ルオ族」という表現を使った。「ルオ人」と言い方もありうる。「ルオ系ケニア人」という表現はスマートに見えるが、これはこれで字数を要する。
自分が勤務してきた読売新聞社では、アフリカの国々を構成する数多くのトライブ(tribe部族)、エスニシティー(ethnicity民族)を「族」と表現している。朝日新聞社ではいつからか知らないが、今は「人」を充てている。「ルオ族」ではなく「ルオ人」となる。「人」と表記すると「族」より一段上にある印象を与える。
朝日の表現をとれば、ケニアは主要42の「民族」から成る国であり、具体的にはキクユ人、ルイヤ人、ルオ人、カンバ人、マサイ人などから構成されるとなる。読売では主要42の「部族」で構成され、キクユ族、ルイヤ族、ルオ族・・・。従って、一つの国内の抗争、衝突は「民族対立」とか「部族抗争」などと表現が異なることになる。
今回の漫遊ではこの点についても考えたいと思っている。ナイジェリアに至っては250を超える部族がひしめいていて、これを全部、民族として扱うことが妥当かという問題もある。
アフリカの地図を見れば一目瞭然のように、その国境が(19世紀末)定規でもあてたかのように引かれていることが分かる。引いたのはアフリカの人々ではなく、ヨーロッパの列強だ。東アフリカは英国が主導権を握り、西アフリカはフランス(一部英国)、中部アフリカはベルギー、南部アフリカはポルトガルや英国などが命運を握った。その結果、一つの部族、民族が複数の国境にまたがったり、本来なら、当然別の国家として誕生すべき人々が一つの国家として強引にまとめられ、現在に至るまで悲劇を生んでいる。
ナイジェリアで言えば、北部のハウサ・フラニ族のコミュニティーと南部のヨルバ、イボ族のそれは宗教、文化的にも大きく異なり、彼らはそもそも二つの国家に分かれて発足すべきだったという意見は常識のようになっている。「英国がやったことはとても罪深い」とはき捨てるように語る人に何度会ったことか。
多くの国々で部族、民族の違いを克服し、国家としてのまとまりを育む大切さが叫ばれ、その方向に向けた動きも活発化している一方、異なる部族、民族を激しく非難することで「延命」を図ろうとする政治家も今なおいる。多くの国々が欧州のくびきを離れ、独立50周年を迎えている今年、どちらの動きがより大きなうねりとなるのか。
(写真は、ナイロビ大学のキャンパスでくつろぐ男子学生。日本に留学するにはどうしたらいいなどと尋ねていた)
ポレポレの心で
- 2010-08-18 (Wed)
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週末からずっと体調が悪く弱っていた。原因は周囲の人の「見立て」で想像できたので、なんとか、日本から持参していた薬と気力で直そうとしたが、やはりどうも元気が出ない。海外でしかもアフリカで元気がなければどうにもならない。
ナイロビ市内にあるアガカーン大学病院を訪れた。イスラム系の大富豪により建てられた病院だ。ここでは比較的富裕層が利用する病院として知られている。電子辞書で「膀胱炎」を英語で何と呼ぶか調べて、メモ帳に書き込んで出かける。cystitis シスタイティスと発音するらしい。何度も口にしてみる。うん、これなら大丈夫だ。
アガカーン病院に着いたのは午後1時半過ぎ。受付の女性に医師に診てもらいたいことを告げると、壁にかかっている番号札を取って待てとのこと。かなり混んでいた。ほどなく、別の窓口から名前を呼ばれて、まず受信料として1,200シリングを支払わされた。キャッシュが心細くなっているので、ビザカードで支払う。
しばし待たされた後、再び名前を呼ばれたので、待合室の前に複数ある診察室に行く。30歳代の黒人の女性が「どうしましたか?」と微笑む。どうも、シスタイティスのような症状なんです、残尿感もおさまり、だいぶ良くなった感じはするのですが、どうも完全な感じではない、微熱もあるようで、などと説明する。「なるほど、それでは、専門のドクターに診てもらいましょうね」
別室で見てもらったドクターも黒人医師だった。とても愛想がよい。こちらがアフリカの旅にあることや20年以上前にナイロビに住んでいたことを知ると、話が弾んだ。「キスムに行ったことはありますか?」「昔あります。ビクトリア湖のほとりにある町でとても蒸し暑かったことを覚えています」「そうですか。私はそこの出身です」「そうですか。それではルオ族の方ですね」「そうです」
検査が終わり、やはり、膀胱炎であるとの診断で、薬をもらって、病院をあとにしたのは午後6時過ぎ。この日病院に支払ったのは締めて約5,900シリング。
普通ならいらいらして待たされるのだろうが、居合わせた人々は淡々と自分の順番を待っていた。自分がこの病気にかかったのは、疲れがたまっていたのが一因かもとも思う。先は長い。地元の人がひところよく口にしたように、「ポレポレ(スワヒリ語でゆっくりゆっくりの意)」でやっていこう。(この項を記している水曜日の朝、体調は90%以上回復した感じだ)
(写真は、上がアガカーン大学病院の外来診察の受付嬢。凛とした美人だったので写真を撮らせてもらった。下がナイロビ市内の目抜き通りで、乗っていたマタツから撮影。ラッシュの時間帯につかまると、ポレポレと自分に言い聞かせる)
友との再会
- 2010-08-16 (Mon)
