Home

アフリカをさるく

«Prev | | Next»

ドア・オブ・ノーリターン

null
 ダカールに来て、ここを訪問しなかったら、セネガルを訪れた意味はないかもしれない。
 ゴレ島。多くの黒人奴隷が南北アメリカに送られた最終出発点の島だ。ダカールはアフリカ大陸の最西端、大西洋に面しており、ゴレ島はダカールの沖に浮かぶ小さい島だ。フェリーで15分程度の距離にある。
 土曜日、ゴレ島に渡った。フェリーの船中でムスタファという50歳代の現地ガイドが隣に座り、私より流暢な英語で案内は俺にまかせろと言う。最初は迷ったが、島について見ると、英語の表示は皆無。島の歴史的意義を多少でも理解するには彼に頼るしかない。公式のガイド料8,000CFAフランを何とか5,000CFAフラン(約千円)にまけてもらい、見学開始。
null
 「この島にヨーロッパ人、最初のポルトガル人がやって来たのは1444年だ。その後、オランダ人、イギリス人がやって来て、最終的にフランス人が支配権を握った」とムスタファの説明を聞きながら、南北900㍍、東西300㍍の小さい島を歩く。奴隷が集められた家屋では、フランス語のガイドの周りに欧州から来たと思われる白人観光客やフランス語圏のアフリカの国々の人たちが群がって説明を聞いている。
null
 「ここに連れて来られた奴隷は男女に分けられ、体重を測定されたんだ。基準の60キロを超えていれば、この部屋。達していなければ、向こうの部屋に入れられ、二三か月食べ物を与えられ、太らされた。あそこにある小部屋は言うことを聞かない奴隷を罰した場所だ。そして、奴隷船がやってくれば、あの戸口、ドア・オブ・ノーリターンを通って積み込まれた。片道切符だよ」とムスタファは淡々と語る。
null
 ここから新大陸に運ばれた黒人奴隷の数は諸説あるが、ムスタファは少なくとも二千五百万人以上と言った。劣悪な環境のため、航海の途上で多くが死亡したと見られている。悲惨な歴史を秘めた島であることは間違いないが、白人、黒人の観光客がのんびり歩く姿を見ていると、今はこの国、特にこの島に住む約1200人の住民の大切な観光資源になっている印象の方が強い。
 ナイジェリアのバダグリでも同様の奴隷貿易の資料館を見学したが、こちらの方が歴史的な意義はあるようだ。1978年にはユネスコの世界遺産に指定されてもいる。
 「日本の人にゴレ島のことを宣伝してくれよ。この俺のことも忘れずに。俺は日本語も少しはしゃべれる。コンニチハ。イタダキマス。どうだい?」とムスタファはスパゲッティをビールで流し込みながら言う。もちろん私の払いだ。私のそばではさきほどからしつこく土産物を買えと勧めるおばさんがまだ立っている。「悪いけど、これからまだ南アとか旅しないといけない。お金がいる。だから、ここで土産物を買う余裕がない」。どこまで伝わったか分からないが、彼女は「そうなの」といった表情であっさり立ち去った。こうあっさり分かってくれると、なんだかすまない気がする。少し切ない気分で島を後にした。
 (写真は上から、フェリーから見えたゴレ島。奴隷が収容された家屋でガイドの説明を聞く観光客。「ドア・オブ・ノーリターン」。そこから見えた大西洋)

