アフリカをさるく
国民融和
- 2010-09-03 (Fri)
- 総合
ホテルでルワンダの唯一の日刊新聞「New Times」の編集局長代理の到着を待っていた。前日、新聞の片隅に載っていた編集局の電話番号に電話をかけると、最初に電話に出たのが本人だったので少し驚いた。編集の最高責任者の立場にある人だ。日本の新聞社なら地方支局でも支局長が支局にかかってきた電話を一番最初に取ることはまれだろう。自分がアフリカの旅にあり日本の元新聞記者で、少しお話を聞かせてもらえないかというと、即座にOKしてくれた。
やってきたのは、若々しい男性だった。コリン・ハバ氏。31歳という。
最初の質問はなぜ、あれほどのジェノサイド(大虐殺)がありながら、わずか16年で国民融和が実現したのか、いや、本当に実現しているのかという疑問だった。
ハバ氏は明快に答えた。「端的に言うと、強力なリーダーシップがあったからです。カガメ大統領の指導下、国民各層がエスニシティー(民族、部族)にとらわれず、みんなが参加できる社会作りに取り組んだ、その成果が今のルワンダです。これからもっと良くなる。私はとても楽観的です」
そもそもなぜあのようなジェノサイドが起きたのでしょうか。「政権の座にあったものの
私利私欲です。植民地時代以来の「divide and rule」(分断統治)で国民の間に溝をつくり、政権を維持しようとしたのが、ジェノサイドの背景にあります」。その国民融和は着実に進展していますか。「例えば、フツ、ツチの人を並べて、両者を言い当てるなんて、我々ルワンダ人でもできません。だから、当時の政権はIDカードで差異を明確にしようとしたのです。今はそういうことはしません。今のルワンダ人にフツかツチかエスニシティーを聞くのはとても失礼なことです」
ハバ氏自身はジェノサイドの時、隣国ウガンダの全寮制の高校に通っていた。ジェノサイド後、帰国して国内の大学を卒業、カナダの大学院で修士課程を終了した。周囲からはそのままカナダで就職したらと勧められもしたが、「祖国はルワンダ」との思いが強く、再び帰国し、ジャーナリズムが大学時代の専攻だったことから、発足して間もない新聞社に就職した。現在記者の数は40人。「とてもタフな仕事です。西側のそれと違って、我々の仕事は国民を教育する、啓発する責務を負っています。そうかと言って、人々の間に入って情報を取ろうとすると、こちらが記者と知るとなかなか口を開いてくれない」。
ハバ氏が誇りとするのは「New Times」のウエブサイトに国内で断トツのアクセス数があることだ。「国内外の人たちがさまざまな情報を求めて我々のサイトにアクセスしている。やりがいがあります」
詳しい統計はないが、96年に680万人だったルワンダの人口は今、欧米に散ったディアスポラ(離散)の人々も帰国しており、1100万人ぐらいではないかという。
(写真は上が、インタビューに応じる「New Times」紙のコリン・ハバ氏。今は独身だが、来年当たり結婚したいと語っていた。下が、キガリの商店街の一こま。ここでも携帯電話の商いで賑わっていた)
夜でも歩けるキガリ
- 2010-09-01 (Wed)
- 総合
キガリはアフリカで私の知る限り、一番安全な都市かもしれない。それは町を歩いていれば肌で感じる。
道行く人や商店の前にたたずんでいる人たちからは、大げさな表現を許してもらえれば、こちらの顔を「穴が開く」ほど見つめられてしまう。はてさて、キガリも中国の人たちがだいぶ入って建設工事を請け負っているようだから、私のような東洋人の風貌にはもう慣れているのではないか。事実、若者からはすれ違う際によく、中国語らしき意味不明の言葉をかけられる。
ただ、ラゴスやナイロビでもそうだったが、好奇心からの凝視であることが分かっているから何の不安もない。ハローと呼びかけたり、手を軽く振れば、向こうは破顔一笑だ。短足腹太丸顔の私の風貌はよほどアフリカの人に受けるらしい。あたしゃ、パンダか。
話が横道にそれたが、彼らの視線にそうした幾分の温かみを感じるからこそ、一人で歩いていても何の不安も感じないのである。これなら、夜の一人歩きも大丈夫だなと思い、着いた翌日の夜からホテル周辺や少し遠くの繁華街(と思われる地区)を徘徊している。体調もいつもの絶好調に戻ったからお目当てはもちろんビールと街の見物だ。
ジェノサイドの傷跡が完全に癒えたわけではなく、隣国に逃げ込んだ前政権の残党勢力がうごめいていることもあり、キガリ市内では銃を手にして軍兵士や警官の目が光る。事実、誰の犯行か分からないが、今年に入っても何回か、繁華街で手榴弾が投げ込まれるテロが発生し、死傷者が出ているという。
