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アフリカをさるく

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体重計の若者

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 タンザニアに来て、あまり心弾むことは少ない。それはダルエスサラームでも同じだ。一つにはナイロビで購入したアフリカ旅行者用ガイドブックで、この国を旅する人々に対し、強盗、窃盗、スリに注意するようにという警告文が掲載されていることにもあるのだが、これまで訪れた国々と異なり、人々になんとなく、単に英語がうまく通じないという言葉以上の壁を感じる時があるからだ。
 20年以上前にこの国を訪れた時の印象はよくは覚えていないのだが、人々の顔にもっと笑顔があったような気がしてならない。確かに町を歩けば、高層ビルもあるし、高級ホテルもそびえたち、それなりの発展の証左は見ることができる。しかし、一歩裏通りに出れば、外壁の文字も読めないほど廃れた通りがあり、かつては高級アパートだったに違いない中層住宅の通りに面した窓一杯に洗濯物がほされている光景が見え、生活感よりも疲弊感を感じてしまうのだ。
 スワヒリ語から英語への通訳を頼んだ地元のベンジャミン氏(39)に尋ねる。この20年間で暮らしは楽になったか。「いや、残念ながら、ノーです。第一、仕事がない人が多い。失業率は私の感覚では50%以上という感じです。私自身、今仕事を探している。仕事があっても、大半は毎月15万タンザニアシリング(約1万円)に届かないのでは。バスに乗っても、自宅から職場まで往復で一日千シリングかかるのに、どうして家族の食費や医療費、教育費などをまかなっていけますか」
 確かにケニアと比べると、タンザニアの苦境は歴然だ。かつては大差なかった米ドルとの交換率で見ると、ケニアでは1ドルが80ケニアシリングなのに対し、ここでは1ドルが1500シリングに達する。18倍ほどの開きができてしまった。
 この背景には、さまざまな要因が指摘できるだろう。ニエレレ政権時代に毛沢東中国を手本にした社会主義を掲げ、農民の大量強制移住政策を推進し、農業生産に大打撃を及ぼしたこと。主要産業だけでなく不動産の国有化にも出て、この国の経済の中枢の一角を担っていたインド系住民の国外脱出を招いたこと。独立以来、現在に至るまで政権政党に変化がなく、政治責任の追及や汚職の一掃が実現していないことなどだ。
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 中心部に近い海に面した通りを歩いていたら、体重計を前にたたずむ若者(19)がいた。何をしているのか尋ねると、通行人の体重を測る商売だという。儲かるの? 「一人から500シリング(30数円)もらうことにしており、一日五千シリングぐらいの上がりかな。でも、この体重計の所有者に毎週1400シリングの借り賃を払わなくちゃならないんだ」と語ってくれた。ベンジャミンが言う。「悪事に走る者がいる一方、こうやってまじめに稼いでいる若者もいるんですよ」
 (写真は上が、ダルエスサラーム市内。高層ビルもあり、遠くからの光景はナイロビとそう変わらない。下が、体重測定を商売にする若者。私も測ってみたら、70・5キロ。靴、衣服の分を引くと69キロ以下か。日本を立つ前は裸で74キロあったからうれしくなった。貧乏旅行を余儀なくされている効果あり?)