頼りは同業者

null
 ダカールで地元の英字新聞が発行されていない(と思われる)ことは前回書いた。フランス語が母国語だからいたし方のないことではある。日本でも今でこそ、大きなコンビニであれば、英字新聞を手にすることができるが、我が故郷・宮崎県では私が知る限りJR宮崎駅か宮崎空港にある売店以外では残念ながら英字新聞を買うことはできない。
 と我が故郷のあまり喜ばしくない現状を紹介しても始まらないのだが、(元)新聞記者が初めて訪れた地でどうやって信頼できる地元の情報を聞きだすか。手っ取り早いのは同業者を訪ねることだ。ダカール市内にある Observateur という新聞社を訪れた。この新聞の名前を何と発音するのかさえ分からない身だが、電話で「チーフエディター」と名乗った男性は「ブロークンイングリッシュで良ければお話ししましょう」と言ってくれたのだ。
 案内されたのは細長く立ったビルの小さな一室。日本で言えば、新聞社の地方都市の支局のような感じのオフィスだった。相手をしてくれたのはセリーン・サリュー氏。
 「セネガル(人口約1,200万)は今年で独立50年の国です。正直に言うと、貧困の除去、教育の充実など問題は多々抱えています。一日三度の食事ができない人々も少なくありません。でも、セネガルは民主主義の国家です。新聞の言論も活発でエスニック(民族・部族)グループの確執もありません。国民の95%はイスラム教徒ですが、他宗教の人々にも寛容ですから、宗教的対立の心配もありません」とサリュー氏は語った。
 「現在のワッド大統領の努力を私はある程度評価しています。(84歳と高齢なため)大統領の息子(有力閣僚)を次の大統領に推そうとする動きも一部に見られますが、我々の国で公正な選挙なしに大統領が誕生することには国民が黙っていないでしょう」
null
 サリュー氏はインタビューの中で、セネガルの国民の融和が根付いていること、言論の自由が保証されていること、国軍の政治への介入の懸念がないことをしきりに強調した。
 インタビューの前に、パソコンでこの新聞のホームページにアクセスしていた。かすかに期待していた英語版はなかった。この点を質問すると、サリュー氏は「実は英語で発信することの大切さを今実感しているところです。メインニュースぐらいは英語に翻訳できないか検討に入っているところです」と語った。
 編集室には10人程度の男性記者がいた。女性記者はいないのかと尋ねると、サリュー氏は「わが社の記者は約30人。そのうち、女性は数人。女性は新聞社よりも顔が出るテレビ局に勤務する方を好むようです」と言って笑った。私もつられて笑っていたら、黒いベールをかぶった若い細身の女性記者が駆け込んで来た。「ボンジュール」。美しさに見とれて、彼女の写真を撮らせてもらうことを忘れたことにだいぶ歩いてから気づいた。
 (写真は上が、Observateur社の最高幹部の二人。とても気さくな雰囲気だった。左の男性がサリュー氏で右は彼の上司。下が、サッカーのようなゲームに興じる若者。左の女の子は愛嬌のある子で名前はアイシャ。しきりに私のそばに寄って来て手を触りたがった。この日が2歳の誕生日とかで、「お祝い」にチョコレートを買ってあげた)