私はキガリの治安がいいのは上記の兵士や警官が角々に配置されているからだけではないと信じたい。ジェノサイドがあったのにこういうのも変だが、ルワンダの人々に生来の優しさがあるからではないかと思えてならないのである。だからこそ、許しがあり、今のルワンダがあるのではないか。この国がこれから発展していく中で、私が感じた優しさが希薄にならないで欲しい、そう願うだけである。
(写真は飛び込んだレストランのビュッフェ・ランチ。日本円で350円ぐらい。私はこれで十分。周りの客を見ると、お代わりが許されないため、お皿に山のように盛っていて、写真に撮りたいぐらいだった。下が、町を歩いていて遭遇した学校帰りの小学生。写真を撮っていいかと聞いたら、少しためらった後、ポーズを取ってくれた。左の子が8歳、右が7歳)
ルワンダ・ジェノサイド㊦
- 2010-08-31 (Tue)
- 総合
ルワンダで94年4-7月の三か月間に起きた悲劇は、当時のフツ政権が軍やミリシア(militia)と呼ばれる非正規の武装勢力を総動員して、ツチをルワンダの地図から抹殺しようとしたことだ。虐殺に加担しない穏健派のフツも裏切り者として粛清された。その数、百万人以上。周辺国に難を逃れた難民二百万人。当時七百万人の国の話だ。ルワンダ人で自身や家族、親類が加害者なり被害者にならなかったケースは皆無に近いと思われる。
ジェノサイドは結局、ウガンダから進攻してきたツチ族のルワンダ愛国戦線(RPF)が全土を掌握して終止符が打たれた。現在のカガメ大統領はRPFを率いた指導者だ。
ルワンダはかつてフツ、ツチの人々がお互いの違いを意識することなく、相互に結婚してきた社会でもある。ジェノサイドはそうした親類、友人、隣人が牙をむいた。植民地時代の施策で少数派(15%)のツチに牛耳られた恨みがあったとはいえ、政権を手にした多数派(84%)のフツがなぜこのような虐殺に出たのか理解に苦しむ。そして国連を始め国際社会がこのジェノサイドに対し、信じられないほど無能無力だったこともセンターに来て改めて再認識した。ロンドン支局にいて無力だった自分自身のことも含めて。
キガリメモリアルセンターでは当時の殺戮直後の生々しい写真が掲げられている。最後の望みを託し、逃げ込んだ教会で、手榴弾を投げ込まれたり、火を放たれて死んだ無数の犠牲者の無残な姿も。奇跡的に生き残った人々のインタビュー映像では、生き地獄が語られる一方、妻子を失った男性が「家族を殺した人たちを許す。報復しようとは思わない。報復したら私も殺人者に落ちてしまう」と語っていた。
為政者の目的がツチ族の人々をルワンダから一掃することにあったのだから、ツチの赤ん坊や子供たちも残忍に葬られた。そうした子供たちのあどけない笑顔の写真がこちらを見つめてくる。名前、年齢、好物、殺害された方法などを記されて。
ジェノサイドから16年。キガリは今、ビルや道路など建設ラッシュで、道行く人からは笑顔がこぼれる。高校生以下の世代はともかく、大多数の人々はジェノサイドが今なお心のどこかに影を落としているはず。安易に傷口に触れるのははばかられる思いだ。
(写真は上が、センターの外に立つ、ジェノサイドで犠牲になった人々の名前を壁に刻んだ墓碑。見て分かる通り、名前が刻まれたのはまだごく一部に過ぎない。下が、センターで紹介されている犠牲者の幼児たち。パンフレットから撮影)
ルワンダ・ジェノサイド㊤
- 2010-08-30 (Mon)
- 総合
キガリに着いた翌日、やはり最初に訪れたのは、キガリメモリアルセンターだ。94年のジェノサイド(大虐殺)を記録してある資料館で、悲劇から10年後の2004年にオープンした施設だ。
丘の斜面にあるこじんまりした二階建ての建物で地味な印象がした。入場料は無料。受付で英語の案内録音が聞ける携帯電話機のようなものを5000ルワンダフラン(以下FRW)で借りる。(私の計算だと100円が約640FRWだろうか)
1階部分がルワンダ・ジェノサイドの紹介コーナーとなっていた。ルワンダにヨーロッパの列強が本格的にやって来たのは1895年のことで最初ドイツが入植、続いてベルギーが足を踏み入れ、ルワンダはベルギーの植民地となる。壁にかかった説明文の冒頭にある ”We did not choose to be colonized.” (我々は植民地となることを欲したわけではない)はアフリカのほぼすべての民のつぶやきでもあろう。