バスの旅再び

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 日曜日、再びバスに乗ってアルーシャを立ち、ダルエスサラームに向かった。この後、一旦ナイロビに戻る予定であり、本来なら旅程が逆なのだが、ある事情があって、この順序になった。まだ、タンザニアでは取材らしい取材もしていないが、この国を代表する都市ダルエスサラームでなんとかこなしたいと思っている。
 アルーシャを立ったのは午前7時でダルエスサラーム着は午後5時ごろだったから、今回も長旅になった。ただ、今回は全席指定の左右2人がけの比較的ゆったりした座席だったし、道もずっと舗装されていて、アルーシャ入りしたバスに比べると格段に楽だった。
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 さらに良かったのは隣に座ったのが今年大学を卒業したばかりで、現在、就職活動中の女性だったことだ。女性だからというのではなく、道中、英語でいろいろ話ができたことがなによりうれしかった。アルーシャでは英語が分かる人を探すのに苦労した。彼女によると、ケニアと同様、英国の植民地だったタンザニアの人々がケニアと比べ、英語の習熟度が劣るのは仕方のないことだという。「だって、英語は学校では授業課目の一つに過ぎませんでした。私たちは英語が苦手だったし、教える先生たちも自信がなさそうだったし、英語で説明していても、すぐにスワヒリ語に切り替わりました」と振り返る。
 タンザニアがケニアやさらには同じ東アフリカのウガンダと異なった道を歩むことになったのは、建国の父で初代大統領のジュリウス・ニエレレ氏を抜きにしては語れない。ニエレレ氏は1961年の独立後、主要産業の国有化など社会主義施策に打って出たが、殖民地時代と決別するため、言語的にも英語をできるだけ遠ざけ、東アフリカ固有のスワヒリ語の教育を徹底させた。このことがタンザニア国民と英語との距離が乖離した主因となったことは間違いないようだ。
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 ニエレレ氏はアフリカを代表するカリスマ的指導者であり、1999年に死去しているが、今もタンザニア国民に広く敬愛されている。しかし、独立以来24年に及んだ長期政権でその経済的施策がほぼことごとく失敗したことも事実。
 「ニエレレ氏のことは私たちの世代も尊敬していると思います。暮らしは厳しいですが。今は国連機関に就職できればいいなと願っています。給与もいいし。私は大学で地域再生を専攻したので、国連の仕事でも生かせると思います」と女性は語った。
 ダルエスサラームには20年以上前の特派員時代にも一度訪れたことがある。当時の記憶は恥ずかしながら、ほとんど残っていない。明日から町を歩いてみよう。
 (写真は上から、ダルエスサラームへの道では時折、バオバブの木が車窓から見えた。根っ子が上になったような不思議な木だ。途中でトイレ休憩があった場所。売店やカフェ、レストランがあり、もっといたかった。アルーシャで見かけた3姉妹。黒く描かれた眉に興味をそそられた。真ん中の長女の女性は英語が上手だった)

荷物棚の鶏、ココケッコウ

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 やはり日本の感覚でアフリカを考えていると、とんでもないことになってしまう。ルワンダのルスモからタンザニアのカハマという都市まで着いたその夜、その次の目的地アルーシャまでの道程を考えていた。ガイドブックのコンパクトな地図を眺めながら、九州の地図を連想して、そうだな、福岡から宮崎ぐらいの感じかなという程度のことを頭に描いていた。博多から宮崎までなら高速バスで4時間ぐらいだ。
 長距離バスがカハマを出発したのは午前6時。切符を調べていた車掌にアルーシャには何時ごろ着くだろうと尋ねると、少しの間があって「イレブン(11)」という答えが返ってきた。そうだな、やっぱり、5時間程度のドライブだろうな。その程度なら辛抱できる。
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 とはいかなかった。走れども走れども到着しない。ルワンダは緑豊かな田園光景もありそう退屈はしなかったが、今回はわりと単調な草原、土漠の風景が多かった。日本の長距離バスなら定員があり、ゆったりした座席で居眠りも可能だが、こちらでは停車する回数もおびだだしく、しかもそのつど定員以上の乗客が乗り込んできて、常にすし詰め状態。冷房もそう利いておらず、息苦しい。窓を開けたいところだが、しょっちゅう道路工事区間に入り、強烈な土ぼこりを舞い上げながら疾走するから、とても窓など開けられたものではない。ちなみにここでも道路工事を手がけている国は中国のようで、車体に中国語が書かれた工事車両と盛んにすれ違った。
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 時刻を確認すると、とっくに午前11時は過ぎている。あれれ。まだもう少しかかるのかな。ちょっと小用をしたくなったなと思い始めていると、バスが急停車。見ていると、乗客の三分の一ぐらいが木々の中に分け入っていく。あ、みんな同じだ。私も急いで後を追いかけ、ほっと一息をつく。女性はさすがに男より深く分け入っているようだ。
 座席に戻り、再び出発。仮設道路を走っているから、揺れも激しい。そのうち、私のすぐ隣の男が頭をかがめ吐き始めた。吐しゃ物が足元に流れてくる。おい、やめてくれよ!
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 ふと、視線を上げると、なんと荷物棚の上に死んだ鶏が置かれている。何でもありだなと思っていると、鶏がじろっと目を開けた。なんだ、生きているのか! 鶏は声を上げることもなく、車体の揺れに身をまかせ、気持ち良さそうに頭を上下させている。かなり「旅慣れた」鶏のようだ。しばらくは鶏を観察して退屈さをまぎらす。
 結局、アルーシャには午後5時ごろ到着。車掌が意味したのは、11時間かかるということだったのだ。考えてみれば、四国の1・5倍ほどのルワンダから日本の2・5倍のタンザニアに来たのだから、それぐらいの差異はあって当然。こんなに長く、休憩時間もなく、すし詰めのバスに乗ったのは初めて。さすがに疲れた。でも、国内線といえども飛行機に乗る余裕のないアフリカの一般の人にはこういう旅が普通なのだろうといい勉強になった。
 (写真は上から、途中で大きな奇岩の集まりがいくつか車窓から見えた。印象的にはこんな感じの土漠が多かった。バスが停留所に着くと物売りの人たちが車窓に群がった。気持ち良さそうに眠る荷物棚の鶏。一番いい席はここだったかもしれない)