こむら返りも痛いが

null
 ガーナに行く予定を取りやめ、さらに西のセネガルに来てしまった。ガーナ入国のビザがラゴスで入手できなかったためだが、セネガルは日本人ならノービザで入国できることを知り、セネガルの首都ダカールに飛んだ次第だ。
 セネガルは特派員時代にも訪れたことがないので、それはそれでうれしいのだが、参ったのは、この後、ナイロビに一旦戻る予定であり、ダカール→ナイロビの航空券をさきほどここにあるケニア航空のオフィスに問い合わせたところ、927米ドルもかかると知らされたことだ。人間の体で言えば、一番出っ張っているお腹に当たる赤道直下を西から東に飛ぶわけだから、安い航空券とはならないことを覚悟していたが、ああ、それでも痛い。
 かてて加えて、心の準備は出来ていたが、旧宗主国がフランスのここの人々は当然のことながら、フランス語の世界に生きている。英語は市内の通りではほぼ通じない。私のフランス語の知識は「ジュトジュデニジュウ」程度だ。
null
 朝を迎え、テレビをつけると、チリの鉱山労働者の救出作業を大騒ぎで報じているが、チャンネルは仏国内のテレビ局が中心でフランス語ばかり。それなら、新聞を買い求めようと、シティセンターに歩いて行くと、どの新聞売り場も英語の地元の新聞は皆無。せめて写真でも撮ってホテルに戻り、「今後の行動」を考えようと、通りで最初のシャッターを切ったら、背後から制服の警察官に呼び止められて、私服の警察官のところに連れていかれ、なにやら質問される。どうも、そばに大使館の入ったビルがあり、私が写真を撮った地点は撮影禁止らしい。そんなこと着いたばかりの私に分かるものか。第一、そこは何の変哲もない通りで、私自身こんな写真撮ってどうするのと思いながら、カメラを構えたのだ。パスポートを持っているかと聞かれるので、そんな大事なものをポケットに入れて毎度ぶらぶらできるものかと思うものの、徒に相手の反感を買うのは逆効果なので低姿勢を通す。
 初めて訪れた国の印象は最初の出会いというか出来事に大きく左右されるものだ。かてて加えて、さきほどもこの表現を使ったが、ダカールは蒸し暑い。温度計を海に面した部屋の外にある木のベランダに出して測ってみたら、温度46度。
 せめてもの救いは宿が海に面したレゾート風のホテルであること。プライベートビーチもあるというではないか。泳ぐのはへただが、嫌いではない私は夕刻、いつも持参している水泳パンツとゴーグルを手にビーチへ。波が荒くてそうきれいとはいえない海水ではあったが、それはそれ、気持ちよく平泳ぎからクロールに変えた途端、足がつっただよ。悪癖のこむら返り。いつもに増して激痛だ。最後ははって浜辺に戻った。ビーチの管理人の黒人の男性が “cramp”かとそばに寄ってきた。そうだと答えると、これをなめたら楽になるはずだと、コーヒーに入れるシュガースティックを持ってきてくれた。なめたら少し楽になった。こういう心配りはありがたいが、ああ、それにしても、痛い痛い一日だった!
 (写真は上が、ホテルの部屋から大西洋を臨む。右手の奥がホテルのビーチ。下が、この程度の撮影をとがめられた通りの写真)

ファイアー!

null
 アフリカを旅していて、いや、アフリカに限らない、海外を旅していて、多くの日本人が時に困るのは「あなたの宗教は何ですか」という質問ではなかろうか。今回の旅でももう何回この問いかけを受けたことだろうか。
 正直に答えるしかない。「いや、毎週教会とか寺院に行くとかいう宗教は持ち合わせていません。あえて言えば、神道というものがあり、年の暮れや何か祈りたいことがあれば神社というところに足を運びます」と。彼らから見れば、クリスチャンでもイスラム教徒でもなく、まして仏教徒でもない日本人は奇異な存在と映っているかもしれない。そういう印象を持たれそうだったら、次のように付け加える。「我々は子供の時から、悪いことをしてはいけない。人のものを盗んではいけないなどと育てられてきました。誰も見ていなくとも、神様は見ていると諭されてきました」と。ここまで説明すると、こちらが「神をも恐れぬ人非人」でないことを分かっていただけるようだ。
null
 ラゴスでは二度ほど教会を訪れた。先の日曜日にはホテルから少し離れたところにある ”Mountain of Fire and Miracles Ministries” という名のプロテスタントの教会をのぞかせてもらった。多くのエスニックグループが集う教会と聞いていたが、牧師の説教に必ずヨルバ語の通訳が続いていたから、ヨルバの人々が多数派の教会なのだろう。
 二階建ての教会だったが、午前9時過ぎに到着した時、すでに満席だった。男性は普通の軽装だったが、女性は「アンカラ」と呼ばれる正装の人が圧倒的に多かった。そう蒸し暑くはなかったが、頭上の天井で回る大きな扇風機の風がありがたかった。
null
 7月末に訪れたイボの人々が多数派の教会では祈りの最中に恍惚とした表情で踊り出す信者も少なくなかった。牧師は「失ったものは必ず戻ってくる」と説き、信者は熱狂的にその説教に応えていた。1960年代末のビアフラ内戦で最も辛酸をなめたイボの人々の悲痛な祈りにも聞こえた。
今回の教会では、踊り出す信者は見かけなかったが、それでも祈りは強烈だった。私がいた2時間近く、牧師は絶叫に近い説教を繰り返し、信者もそれに負けない熱気で応じる。教会の名前が示す通り、火のような信仰だ。牧師が「あなた方の心にある負け犬根性をたたき出せ」とか「身に染み付いた貧困をたたき出せ」などと「喝」を入れると、信者はその都度、大きな声で”Die”(消えてしまえ)と叫ぶ。私には娯楽番組でおなじみのあの「ダー」としか聞こえなかったが。
 彼らの信心深さには敬意を表するしかない。ただ、それにしてもと思う。彼らは独立のはるか前、ヨーロッパの宣教師によりキリスト教に改宗して以来、独立してからだけでも50年の長きにわたり、神に自分と家族の幸福を祈り続けてきた。実際の政治が自分たちに何をもたらそうとも、ずっとこうやって祈り続けてきたのだ。
 (写真は上から、一心に祈る信者の人々。教会の外で親子連れを撮影。7月末に訪れた教会では祈りの最後はその月の誕生日の人々を祝い、パーティーのような盛り上がりに)

