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アフリカをさるく

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ワゾービア

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 ナイジェリアの人々が話す英語の聞き取りに苦労している。発音が個性的でしかも早口。いやはや、何度も"Come again?"(もう一度言って)と尋ね返している。ホテルの食堂でテレビのドラマを何となく眺めていて、そのドラマが英語放送だと気づくのに15分ほどかかったことがあるぐらいだ。
 ここの人々が普段に話している英語は、一般にピジンイングリッシュ(Pidgin English)と呼ばれる。これがなかなか手強い。ピジンイングリッシュだけで放送しているFM局がある。ところどころ英語の単語は聞き取ることができるのだが、全体の内容がよくつかめない。油断すると何を言っているのかわけが分からなくなる。
 そのFM放送局はビクトリア島にあるワゾービア・ラジオ局。ワゾービアはWazobiaと書く。この国の三大言語(部族)で英語のcomeを意味するハウサのワ、ヨルバのゾー、イボのビアを組み合わせた造語である。この放送局では自分たちの普段話している英語は単なるピジンイングリッシュではなく、立派な一つの言語であるとの認識に立つ。だから、ワゾービアはラジオ局の名前だけでなく、言語名でもある。
 ワゾービア局幹部のアリジェ・アデオラ氏によると、ラゴスを舞台に放送を開始したのは2007年11月から。系列のFM放送局がラゴスの知識階層をターゲットにしており、ワゾービア局は一般大衆へのサービスを念頭に置いて開設されたという。
 「英国だって、ロンドンの下町で話されているコックニーなど、さまざまな英語がある。世界中で多くの独特の英語が話されている。ナイジェリアの英語もそういう英語の一つとして考えて欲しい」とアデオラ氏は語った。
 音楽番組やトークイン番組のおしゃべりからニュースまですべてワゾービアで放送される。ニュースで言えば、「先週金曜日の首都アブジャで12人が死亡した爆弾テロで警察が容疑者2人を逮捕した」というニュースは、ワゾービアでは”Police don arrest two wey do de bombing for Abuja on Friday kill like 12 people.”となる。「ジョナサン大統領は亡くなった人々の死は無駄にはしない、なぜなら犯罪者を必ず訴追し、ナイジェリアをより良い国にするからだと語った」は”Presido Jonathan talk put say all de people wey die for de bombing no go die for nothing because e go turn to shame to bad people as Naija to turn to beta place for us.”となる。犯罪者がbad peopleと表現されているのが素朴で明快だ。過去形はdon、未来形はgoで示す。「彼女はそう言うだろう」は”She go say that.”となる。上記の文のlikeはaround、weyはwhoのようだ。whatはwetinとなる。
 ホテルのスタッフに毎朝”How you dey?”(How are you?)とか”Wetin dey worry you?” (What’s wong with you?)とか呼びかけると、彼らは「おお、あなたはもうナイジェリア人だ」と爆笑してくれる。いや、全然そうじゃないよ、と心中ではつぶやいている。
 (写真は、ワゾービア・ラジオ局の放送スタジオで。聴取者が電話で参加するトークイン番組のパーソナリティー二人。生放送中、音楽が流れている間にお邪魔したが、番組の会話とは異なり、二人とも完璧な英語を話していた)