国境の町

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 火曜日昼にキガリを立ち、東隣のタンザニアを目指した。これまでは飛行機を利用しての旅だったので、一度ぐらいは陸路でのんびり動きたいと考え、長距離バスに乗り、まずはタンザニアとの国境の町ルスモに。途中、倒木のため、しばし立ち往生する場面もあったが、まずまず快適な4時間ほどの旅が楽しめた。
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 ただ、ルスモは今思い返しても不可思議な町だった。国境の町であれば、交易での賑わいを連想するが、そうした風情は全くなし。第一、町は電気が通じておらず、夕方になると、発電機で明かりをともしていた。バスを降りたのが発電機の稼動する直前の夕暮れだったこともあり、うら寂れた印象を一層強くしていた。この日のタンザニア入りは無理で、地元の人に尋ねておそらくそこ一軒であろうと見られるコテージ風のゲストハウスに泊まることにした。もう一回泊まれと言われても固辞したくなるような宿だった。宿帳を見ると、1日に何人かは泊まり客があるようだ。
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 国境となっている橋を手短に見学してゲストハウスに戻ろうとしたら、長距離トラックの運転手らしき人たちがトラックのそばで夕飯の準備をしていた。おや、うまそうですね、と声をかけると、一緒に食べないかと誘ってくれた。喜んで彼らと歓談。六人全員タンザニア人で、二人一組で三台のトラックを運転しており、この夜はトラックの中で寝て、翌朝キガリに向け、出発するという。イスラム教徒の務めであるラマダン(断食月)を守っており、日が沈もうとしているこれからようやく食事という次第だ。
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 甘いお茶とうまいスパゲッティをいただき、彼らと談笑していると、警察官が初老の男性と一緒にやって来た。どうも私に話があるみたいだ。どこから来たのか、仕事は何か、ルワンダの印象はどうだったか、などと色々質問してくる。興を殺がれた感じになったので、親切な運転手さんたちに「食事はまだこれから本番だよ」と引き止められたものの、お礼を言って別れを告げ、ゲストハウスに。ゲストハウスは食堂とバーが併設してあり、薄暗い食堂をのぞいてみる。数人の泊り客らしい人たちがひっそり食事していた。テーブルにつき、何気なく、壁を見ていると、ネズミがすっと走り、壁にできた穴に入っていく。ウエイトレスらしき女の子たちに話しかけてみるが、悲しくなるほど英語が通じず、会話がなりたたない。
 食堂の隣のバーからは大音量の音楽が流れてきて、時折、地元の若者の絶叫が聞こえる。「捨て置かれた」ような国境の町に暮らすやるせなさを叫んでいるかのように聞こえた。
 (写真は上から、ルスモへの途中、道に倒木が。地元の住民が倒木をなたで切断して、どうにか通れるようになった。ルスモへの途中、日本の水田かと見間違うような稲作の田んぼがかなり長時間見られた。タンザニアのトラック運転手さんがスパゲッティの夕飯を準備。なかなか美味だった。ルスモのゲストハウスから見えた光景)

