アフリカをさるく
母乳が一番
- 2010-09-27 (Mon)
- 総合
携帯電話に付設のFMのBBC放送を起き抜けに聞いていたら、今やケニアでは若い母親が赤ん坊に母乳を与えない傾向が強まってきているという話題を報じていた。出産後もスタイルを維持したいとの思いが背景にあるとか。母乳を与えると、「お乳が垂れ下がる、母乳の臭いが体にまとわりつく、太ってしまうのでは」という女性の声を伝えていた。
昔はこんな話題は聞いたことがないと興味を覚え、放送に出てきた女医を訪ねた。
アリス・ンドング医師。肥満と心臓血管外科が専門の医師だが、その延長線上で出産直後の母親の授乳問題も扱っている。母乳で乳児を育てることを英語で”breastfeeding”という。ンドング医師はこの「ブレストフィーディング」がアフリカ諸国の中でもケニアは最低レベルにあると指摘。隣国のブルンジやルワンダでは母乳で育てる母親の割合が70%台であるのに対し、ケニヤはわずか13%という。
「私が残念に思うのは、母乳で赤ん坊を育てていると太ってくる、という全く間違った情報を彼女たちが抱いていることです。実際には母乳を与えることでエネルギーを費やしますから、スリムな体を維持できるのです。赤ん坊にとっても母乳は最高の食べ物です。肥満の問題は、赤ちゃんが生まれた喜びから親戚一同が母親にお祝いの食べ物をいろいろプレゼントするから派生するだけのことです」
「ずっと昔は結婚に際し、太った女性の方がやせた女性より花婿からもらう贈り物が多かった時代もありました。太っていることが強さ、元気の証として見なされたからです。今は欧米の芸能界のニュースに触発されて、スリムであることを欲する女性が増え、ダイエットに励んでいます。でも、私は食事実態のフィールド調査や広報活動などでよくみんなに言うんです。ダイエットは解決策ではない。脂っこい食べ物を避け、体にいい食事をして、定期的な運動を心がけていさえすれば、それで十分。運動をする時間を作れないなら、そのうち病気になる時間を準備しておいた方がいいですよと。しかも、高い医療費を伴って」
ケニアの若い女性がファッションを含め、格段に垢抜けした感じがするのは私のような20年ぶりに再訪した者には当然のことかもしれない。新聞を読んでいても、ファッションやセクシーなスタイル維持に関する特集記事があふれている。おや、こんなところにもスポーツジムがあるとのぞいて見れば、彼女たちが脇目も振らず、汗を流している。
余談になるが、ンドング医師に話を聞いた直後、市民の憩いの場のウフルパークを歩いていたら、芝生に座り、乳児に母乳を与えている母親に出会った。あ、ブレストフィーディングだ。しかも美人さんだ。写真を撮らせてもらおう。彼女はにこやかに微笑んではくれたが、さすがに写真は撮らせてもらえなかった。
(写真は上から、母乳の大切さを説くンドング医師。彼女のオフィスがあるビル。吹き抜けに面した側がガラス張りのエレベーターが4基走るモダンな8階建てのビルだった。私たちは母乳で育てるわと話した女性たち=ナイロビ市内の教会で)
スワヒリ時間
- 2010-09-24 (Fri)
- 総合
ナイロビで一息ついているので、他愛もない話を一つ。ルワンダからタンザニアへの国境を越える時のことだ。
夕闇が迫るころに到着した国境の町で寂れた宿に泊まったことはすでに記した。地元の人の言葉に従い、翌日出るというタンザニア行きのバスのチケットを購入したまでは良かった。バスは何時に出るのかと尋ねると、皆口をそろえて「午前4時」と言う。国境警備の警察官はわざわざ私のところにやってきて、「あなたはパスポート審査やビザの問題もあるから午前2時には来ていた方がいい」とまで忠告してくれる。
私は前夜はキガリのホテルで、ビザカードの機器が私のカードを受け付けないことから東京のカード会社とのやり取りなどでほとんど寝ていなかった。しかし、皆がそう言うので、ろくろく寝ることも出来ず、午前3時にはバス停とおぼしきところにキャリーケースを引っ張って行った。ただでさえ電気の通じてない地である。辺りは真っ暗。「おい、本当にこの時間かよ」と口に出さずにはいられなかった。トラックの横の車道で一人の兵士が軍服のまま寝込んでいる。よくこんなところで寝ることができるな。ホタルが一匹目の前を飛んでいった。