水上生活

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 20年以上前からナイジェリアを訪れるたびに、行ってみたいと思っていた所があった。ラゴスの湾内の海上で暮らす人々の地区だ。ラゴスはメインランドと呼ばれる本土のほか、ビクトリア島、ラゴス島、イコイ島の三島から成っている。メインランドからイコイ島に向け、アフリカ一と言われる11.8キロの長大な橋を車で走っていると、やがて、右手に海面に建てられた無数の家々が見えてくる。
 ここで利用しているタクシードライバーのトゥンデ氏は多少土地勘があるとのことで、彼を信じて上記の地区に案内してもらった。橋を渡り終えたところで、車を降り、ガードレールをまたいで、住宅街のようなところに案内された。ここはまだ地面がしっかりとある。上半身裸の屈強な若者たちがサッカーに興じている。
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 数人の地元住民に紹介され、材木置き場のようなところを少し歩くと、水辺に着いた。材木をくり貫いたようなボートが浮かんでおり、これに乗れという。少年が棒でかじをとって奥に入っていく。そう丈夫そうには見えない木材を柱とした家々が間近に見えてきて、ボートはその間を巧みにすり抜けていく。水は真っ黒だ。少し鼻につく臭いがする。水面にはさまざまなごみ、廃物が漂っている。
 家々を回って商いをしているボートとすれ違う。若い女性が一人でこいでいた。ボートの中にはラゴスの通りの露天で売っているお菓子や食べ物がきちんと並べられていた。女性のための美容室もあり、日曜日でも営業していた。普段はもっと商いのボートが行き来しているという。
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 とある一軒の家にこぎつけ、「庭先」に立って、住民に話を聞こうとした。トゥンデ氏が言う。「ここらの人は英語は通じないよ」と。それでも、少年の一人が出てきて、相手をしてくれた。16歳のロドリック君で一家は隣国のトーゴからやってきたという。彼はここで生まれずっと水上生活。学校は陸地にあり、ボートで通学している。「水がある生活が一番自分たちには向いている。将来の夢は医師になること」と話してくれた。
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 トゥンデ氏は「私は泳ぐのが苦手だからとてもこういう生活はできない。彼らにとって土地(水上)はただだから、こういう生活が手軽で気楽なんだ」と解説してくれた。ここの住民は漁業にも従事しているが、最大の稼ぎは木材業だという。材木置き場と思ったところは実はオコババ製材工場と呼ばれる、アフリカ最大の製材所という。国内各地から材木を縛って流れに乗せ、ここに運んで来るのだという。
 ここでは排泄物もすべて水中に投じられる。そういう水上生活が「快適」とは思えなかったが、私のような部外者が突然やって来ても、地元の人々が快く案内してくれる寛大さ。改めて、この国の人々の懐の深さを思った。
 (写真は上から、長大な橋の上から水上生活の家々を眺める。左端には建設中の家が見える。老朽化が目立つ家。家々を回る商いのボート。案内してくれた地元の住民。記者時代にはこんな記念撮影のような写真を撮っていたら、デスクからすごく怒られたものだ)