ルワンダがフツ、ツチの二つの民族(部族)から構成されることは前回述べたが(ピグミーであるトゥワ族もごく少数派として存在)、植民地となるまでは、「我々はone peopleであった」と述べてもいる。ベルギー政府は少数派で放牧民のツチを重用し、多数派の農耕民のフツをツチより劣る人々と見なした。しかし、この区別もいい加減なもので、例えば、「牛を10頭以上所有していればツチ、それ以下ならフツ」というような物差しで判定されたという。
ベルギーの統治により、二つのコミュニティーにあった確執が急激に悪化し、1962年の独立後に成立したフツ族の政権は絶えずツチ族をスケープゴートにしてきたため、政情不安になるたびにツチの人々はフツのテロ行為の犠牲になってきた。それが一挙に狂気の沙汰に爆発したのが94年4月―7月に起きたジェノサイドだ。直接のきっかけは独裁的大統領で自らツチの粛清の陣頭指揮に当たっていたハビャリマナ大統領の乗った飛行機がキガリ空港着陸直前に何者かに撃墜され、死亡した事件。誰の犯行か今日に至るまで不明だが、ツチの反体制派組織の犯行に見せかけ、ジェノサイドを正当化するために仕組まれた事件との見方も消えていない。
いけない、話が段々硬くなってきた。でも、この歴史を述べなければ、なぜ昨日まで隣人、親類として親しく行き来していた普通の人々が信じられない殺戮の加害者となり、被害者となったのか説明できない。センターで見た殺戮の現場写真、犠牲になった幼い子供たちの笑顔が浮かんできて、なんか息苦しくなったので、この続きはまた後で。
(写真は、キガリメモリアルセンターの正面写真。欧米からの観光客の姿が多かった)
千の丘の国
- 2010-08-30 (Mon)
- 総合
丘の上にある空港から首都の中心部に向かう道路をタクシーで走っていて奇異な感じがした。ごみ一つ落ちていないのだ。うわさには聞いていたが、なるほど政府が先頭に立ってきれいな町作りを推進しているだけのことはある。
ルワンダ。ナイロビから飛行機で1時間10分ほどの距離にある国。時差はナイロビと1時間。ルワンダと聞くと、どうしても、1994年の大虐殺(genocide)のことが頭に浮かぶ。ナチスのユダヤ人に対するホロコースト(holocaust)、クメールルージュのカンボジア国民虐殺とともに、世界史にずっと刻まれるすさまじい悲劇だ。
私はルワンダ虐殺が起きていた時、読売新聞社のロンドン支局に勤務していた。現地での取材体験はない。今でも記憶に残っているのは、自宅のテレビで見たBBCかCNNの映像だ。ビルの高層から撮ったと思われるロング・ショットの映像で、太い棒切れを右手にもった男が5、6人の男女を地面にひざまずかせている。撲殺するためだ。頭にスカーフをかぶった中年の女性が両手を合わせて命乞いしている。昨日まで親しい隣人だったのだろうか。男は棒を振り上げ、彼女の頭を何回も殴打する。殴打されるたびに横たわった女性の両足が上がる。ほどなく彼女の体は動かなくなった。
多部族(民族)から成ることの多いアフリカの国々で、ルワンダと隣国のブルンジはフツとツチという二つの部族から構成される。両国ともに多数派を占めるのはフツ族だ。94年の虐殺では多数派のフツが少数派のツチを襲い、当時人口七百万人のこの国で百万人以上のツチ及び虐殺に加担することを拒絶した穏健なフツの人々が殺され、二百万人が難民となったと言われる。
そのルワンダの首都キガリに入った。ポール・カガメ大統領が今月実施された大統領選で再選を果たし、これからさらに7年間の国政を託されたばかり。カガメ大統領の指導下、フツ、ツチの融和が着実に根付いていっていると聞いていた。入国ビザをもらうためにナイロビのルワンダ大使館に足を運んだ時に、窓口の受付で出会ったルワンダ人男性は「おや、キガリに行かれるのですか。ようこそ。キガリはアフリカで最も安全な都市ですよ。安心して楽しんでください」と声をかけられていた。
とはいえ、あれだけの不幸な出来事をつい最近(94年)体験したルワンダである。非礼な質問はしてはいけない。はてさてどうやって話を聞いていこうか。
(写真は上が、キガリ市内の典型的光景。「千の丘」の国と言われるだけあって、緑の丘の上に住宅が点在していた。下が、夕食を食べに行ったレストランのお客さん。膀胱炎でずっと服用していた薬からもようやく解放され、地元のビールを心行くまで楽しんだ)
新憲法発布
- 2010-08-27 (Fri)
- 総合
ケニアで27日、新憲法が発布された。この日は祝日となり、ナイロビ市中心部にあるウフルパークでキバキ大統領らが出席し、盛大な式典が催された。新憲法は今月4日の国民投票で賛成多数で承認されていた。新憲法は過去20年以上の紆余曲折を克服してのものであり、地元紙は一面で“Our day of pride” (誇りある日)と見出しを掲げていた。