暗澹たる気持ちで突っ立っていると、前日の警察官が懐中電灯でこちらの顔を照らしながら近づいて来て、「なぜこんなに早く来たのか」と笑いながらのたまうではないか。「あんたが来いと言ったんだろ」と多少気色ばんで答えると、「バスが出発するのは午前10時だ。第一、こんな夜中(未明)にパスポート審査など誰がするんだ」と言うではないか。「あたいもそう思ったよ!」と叫びたかったが、ぐっと我慢して宿に引き返し、簡素なベッドに崩れるように倒れこんだ。
さて翌日午前8時、三々五々旅の人が集まり始め、国境の橋のたもとにある、初めてそこにあることに気づいた、イミグレーションのオフィスに向かって歩いている。それからはまあ、スムーズに事が進んで、バスの来るのを他の乗客と一緒に茶店で待った。「あれは何だったのだ?」と頭の中は?が一杯のまま、ナイロビで購入したアフリカのガイドブックを何気なく見ていると、おおマイゴッド、タンザニアでは「スワヒリ時間」というのがあって、日の出の午前6時から一日の時間を刻む。従って、午前8時は午前2時、午前10時は午前4時と呼ぶ習慣があるから、時間を聞いた場合は「スワヒリ時間」かどうか気をつけるべしと「警告」してあるではないか。あたしゃそんなこと初めて聞いたわ!
ダルエスサラームへの車中で隣に座った女性にこの話をすると、「そうなんです。私も友達と約束する時はスワヒリ時間がどうか確かめることがありますよ」と笑いながら話してくれた。スワヒリ語から英語への「翻訳」がなせる業か。
まあ、今となっては、私も笑える話だが・・・。
(写真は上が、問題のバスのチケット。出発時刻はなぜか記されていない。下が、ルスモの国境地帯。雨上がりのため緑が一層濃く美しく見えた)
携帯盗難
- 2010-09-22 (Wed)
- 総合
ルワンダ、タンザニアの旅を終えて、ナイロビの友人宅に戻ってきた。やはりホテル住まいは疲れる。今は色々な意味でほっと一息ついているところである。
ルワンダは予想以上の治安の良さに歓待された。しかし、これは街角で警戒する兵士、警察の存在に負うところもあると思える。二期目(七年)の政権運営を託されたカガメ大統領の手腕に期待したい。宿泊したホテルのオーナーの親切が忘れがたい。宿泊費をカードで支払おうとしたが、カードを受け付ける機器が受け付けず、現金での支払いを余儀なくされた。ところが、私は懐がずっと不如意で米ドルはこの時点で800ドルしか残っていなかった。宿泊費は丁度800ドル。米ドルが底をつけば、タンザニアにまで足を運ぶことは到底不可能。問題のカードはATMでのキャッシングもできない状態だった。
私の窮状を知ったオーナーは「半額だけ払ってもらえますか。残りはナイロビに戻ってから振り込むなりしてください」と寛大に対応してくれた。私は彼に抱きついて感謝したい気持ちだった。「これで何とかタンザニアに行ける」。タンザニアで長距離バスを何度も利用したのは、車窓からでも人々の暮らしを見たいという気持ちがあったからだが、一番金のかからない移動手段だったからでもある。
そのタンザニアでは苦い経験をした。アルーシャでの出来事だ。ここは国立公園などがあり、こういう書き方はしたくないのだが、外国からの観光客を狙った知能犯がばっこする地でもある。警戒していたはずの私も被害に遭った。ホテルの部屋に招きいれたガイドの中年の男が「それではまた明日」と立ち去った後、テレビの横に置いていた日本の携帯電話がなくなっていることに気づいたが、後の祭り。男は約束した翌日の時間に姿を見せなかった。男が徘徊しそうな場所を後日探したが、二度と出会うことはなかった。言葉巧みに近づいてきた男を最初は相手にしなかったのだが、暮らしの厳しさ、犯罪の多さを嘆く男の言葉に耳を傾けているうち、話を聞いてみたくなったのがいけなかった。