ナイジェリアに生まれて

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 「ナイジェリアに生まれて良かったと思うかって。タフな質問だわ」と一呼吸置いた後、彼女は笑いながら語った。「もう一度、生まれ変わっても、ナイジェリア人として生まれたい。ただ、国が今のような状況でないことを条件に」
 ラゴスに住む25歳の大学生、ベケレボ・キャサリン・モズィモさん。両親は南部のバイエルサ州出身。この国ではナイジャデルタと呼ばれる地方で、ナイジェリアの外貨のほとんどの稼ぎ頭である原油の産出地帯でもある。しかし、発展からは遠く取り残され、本来の漁業は原油汚染で壊滅的打撃を受け、貧困が覆う。独立50周年の日に首都アブジャで起きた爆弾テロを行った武装グループの本拠地だ。
 「彼らがああいう犯行に出るのは怒りからよ。私はもちろん、是認することはしないが、なぜ彼らがああいう犯行に走ったのか問題の所在を考えないといけない」と彼女は語る。
 「私たち若い世代は他の国々、特に欧米やアジアの同世代と比べて格段に厳しい生活を強いられている。夜はしょっちゅう停電で真っ暗。教科書を読んで勉強したくとも明かりがない。そういう中で勉強してきて、卒業したら、仕事がない。どうやって食っていけと言うの」
 彼女の父親は4人の妻がいて、兄弟姉妹は「30人以上」。自分の人生は自分で活路を見出すしかなかった。「私はボーイフレンドがいて、間違った方向に行ってしまった。気がついたら妊娠していて双子を出産。一時はどうしたらいいか途方にくれた。自分を許すのに3年かかった」という。そういう時に、自分たちで自立し、また人を助ける活動を知った。
 彼女が加わったのは、ナイジャデルタ・ピクチャーズと呼ばれるNGO組織で、4年前にバイエルサ州の高校教師が立ち上げた。政府や行政の支援は一切受けていない。いや、正確には受けたくても支援の手がこないのだ。ラゴス市内で1日に主催した独立50周年を祝うイベントもメンバーが企業や篤志家から寄付金を募り、何とか実現にこぎつけた。
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 「子供たちと話していたら、独立50周年といっても彼らが何の感慨もないことが分かった。だから子供たちに独立の喜びを祝わせたかった」。イベントには彼女たちの予測の3倍もの約5千人の人々が集まり、子供たちの歌や踊り、寸劇を楽しんだ。
 今はアルバイトをしながら通信制大学で英語を専攻しているベケレボさんは「私たちナイジェリア人の評判が海外で芳しくないのは知っているけど、でも、私たちが日々どういう暮らしをしているか分かれば、考え方は変わると思う。この国で誰でも一週間暮らしてみれば、私たちの良さ、苦しくとも笑って未来に向かう強さを理解してもらえると思う」と信じている。確かにこの国は色々問題はあるけれども、私は彼女に賛同せざるを得ない。
 (写真は上が、イベントの世話役で忙しく動き回っていたベケレボさん。下が、イベントで踊りの出番を待つ子供たち)

アップ、ナイジャ!

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 いや、前言を撤回しなければならないかもしれない。独立50周年を祝う熱気がラゴスでは全然見られないと記したが、一夜明けたナイジェリア最大の商都で1日、英国支配からの解放を祝賀する市民の活気あるパレードを目にしたからだ。緑と白と緑から成るこの国の国旗を顔に描いたり、緑色のかつらやTシャツを身につけた人たちのパレードだ。
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 カメラを向けると、普段はいやがることの多い人たちも「俺を、私を撮ってくれ」と決めのポーズをしてくれるサービスぶり。彼らの口からは「ハッピーバースデイ、ナイジャ」とか「アップ、ナイジャ!」という表現が飛び出した。このナイジャとはナイジェリアの略称で英語のスペリングは Naija となる。「アップ、ナイジャ!」は「頑張れ、ナイジェリア」という程度の意味となろうか。
 もちろん、彼らがもろ手を挙げて独立50周年を祝っているわけではない。日々の暮らしに追われている人が大半だ。それはそれとして、自分たちの父母、祖父母が苦労の末に手にした自由と独立はきちんと祝おうとしている、その心意気が私にもよく分かった。昨夜はラゴスの市民がこれだけの熱気を見せるとはちょっと想像しにくかったのだ。
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 50年の記念日は英語ではgolden jubilee(ゴールデンジュビリー)と呼ばれるが、ナイジェリアのゴールデンジュビリーはほろ苦いものであることは新聞各紙の論調が物語っていた。代表的新聞のガーディアン紙は1日の社説で「ナイジェリアは漂流している国家である。正直、誠実、説明責任、節度、寛容、信心深さといった核を成す価値観は打ち捨てられてしまった」とこの半世紀の政治の貧困、責任を手厳しく批判した。
 ラゴス市内をタクシーで走り回った後、ホテルに戻り、この項を書いていると、ホテルのオーナーが「わが友よ、アブジャに行かなくて命拾いしたぞ。首都で爆弾テロがあったようだ」と私の部屋に駆け込んできた。南部の産油地帯で反政府活動を展開している組織の犯行のようだ。地元のラジオ放送では警察幹部を含む市民8人が死亡したと報じている。
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 爆弾テロが許しがたい犯罪であることは言うまでもないが、この国が独立50周年のめでたいイベントをこのような犯罪に汚される土壌をはらんでいることに目をそらすわけにはいかない。国民の多くがナイジェリアはエリート階層が汚職にまみれており、大多数の国民が石油などの収入による国富の恩恵に預かっていないという不満を抱いている。
 私は露天で売っていた50周年を祝ったふちのある帽子をかぶって歩いたが、帽子を目にした老若男女の人々が「おお、あなたも一緒に祝ってくれているのかい」といった顔付きで、うれしそうな笑顔を私に向けてくれた。こうした笑顔がいつまでも続くとは考えにくい。
 (写真は上から、1日の新聞2紙の一面。トラックの上から笑顔を振りまくパレードの参加者。緑色のTシャツに縁が緑色のサングラスの若者。ちょっと見には不気味な若者。これもお祝いの晴れ姿だ)