千の微笑みの国

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 キガリ滞在中に先月の大統領選で再選を果たしたカガメ大統領の就任式典があることを知ったので、それを見て、次の訪問国タンザニアに立つことにした。その就任式典は本日6日朝、キガリ市内のアマホロ競技場で執り行われた。
 午前9時ごろ中心部のバス停まで歩き、式典会場に向かう路線バスに乗る。料金180ルワンダフラン。周辺はすでに人だかりで競技場内に入ることはできない。競技場の外にたたずんで見学することにする。競技場の外壁に大きなテレビ画面が掲げられており、拡声器もあって、少なくとも式典の様子は外でも分かるようになっている。このあたりは先日のケニアと大違いだ。
 すでに書いたかどうか、ルワンダはベルギーの植民地だったことから、公用語はフランス語とルワンダ語。しかし、近年では英語を公用語に加え、国をあげて英語の習得を目指していると聞く。カガメ大統領も二期目の就任スピーチの大半はフランス語ではなく英語で行った。ただ、英語でのスピーチになった途端、私の周囲にいた人々は興味を失ったかのように世間話をし始めた。
 この日も歩く先々で人々の熱い視線を感じた。あまりにも凝視されるものだから、冗談まじりに “I’m an only mzungu here today.”(私は今日ここにいるただ一人の白人だ)と少し大きな声で言ったら、周りにいた人たちがどっと笑った。ムズングはスワヒリ語で「白人」の意味。もちろん、私は白人ではないが、彼らにとって日本人はムズングだ。ルワンダの人々は結構スワヒリ語が分かるので、私の軽口も通じたのだ。
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 もう一つこんなことも。一人の小柄な若者が突然私の前にやってきて歌を歌い、その後でお金をせびる一幕があった。私は彼にお金をあげる筋も気もないから、「なんで私が君にお金をあげなければならないのだ。君は突然、私の前にやってきて勝手に歌ったのではないか」と一蹴しようとしたが、なかなかしつこい。すると、別の青年がその若者の肩に手をかけ、何か言った。私の推測では「やめないか。外国からの来訪者に失礼ではないか」という趣旨のことではなかったか。くだんの若者はすっと立ち去った。
 つつがなく式典が終わり、我々は大統領を始め、VIPの車列が切れるまで競技場の外門の手前で1時間も待たされたが、みな、実に行儀良く待っていた。はて、アフリカの他の都市ならどうだろうか。怒号の一つや二つ飛ぶのでは? 英語の law-abiding(法律をよく守る)人々という表現が私の頭には浮かんでいた。
 この国では多くの好奇心一杯の笑顔に歓待された。競技場で知り合ったスーダン南部出身の男性もしきりに語っていた。「ここほど居心地の良い国はない」と。心残りがあるとすれば、時間はともかくお金の余裕がないので、北部にある、あの有名な、なぜか心引かれるマウンテンゴリラの生息地にまで足を伸ばせなかったことだ。
 (写真は上が、競技場の外で式典を見守る人々。それにしてもひどい写真ですみません。下が、式典の会場内には入れなくとも笑顔で式典を楽しむ若者たち)

嗚呼ゴルフ

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 今回の旅では運動不足になりがちなので、機会さえあれば、旅先でゴルフしようと考え、何とか実践している。ラゴス、ナイロビでそれぞれ1回プレーした。
 キガリにもゴルフ場があることはガイドブックで承知していた。土曜日朝、そのゴルフ場に何回か電話をかけるが、全然通じない。こうなったら、行くしかない。断られたら帰ればいいだけのこと。タクシーをつかまえ、ゴルフ場に。20分ほど走ったところにあった。
 マネージャーの人がいてOKとの返事。ラゴス、ナイロビの経験から以下のことを理解していた。靴は運動靴なら大丈夫。クラブもレンタルOK。週末であろうと空いていれば1人でもプレー可。日本では考えられない安さでプレーできる。キガリゴルフ場ではキャディーフィー、レンタル料を含めて日本円で3,500円ぐらいの料金だった。
 さて、プレー開始。本当は地元の人のグループに入れてもらい一緒に楽しみたいのだが、この日はあいにく一人でのプレー。周囲の人たちがじっと見ている。お願い! 最初だけは真っ直ぐ飛んで! キガリはこのところ雨がないのか、グリーンはぱさぱさに乾いて、普通ならナイスショットでグリーン上に残っているだろうボールが全部バンカーやラフにこぼれる。(この辺り、分かっていただける方には分かっていただけるものと思います)
 住宅街に密接しているため、フェアウエイでは子供たちがロストボールを拾って買えと言ってくる。池のような溝のあるところでは私が溝に入れるのを待っている。入れてなどなるものか。しっかり打っただよ。ボールは少年の待つ溝に。そのつど小銭を渡して買い戻す。
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 実はこの日は微熱をおしてのプレーだったので、18ホール終えた時は少しへとへとだった。真っ直ぐ帰るのも味気ないので、18番グリーンを臨むテラスでビールを流し込んでいると、隣に座ったルワンダ人の若い女性が「どうでしたか。楽しめましたか?」と声をかけてきた。「いや、ここは初めてだから、難しかったですね」と応じた。「あなたもやるのですか?」「はい」「ハンデはどれぐらいですか?」「まだ、始めて間もないからハンデは12です」「・・・」
 打ちひしがれて帰ろうとしたら、「今日はコンペがあったので、今に料理が出ますよ」。「いや、僕はここのメンバーでもないし、コンペの参加者でもないし」と遠慮すると、「構いませんよ。誰も気にしません」と言う。それじゃ、お言葉に甘えましょと、ほどなく、ビュッフェの料理をたらふくいただいて帰途についた。
 日曜の朝、この項をパソコンに打ち込んでいる今、心配していた微熱は幸いうせてしまったようだ。良かった。
 (写真は上が、キガリ市内にある唯一のゴルフ場。ゴルフ場はどこも美しい。私がボールを打ち込んだ池のような溝。下が、ティーを買わされた10歳の少年。写真を撮ろうとすると私のドライバーをスィング。私より筋がいいかも)