それでも、ダルエスサラームではいい出会いがあった。政府系の新聞社に勤めるベテラン記者のジャファル氏とは毎夜のように語り合った。「我々は同じ新聞記者。見たいところ、行きたいところ、何でも言ってくれ。僕が車で案内するから」と実に親切に付き合ってくれた。こういう出会いがあるから、アフリカの旅はやめられない。
(私と個人的に関わりのある方々へ。上記の事情で日本で使っていた私の携帯は盗難に遭い、今後、電話や携帯メールなど連絡が一切不可能になったことをご了解ください。ここではナイジェリアで購入した携帯を使っていますが、帰国後は新しい番号の携帯電話を購入することになるかと思います)
(写真は上が、ダルエスサラームの中心部の夜の大通りの車道の間に座り、物乞いをする女性たち。写真では数人だが、実際には20人近くの女性が座っていた。それとは好対照のホテル併設のカジノ。この夜はディーラーがイスラム教の行事に即した衣装を特別に着ていた。客を撮らなければ写真OKとのことで、カジノで写真撮影したのは初めて)
インド系の人々
- 2010-09-21 (Tue)
- 総合
東アフリカには多くのインド系の人々が住んでいる。インド洋をはさんでインドと東アフリカは昔から深い交流があり、14世紀ごろには帆船でモンスーンを利用し行き来していたようだ。19世紀末になると、東アフリカを支配していた英国がケニアウガンダ鉄道を建設するため、インドから大量の労働者を入れ、現在のインド系社会の礎を築いた。
タンザニアでインド系ビジネスマンの代表的存在の一人である長老に話を聞いた。アンディ・チャンデ氏。チャンデ氏は建国の父ニエレレ氏とも親しく付き合い、それでも国有化の荒波をかぶり、生き延びてきた。その生涯はタンザニアの歴史そのものとも言える。
1922年に父親がインド西部から当時はまだタンガニーカと呼ばれていたタンザニアに移住。28年に生まれたチャンデ氏は父親の後を継ぎ、この地方の主食であるとうもろこしを製粉するビジネスに従事し、成功を収める。独立を経てニエレレ政権時代の67年、国有化政策でそれまで築き上げたビジネスが足元から消え去る不幸に直面。しかし、チャンデ氏は政府の求めに応じて国有化された製粉事業の指揮を執り、その他、数々の国の事業の運営をまかされる。そうした事業から身を引いた今も各界の信頼を勝ち得ている。2003年には旧宗主国の英国のエリザベス女王から両国間関係及び世界での幅広い人道的活動の功績を認められ、栄えあるナイトの爵位を授与されている。
チャンデ氏は「ニエレレ氏はその経済的手腕を批判する向きもあるが、理念は間違っていなかった。この国を一つの国にまとめあげた手腕は評価し過ぎることはないと思う」と振り返った。タンザニアの将来については「今は正しい方向に向かっていると思う。ただ、国民の間にある貧富の差はほっておくと危機的状況にある」とも憂えた。
ケニアでもそうだが、インド系の人々と黒人の地元民との関係はしっくりしない場合が多い。人口の少ないインド系が経済を牛耳り、圧倒的多数派の黒人の多くが今なお貧困にあえいでいることに起因する。この点を質問するとさすがに歯切れが悪かった。しかし、チャンデ氏のタンザニアへの思いは深い。「先祖の地インドにも、子供たちや親類の多くが住む英国にも愛着はあるが、私はタンザニア人。私はここで最後の時を迎えたい」
チャンデ氏は82歳の今も会長を務めるボトル製造会社に毎日出勤する。目の不自由な子供たちのために自ら創立した学校を始め、医科大学の学長など、今も精力的に行動している。「体が心の思うままに動いてくれない」と言うが、会長室の壁には敬愛する父親の遺訓が大切に飾られていた。”Hard work is good for health. Why not improve yours?”(仕事が健康を作る。さあ、仕事しよう)
(写真は上から、サー・アンディ=爵位の人はミスター・チャンデとは呼ばない=。その目力はとても82歳とは思えない。ダルエスサラームのヒンズー教の寺院で年に一度のフェスティバルに遭遇。誰でも来訪者には食事を振る舞っていた)
英字新聞、所変われば・・・
- 2010-09-19 (Sun)
- 総合