再びラゴスへ

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 居心地のいいナイロビでの小休止を終え、30日、再び一路西へ、ナイジェリアのラゴスに飛んだ。ラゴスは2か月前よりも暑い。乾季を迎え、これから暑いシーズンになるのだという。ホテルの庭先に温度計を置いて測ってみると、午後2時過ぎ、日陰でも32度あった。暑いはずだ。というか湿気がきつい。ナイロビと大違いだ。
 さて、ナイジェリアは明日1日が独立50周年の記念すべき日を迎える。本来なら、首都のアブジャに行くべきであろうが、経済的事情からラゴスどまりとなった。まあ、ラゴスでもそれなりの祭典があるだろうと期待している。
 それはそれとして、やはりナイジェリアである。空港に着いて、パスポート審査のところで我々ナイロビから着いたナイジェリア国籍でない乗客一行は足止めを食った。なぜか。入国に際し、入国審査の係官に提出する例の青色のカードを手にしていなかったからだ。通常、到着国の国籍でない乗客には到着直前にこのカードが機内で手渡されるが、我々が乗ってきたケニア航空はなぜかそれを怠った。空港のパスポート審査の係官は青色のカードは自分たちの関知するものではないと突っぱね、遅れて降りてきたケニア航空の客室乗務員と口論を展開。その間、我々ナイジェリア国籍でない乗客は唖然としたまま成り行きを見守るしかなかった。どうでもいいから、誰かカードを持ってきてよ。後ろの黒人の乗客が「これがナイジェリア流の歓迎か?」とつぶやく。
 前回も泊まったホテルでパソコンを立ち上げ、この項を打っていると、頻繁に起きる停電でその都度自家発電に切り替わるため、パソコンの画面が何度も点滅を繰り返す。目に悪い。これもナイジェリアならではだ。
 テレビでは明日の式典を前に来訪したアフリカ各国の要人を紹介したり、関連する記念行事を報じている。ラゴスでも大通りでは50周年を祝った小さい旗が風になびいてはいる。しかし、市民の反応はあまり芳しくない。第一、空港の様子はこれまでとなんら変わるところがなかった。
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 ホテルから迎えに来てくれた女性スタッフも独立50周年のことなどそっちのけで、週の初めに発生したスクールバスに乗った児童15人の誘拐事件を話題にして、誘拐事件のような邪悪な犯罪を犯す者は警察が即射殺すべきと激していた。この事件はナイジェリア南部の都市アバで27日に発生、30日夜の時点でも未解決だ。ナイジェリアでは外国人を狙った身代金目当ての誘拐事件が多発しているが、子供たちが乗ったスクールバスまで標的になるとは。こうした事件が独立50周年の祝賀の日を前に起きるあたりがこの国の現実を象徴している。
 (写真は上が、ラゴスの空港近くの大通りで見かけた独立50周年を祝う小旗。いささか寂し過ぎるように思えた。下は、深夜に立ち寄ったラゴスの屋外飲食店。ここでも独立50週年を祝うポスターなどは皆無だったが、1日から三連休になるためか、大勢の客で賑わっていた。炎を扱う芸人も稼ぎ時といった感じだった)