炎の作家

null
 その男性の声は深みのある響きを伴って携帯電話から聞こえてきた。「私はウォレ・ショインカです。あなたですね。私と話がしたいという方は?」。私は多少上ずった声で答えた。「イエス、サー。あなたと電話とはいえ、こうして話せることをとても光栄に思います」。
 こうして私はナイジェリアが生んだ、アフリカ人で初のノーベル文学賞受賞者(1986年)であるショインカ氏にインタビューする約束を取り付けた。ラゴス滞在が延びたから、ショインカ氏に会えたようなもので、バスでガーナに向かっていたら、せっかくのチャンスを逸することになっていた。ただ、東奔西走で多忙の氏が私と会う時間を作ってくれることはあまり期待していなかったので、ショインカ氏が土曜朝、私の携帯に自ら電話をかけてくれ、その日の午後会えることになろうとは思ってもいなかった。
null
 ショインカ氏が多忙なのは本来の著述業、有識者としての仕事のほか、来年初めの大統領選に向け、政党活動にも精力的に取り組んでいるからだ。ビクトリア島にある氏お気に入りのギャラリー兼書店兼喫茶店で会ったショインカ氏はこの点について、「私は昔から政治活動に関わっています。今の政党は2002年に立ち上げたもので、私が政治的にどうこうするというのではなく、若い人たちに引き継ぐ受け皿の政党に育てたい」と説明した。
 76歳の氏が今も政党活動に身を投じているのは、自分たちの世代が健全な国づくりに失敗したという苦い思いがあるからだ。だから、今月独立50周年を迎えたことについても、「若い人たちがそれをお祝いすることは一向に構わない。しかし、私たちの世代は独立当初の夢、アフリカの多くの人が幸福な生活を享受する国を作るというという夢を実現できていない。どうして祝えますか」と語気を強めて切り捨てた。
 「アフリカでは多くの国で未だにエスニック(部族・民族)的確執から国づくりに支障をきたしている。エスニックの多様性を肯定的にとらえ、力にすることはできないものでしょうか」と尋ねると、ショインカ氏は「そういう風に質問していただき、うれしく思います。エスニックの多様性、文化の多様性は何ら悪いことではありません。問題は政治指導者がそうしたエスニックの相違を自分の権力強化に利用してきたことにあります」と語った。
null
 アフリカと政治についてよどみなく語るショインカ氏は私には私と大差ない壮健さに見えた。途中で彼が携帯電話をかけざるを得なくなった合間に、「南アフリカにはマンデラ氏がいる。ナイジェリアにはあなたがいる」と間を持たすと、氏は「それはほめすぎ。私などマンデラ氏とは比較にならない」とこのインタビューの中で一番機嫌良さそうに笑った。
 正直に言うと、私は氏の作品で読み終えたものはない。難解だからだ。ナイジェリアは優れた作家の宝庫。少し上の世代に属するチヌア・アチェベ氏の小説なら代表的作品はだいたい読んだ。ただ、このことは氏には言わなかった。
 (写真は上から、インタビューに応じるショインカ氏。氏がお気に入りの喫茶店(ギャラリー兼書店)は素敵な空間だった。購入したばかりの氏の回想録にサインをしてもらう)