旅先でやはり真っ先に探すのは英字新聞だ。英語圏の国であれば当然、英字新聞が発行されている。タンザニアでは政府系の「デイリー・ニュース」紙や、ケニアのメディアグループが発行している「ザ・シティズン」紙など三つの新聞を目にした。
シティズン紙の編集局を訪ねた。紙面刷新の真っ最中で、編集局長の机の上はレイアウトの下書きが散乱していた。「明日が新紙面となる日で、悪いけど、時間がない。編集長なら少しは相手できるかもしれません」と丁重に言われたので、恐縮しながら、編集長を探す。いたいた。彼もパソコンの端末に向かって忙しそうだ。
ピーター・ニャンジェ編集長。「実は今日が私たちの新聞が誕生して6年目の誕生日なんです。それで、明日から紙面を一新します。明日を楽しみにしてください」とニャンジェ氏は語り、しばし歓談に応じてくれた。「資本はケニアですが、社員の大半はタンザニア人です。政府系紙と違い、我々はまだ若い新聞ですが、公正正確な報道で読者の支持を広げています。質量ともに充実した新紙面でますます評価が高まると確信しています」
翌日。街頭の新聞売り場でシティズン紙を買い求めた。500シリング。値段は前日と変わらないが、28頁から40頁に増えている。一面は紙面の案内を題字の左端に縦長にまとめてすっきりした印象だ。あれ、どこかで同じようなレイアウトを見たことがあるな。それもそのはず。かつて私自身が勤務していた「デイリー・ヨミウリ」の一面とよく似ている。米国人のデザイナーの指導を仰ぎ、新紙面のデザインを構築したという。
シティズン紙はいわゆるタブロイド版の新聞。新紙面でブロードシートと呼ばれる普通サイズの新聞のデイリー・ニュースとの差異が一層際立った感じだ。
中面を開いて読んでいたら、発行6周年の記念紙面とあって、編集局長の読者への挨拶のほか、各界著名人の同紙に対する期待の声、編集長、主要デスクの抱負が掲載されていた。圧巻は記者、カメラマンの全スタッフ51人が顔写真付きで紹介されていたことだ。日本の新聞ではさすがにここまではしないだろう。読者が同紙を身近に感じることは間違いないだろうが、うーん、所変われば・・・かな、などと考え込んでしまった。
デイリー・ニュース紙ではミクンブワ・アリィ編集局長が「まだ、ネットとかデジタル情報に脅かされる状況にはありませんが、覚悟はしています。ただ、それより、広告収入が落ち込んでおり、今はこちらの方が頭が痛い」と語っていた。同紙では収入の7割から8割が広告収入だという。
(写真は上から、ダルエスサラーム市内の新聞売り場。「ザ・シティズン」紙。左が旧紙面、右が新紙面の一面。中面では同紙の全デスク、スタッフを顔写真付きで紹介していた。「ザ・シティズンのドリームチーム」とうたっている。立派!)
「心の豊かさ」
- 2010-09-17 (Fri)
- 総合
タンザニアを代表するダルエスサラーム大学は想像通り、落ち着いた感じの広大なキャンパスにあった。案内してくれる人がいなければどこを歩いていいものか迷ったことだろう。かねてから政治学関係の先生に会って話を聞いてみたいと願っていた。しかし、大学は今、11月の新学年を控え、休みに入っているとか。無理かな。
そうしたら、幸運にも政治学の学部長が学部長室にいた。来客が絶えず多忙なことは見てとれたが、会議の予定時間を「無視」して愛想よく招き入れてくれた。
ベンソン・バナ博士。私が冒頭にタンザニアがケニアと比べ、経済的発展の度合いが低いように感じると印象を述べると、博士は「経済的指標ではそうでしょう。でも、社会的指標では私たちの方が豊かだと思いますよ」と穏やかに語り始めた。次第にボルテージが上がる。「我々タンザニア人は独立以来、大切にしてきたものが三つあります。平和(peace)と安全(security.)、それに国としてのまとまり(unity)です。我々は周辺国で何が起きたかを知っています。平和が損なわれるとどうなるのかを知っています。ここでは国内どこに行っても、出身部族がどうのこうのといったことは全然問題になりません。あるのは共通の言語、スワヒリ語を話すタンザニア人であるということです」