協力隊点描

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 「子供たちに歌を歌ってというと恥ずかしがらないで歌ってくれる。掃除を手伝ってといえば、実によく手伝ってくれる。日本だとこうはいきませんよね。子供たちとはルワンダ語で話すのですが、どうも大人よりも子供たちの方がよく理解してくれます」と内藤久美子さんは語る。
 内藤さんはルワンダで勤務するJICA(国際協力機構)の青年海外協力隊員。ルワンダ国内で現在活動している34人の協力隊員の一人だ。キガリ市内にあるカトリック系NGOが運営するストリートチルドレンの保護施設「フィデスコ基金」で暮らす子供たちの世話をしている。福岡県宗像市出身で熊本大学大学院で児童福祉を専攻した。
 「今は20人ぐらいの子供たちが生活しています。親を探し出し、親元に帰したり、それが不可能ならば、親類に預けるとか、里親を探すとかしています。ただ、ここでの暮らしが良くて、家に帰りたがらない子供たちもいます」。施設内を見学させてもらった。寝泊りするところは二段ベッド。個人用の鍵のついたロッカーもある。訪れた時はお昼まえで子供たちは下の広場でサッカーに興じていた。
 ルワンダでジェノサイドと関係のないものを探すのは容易ではないかもしれない。この施設自体、1992年にストリートチルドレンに胸を痛めたルワンダ人の夫妻が開設したものだったが、夫妻はジェノサイド発生直後に殺害され、その後、上記のNGOなどの支援で復活した。
 キガリでは学校は午前、午後の二交代制になっている。一クラス60人なので、勉強の後れたここの子供たちがついていくのは大変だ。それで今では、施設内で内藤さんら職員が毎日1時間、算数や英語を中心に教えてもいる。
 とはいえ、最初はカルチャーショックもあったという。「ここの子は曇りのない目で嘘がつけるんです。日本での経験から言うと、そんな子は1人ぐらいだったかしら。でも、1年数か月経ったころ、しっかりと分かるようになってきました。要するに、信頼関係のあるなし、それは日本と同じなんですね」。
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 子供たちのランチをのぞいた。お昼はカウンガと呼ばれる、とうもろこしの粉を湯がいて練ったもの。スープと一緒に食べる。ケニアではウガリと呼ばれる定番の食事だ。カウンガをつまんで食してみた。塩味が利いていてうまい。あれ、ウガリはこんなにうまかったかな? 食事風景の写真を撮ると、僕も僕もとせがんでくる。人懐っこい笑顔だ。撮った写真をあげるすべがないのが残念だった。
 内藤さんの勤務はあと4か月ほど。「現職派遣」で協力隊員になったので、来年初めには元の職場の静岡県内の児童相談所に復帰する。
 (写真は上が、広場でサッカー遊びを終えた子供たちと触れ合う内藤さん。下が、ランチを食べる子供たち。この後も何枚も撮るのをせがまれた)

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