この日のナイロビは未明に雨が降り、あいにくの曇り空。にもかかわらず、早朝からすでに大勢の人々が詰め掛けていた。
この国が英国の支配から独立したのは1963年12月。他の多くのアフリカ諸国が内戦やクーデターなどで苦しむ中、比較的安定した政情を維持でき、東アフリカの市場経済資本主義のモデルケースと称されたこともあった。ただ、政治的には一党独裁政権が長く続き、コラプション(汚職)にまみれ、国民の大多数が貧困にあえぎ、現在に至ることも事実。新憲法は確かに政治を監視する国民の権限を強めたが、政治の透明度を高め、国民の生活を本当に豊かにすることができるのか。
ウフルパークで3時間ほど、集った人々の顔をながめた。一つだけ理解できなかったのは、会場に入れなかった大多数の人々には式典の内容が全然フォローできなかったことだ。公園の何か所かにスピーカーでもあれば、多くの人が一緒に楽しめたはずだ。私は携帯電話ラジオの生中継放送をイヤホンで聞いていたので大体のことは理解できたが。
この日の式典にはコフィ・アナン前国連事務総長や周辺国の元首も訪れていたが、主役はあくまで一般のケニア国民。政治家の美辞麗句をちりばめたスピーチがあっても、いつも置いてけぼりにされるのは彼らだ。
(写真説明は以下の通り。①会場に入れない若者は木によじ登り、式典を見物。いやはや、その身の軽いこと②式典の会場外から遠巻きに見物する人々。誰も文句を言わないのが不思議③子供1人を連れた感じのいい若夫婦。「主催者は会場外にスピーカーを用意すべき」と話していた④顔にお祝いのペイントを塗ってもらった女の子。額の文字はKenya Mpya (New Kenya)とのスワヒリ語だ)
携帯で聞けるBBC
- 2010-08-26 (Thu)
- 総合
かつてナイロビ支局で仕事をしていた時、最も頼りにしていたのは英国BBCのワールドサービス放送だった。外出先でBBCの定時のニュースを聞き、大きな出来事がアフリカで起きれば、支局に取って返していた。支局が高層ビルの二階の奥まったところにあり、しかも当時は短波放送だったため、受信状態があまり良くなく、ラジオの場所をいろいろと移動して何とか聞き取ろうとしたことを覚えている。
邦人との1対1でのインタビュー中に、突然、バッグからラジオを取り出し、ワールドサービスのトップニュースをさらっと聞いた後、何事もなかったかのようにインタビューを続けた先輩記者がいたとも聞いたが、マナーはともかくその気持ちはよく理解できる。
今回驚いたのはこのワールドサービスが地元のFM放送でこれ以上ないくらい明瞭に聞けることである。それもなんと、携帯電話にFMラジオの機能がついており、深夜早朝、枕元で楽ちんに聞けるのである。(余談だが、日本の携帯電話を使うと地元の人との電話でも高い料金となるため、私はラゴスで地元の携帯電話を購入。ナイロビではシムカードとか呼ばれるものを交換して使用している)
BBCナイロビ支局のトップのキャサリン・フェローズ支局長を訪ねた。ケニアで地元のFM放送を利用してワールドサービスを開始したのは1997年のことという。
「我々の放送はアフリカ全土で親しまれ、敬意を抱かれています。ただ、最近は地元のラジオ放送も格段に質が向上しているほか、中国やフランスの放送局などといった手ごわい競争相手も増えていますので、安心はできません。それで(東アフリカの視聴者を対象に)スワヒリ語のウエブサイトも最近始めたばかりです」とキャサリンさんは語った。
中国が資源を求めて積極的にアフリカに進出していることはご承知の通りだ。ナイロビの中心部でも中国の支援で大規模な道路建設が進んでいる。メディアの現場でも存在感を示しつつあるとまでは知らなかった。
キャサリンさんの言葉に触発されて早朝、携帯電話のFMラジオの周波数をいじっていたら、91.90MHzで聞こえてきた。China Radio International。中国各紙の紙面の紹介や中国語の基礎講座も流していた。中国の「一人っ子政策」で1980年代に誕生した世代の90%以上が両親の面倒をみることに困難を感じているという報道も紹介していた。
BBCに負けない聞き取りやすい英語でなるほど、キャサリンさんが「脅威」に感じるだけのことはあると思った。ただし、アフリカ諸国のきめの細かいニュースはさすがにまだBBCの「独壇場」だろう。
(写真は上が、BBCナイロビ支局長のキャサリンさん。アフリカ報道のベテランだが、ナイロビ勤務は1年ほどだという。下が、ナイロビ市内で進む中国が絡んだ道路建設の現場)