「我々の国は日本とは異なります。政治指導者に説明責任を求めるには市民としての成熟が必要です。我々はまだそのレベルに達していません。それに確かに、ニエレレ政権が独立後に推進した社会主義路線は失敗しましたが、それは当時は国民に独立の果実を味合わせるという必要があったことなどやむを得なかった側面もあります」
博士はタンザニアがアフリカ解放の歴史の中で果たしてきた役割も指摘した。「ニエレレは1961年に独立を果たした時、アフリカの同胞や他の世界の人々が自由を手にしない限り、タンザニア一国が自由を獲得しても意味がないと訴えました」。確かに、タンザニアはアパルトヘイト(人種隔離政策)時代の南アフリカを始め、多くの国の開放闘争を先頭に立って支援してきた国でもある。「経済的にはタンザニアはまだ貧しい国でしょう。でも、心の中は我々ほど豊かな国はないと思いますよ」。バナ博士は嬉しそうに締めくくった。
この項の書き出しで述べた「案内人」は、ダルエスサラームの日本大使館に長く勤め、間もなく帰国される運びの木村映子さん。関西出身で早稲田大を卒業後、ダルエスサラーム大学大学院でスワヒリ語を学んだ木村さんはダルエス在留30年近い経験があり、バナ博士とも旧知の間柄。博士のほかにも、複数の英字新聞の編集幹部やインド系財界人とかいった人々と語る貴重な機会を設けていただいた。どこでもアポなしでの訪問で、「久しぶりね。ちょっと日本からの来客と話してあげて」という感じだった。どこの国であれ、こういう「財産」を持つ人はそうはいないだろう。
(写真は上から、学校帰りの小学生。私の質問に片言の英語で一生懸命答えてくれた。大学の学食で食べたランチ。これで1000シリング=約65円=。汁がかけられたご飯の味が絶妙だった。カメラを向けると、急ぎメガネをかけようとしたバナ博士)
油断大敵
- 2010-09-15 (Wed)
- 総合
ダルエスサラームを歩いていて時に気になるのは、人々の好奇心の視線だけでなく、なんとなく、いやな感じの視線を感じることだ。そういう時は十分注意する。すれ違った男が突然歩を止めたのが分かったら、一度立ち止まり、通り沿いに店を出している新聞売りや小商いの店の品々を見る振りなどして、様子をうかがう。男が明らかに自分のことを観察していることが明らかになった時は、できるだけ早くその場から安全に立ち去る方策を考えなくてはならない。
残念ながら、今日、そういう場面に出くわした。すれ違った男が私の後をつけ始め、しかも近くに彼の仲間がいる雰囲気を感じた。まずい。どちらかに後ろから羽交い絞めにされ、ズボンの両ポケットに入れている携帯電話、デジタルカメラを盗られでもしたら、これからの取材に大打撃だ。とっさの犯行では周囲の人々の助けはとても期待できない。
私は通りの中央分離帯にさっと出て、タクシーを大きな声で呼び止め、すばやく乗り込んだ。もちろん、私の勘違いの可能性はある。ただ、今回のようなことは20年以上前になるが、民主化される前の南アフリカでも何回か経験している。私は今回もぐずぐずしていたら、物取りが目的の男たちの餌食になっていたことはほぼ間違いないと思っている。
前回の項でも書いたが、ダルエスサラームはどうも私が昔知っていたダルエスサラームとは雰囲気が異なるような気がしてならない。ホテルに戻り、居合わせたデューティーマネジャーに先ほどの出来事を告げると、彼は「何もなくて良かったですね。これからも気をつけてください」と実に淡々と語った。
諸悪の根源は貧困であることは言うまでもない。仕事がなく、食べるものにも事欠く暮らしをしていれば、人様の物に目がいく、それが金を持っていそうな外国からの旅行者であればなおさらである。
海外旅行では、特に貧富の差の激しい途上国を旅する時は、自分の身は自分で守るしかない。経済的余裕があれば、現地の人に一緒に行動してもらうとかの自衛策を講じるのが賢明だ。もちろん、物取りが暗躍するような場所に行かなければ万全だが、私の場合そういうわけにもいかないから悩ましい。ご参考までに。
(写真は上が、ホテルの部屋からダルエスサラーム湾が見える。こんな景色を眺めていると、いやなことも忘れさせる。下が、魚市場で客を待つ男の人たち。おい、こんなところ撮ってどうするんだよと言いたそうな顔で写真を撮らせてくれた)