ナイスチョット

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 少し前にルワンダでのゴルフを書いたが、今回はナイロビでのゴルフのことを書いてみたい。そういう気にさせられることがあったからだ。
 足を運んだのはナイロビ郊外にあるウインザーゴルフ場。名前からして格式のありそうなところだ。訪れたのは初めて。ナイロビ支局の特派員時代にはゴルフをしたことは一度もない。同じ年代の企業の駐在員の人からは何度も誘われたが、週末とはいえ、やはり支局を遊びで何時間も留守にすることには抵抗があり、ついぞ出かけることはなかった。この当時にゴルフを始めていればなあと今は思わないこともないが。
 上記のゴルフ場に前もって電話をして、例によって、私のような旅の者でもできること、レンタルでクラブを貸してくれること、運動靴でもOKであることを確認した。キャディー費を含めて、18ホールプレーで7,200シル(約7,700円)。日曜の午前中、一人でもプレーさせてくれるのだから、実にありがたい。
 ぜひ書きたかったのは、私についてくれたキャディーとのやり取りだ。こちらが日本人の旅行者と分かると、「ここのクラブの最古参のメンバーは日本人のS氏だ。国籍は今は確かケニア人だ。年齢は70歳台だと思うが、力強いゴルフでうまい。とても紳士的な人だ」と聞きもしないのに話し始めた。私はそのS氏とは旧知の間柄だから、すっかりうれしくなった。S氏は残念ながら現在一時帰国中のため、私はこの日一緒にプレーすることはできなかったのだ。
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 レンタルのクラブもこれまでのゴルフ場と大違いで上等なものだった。さすがアフリカと思ったのは、フェアウエイで何回かサルの群れと遭遇したこと。人間慣れしているのか、すぐ近くに行くまで逃げもしない。相変わらずため息の出るようなひどいアイアンショットを繰り返しても、何の反応もないから気は楽だ。
 日曜にしては比較的すいており、中国人のグループを何組か見かけた。しかし、キャディーによると、まだ中国人のお客さんは少なく、日本人には遠く及ばないとか。ナイロビに限らず、アフリカのカジノで今圧倒的に目立つのは中国人の姿。ゴルフ場も中国人が席巻する時代がそのうち来るのだろうか。
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 午前8時にスタートしてホールアウトしたのは午前10時30分だった。これが本当のゴルフだよなあ、スコアはともかくと思いながら、今の私はとても泊まれそうにない雰囲気のカントリークラブ(ホテル)を背に、フェアウエイを臨むテラスで地元のビール、タスカーを注文。のど越しが素晴らしい。ワンモアボトル、プリーズ。これ以上、何を望もうか。
 (写真は上から、ナイロビ郊外にあるウインザーゴルフ場。何度でも行きたくなるようなところだ。フェアウエイで遭遇したお猿さんたち。地元産のビールのタスカー。昔も今も実にうまい)

母乳が一番・続編

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 前回、母乳の話を書いたが、27日の地元の英字紙「デイリー・ネーション」を読んでいたら、まさにタイミング良くこの話題を取り上げていた。「子供に乳を飲ませる母親はそれでも美しさを保つことができる」という見出しの記事は、結婚2年目の女性(29)が母親になる覚悟はできているが、スリムなスタイルを維持したいから、ブレストフィーディングはしないつもりだという書き出しで始まっていた。この女性の懸念に対し、専門医はお乳が垂れ下がるのは年齢に伴うもので授乳には関係がない、母乳は赤ちゃんにとって最高最善の栄養で、母乳で育てられた子供はそうでない子供に比べ、病気に対する抵抗力が強く、かつ知能指数も高いと指摘し、特に最初の半年間は母乳を与えることが大切と訴えていた。こういう話題が記事となること自体、ケニアが「余裕」のある社会になりつつあることを物語るものであろう。なお、私も初めて知ったが、母乳でなく、人工乳で育てることを英語では”bottle-feeding”(ボトルフィーディング)というらしい。なるほど。

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