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「友情」という木にも「水」をやらないと、やがて朽ちていくのだろうか。ある程度年齢を重ねた方には「水」の意味を説明することもないだろう。私の場合、郷里に住む小学中学時代を一緒に過ごした幼馴染、高校時代の数少ない親友ぐらいはそう「水」をやらなくとも、朽ちることはないような気がする。
ナイロビでは久しぶりの再会を期待していた友がいた。最大部族のキクユ族のジョージ。私と同じ世代、実際には2つほど年長の男だ。私が口座を設けていたナイロビの銀行に勤務していた関係でカウンター越しに顔を合わせているうちに親しくなった。7年前にナイロビを再訪した時にも時間をつくって、ナイロビ中心部から車で40分ほどの距離にある彼の自宅を訪ねていた。
その後、手紙を出したような記憶があるが、届かなかったのか、音信は途絶えていた。携帯の番号は控えていたので、ナイロビ到着後、何度か電話していたら、つながった。私が名乗る前に彼は私からの電話だと分かったみたいで、携帯電話の向こうですごく喜んでいるのが分かって、私もうれしかった。
ジョージは銀行をやめた後は自宅で牛を数頭飼育したり、畑でコーヒーを栽培していたが、決して裕福な暮らしとはいかなかったようだ。それは7年前に自宅を再訪した時に古びたテレビやほころびが目立ち始めていたソファからもうかがえた。なにしろ子供は男8人、女2人の計10人。それでも、小学校の教師をしている奥さんが歓待してくれた。一番下の2歳になる八男がわめくようにしゃべっていたのを覚えている。
今回の再訪。ジョージはアングリカンチャーチの牧師になっていた。もとより敬虔なキリスト教徒だった。彼の晴れやかな表情から、今の「仕事」が天職であることが分かった。教会をのぞいた後、自宅に。ナイロビでも学校は今「学期間の休み」のため、奥さんが心づくしのお昼ご飯でもてなしてくれた。今度はさすがに子供は増えていなかった。一番下の子供も好奇心いっぱいの賢そうな9歳の少年に成長していて、私のそばを離れなかった。上の子供たちの何人かは社会に出て働き始めており、暮らしも少しは楽になったようだ。奥さんの学校の同僚の女性教師2人も食事に呼ばれており、しばし歓談。「ジョージ、あなたの10人の子供はある意味、インベストメント(投資)のようなもんだね」と軽口をたたくと、みんなが一斉にどっと笑った。アフリカに来て最も受けたかもしれない。
(写真は上が、友人のジョージが住むバナナヒル。商店街が途切れたところの木陰を利用した店の前では牛がのんびり寝そべっていた。下が、ジョージの家で子供たち。賑やかに遊んでいたが、カメラを向けるとおすまし顔に。一番左の女の子は一緒に住んでいる彼らのいとこ)
胃袋の方が記憶力あり
- 2010-08-13 (Fri)
- 総合
ナイロビに到着して1週間。20年ほど前に勤務したことがあり、7年前に1週間ほど訪れたことがあるとはいえ、ロングタイムノスィー(long time no see)だから、再訪したナイロビの印象を地元の人に尋ねられると、だいぶ変わってしまったので”I feel like I’m a total stranger.”(右も左も分からない感じです)と答えている。
毎日のようにシティセンターに出かけている。タクシーもあるが、長丁場の旅なので、バスを利用している。特派員時代は日本から持ち込んだ車のために、運転手を雇っていたし、時には自分で運転していたので、バスやこの国でマタツ(注)と呼ばれる小型の乗り合いバスを利用することは皆無だった。最初は気後れがしたが、FMラジオの大音響を車内に流しながら走るバスやマタツの乗り心地ははたで見ているほど悪くない。第一、安い。
毎朝出かけているショッピングモールは前にも書いたように、便利で快適。ネット接続もスムーズにできるサイバーカフェもあり、とても満足しているのだが、なんとなく、ナイロビにいる感じがしない。それで、お昼前後になると、バスに乗ってシティセンターに。
今朝はカフェでコーヒーとトーストサンドの朝食を食べなかったので、大通りのケニヤッタアベニューにある食堂に入る。チキンとライスにティーを注文する。出てきたお皿に緑茶の葉っぱのような野菜が添えられている。フォークですくってみる。おお、これは懐かしい。たしか、スクマウイキとかいった野菜ではないか。私はこれは好きだった。最後はチキンを手でつかみむさぼる。うまい。ご飯もいい。締めて270シリング。
腹ごなしに散策。ホテルの一階部分が当時は日本食レストランだったところが今はカジノになっていた。そう広くないスペースに風変わりなスロットマシンが並んでいる。
歩いていると、またカジノのような看板が掲げられてあった。中がよく見えない。鉄格子に顔を近づけると、ガードマンが頑丈そうな鍵をあけ、入れてくれた。ここは先ほどより広い。ルーレットの台が二つ、ポントゥーン(ブラックジャックみたいなカードゲーム)の台が二つある。ミニマムベットが10シリングのルーレットでは地元の黒人とインド系の人たちが静かにゲームに興じていた。お金もないし、しばし見学。ああ、私の人生、この自制心がもっと早く欲しかった! (注) ケニヤ、タンザニアなど東アフリカの国々では、旧宗主国の英語だけでなく伝来のスワヒリ語が話されている。マタツはスワヒリ語で3を意味し、当時は3シリングあればこのミニバスに乗れたことから、今に至るまでそう呼ばれている。今は3シリングでは乗れず、私がシティセンターに行くには30シリング払っている。
(写真は、上がなんとなく足がとまる売店、新聞や週刊誌、雑誌が並ぶ。下は食堂で食べたランチ。ささやかだが、スープもついている)