段取りの悪さ

null
 ナイジェリアに別れを告げ、次の目的地のガーナに向かおうとしている。本来なら、ラゴスから原油生産地のナイジャ・デルタ地域に足を運ぶ計画だった。ところが、この地域ではこのところ、外国人や地元の市民を狙った誘拐事件が多発していて、誰もがナイジャ・デルタに行くことを止める。仕事なら少々の危険は覚悟するが、今の私は何の責務も後ろ盾もない身である。そういう危険を冒すわけにはいかない。
 ラゴスで過ごす限り、ナイジャ・デルタの貧困も治安の悪さもそう感じない。通りを歩いていると、通りすがりに「オイボ」(白人)と耳元でささやかれるが、これは彼らなりの親しみの呼びかけのようだ。ホテルの近くの野外の飲み屋で夕刻ぼんやりビールを流し込む。道の向こうにはここで「オカダ」と呼ばれるバイクタクシーで日銭を稼いでいる若者たちが座り込んでおしゃべりしている。私と彼らとの懐の差に思いをはせないこともないではない。しかし、私はビールを飲み続け、彼らはいつまでもしゃべり続ける。
 話が横道にそれたが、それで、残念ながら、ナイジャ・デルタ行きはあきらめて、一路、西アフリカの優等生、ガーナに向かうことにした。タンザニアでしたように、バスに乗っての旅を目指し、ラゴスの長距離バス会社に足を運ぶと、「ナイジェリアからガーナはベナンとトーゴを越えて行かなければならない。両国のビザを持っているのか」と窓口の男性が聞く。「いや、持っていない。ガーナのビザも持っていない。国境で買うつもりだ」と答えると、「それでは話にならない。第一、あんたがまずベナンとの国境でビザ取得でまごついている間、他の乗客はずっと待っていなければならない。トーゴはどうする。ガーナはどうする」とまくし立てる。
null
 そう言われると、さすがに考え込んでしまう。どう考えても、ベナンとトーゴは通過するだけのトランジットだ、両国のビザは要らないと思うが、自信はない。参考までにガーナの日本大使館に電話をしてみると、ナイジェリアから来る場合はやはり、ガーナのビザを取得して入国されたほうがベターとのこと。うーん、仕方ない。バスの旅はあきらめ、空路で入ることにしよう。本当はバスの車窓から見る光景が楽しみなのだが。
 それで、ラゴスにあるガーナ領事館を急ぎ訪れると、ビザ業務は週末はしません、月曜日にお越しくださいとつれない返事。これも仕方ない。段取りの悪い自分を責めるしかない。ラゴスの滞在を予定より延ばすしかない。
 まあ、いいか。これまでラゴスの下層・中間層が住むイケジャ地区を中心に歩き、彼らが食すものを一緒に食べてきた。おかげでこの二三日、お腹の調子が悪い。そろそろ潮時だ。私はそういえばまだ、ビクトリア島にあると聞く高級住宅街はさるいていない。この週末足を運んでみよう。
 (写真は上が、ラゴスでも携帯電話は必需品。母親が夜の道端で営む食堂で息子のモハメッド君は最新の携帯電話のネットの映像に夢中だった。下が、マーケットでは色彩豊かな野菜に目を奪われる)

「腐敗は想像力の欠如」

null
 「コラプション(腐敗・汚職)がなくなることは大切だけど、それだけを叫んでいればすむというものでありません。子供たちに食べさせ、学校にやらなければ何にもならない。第一、政治指導者にその気がなければ、問題は全然解決に向かって進まないことを私は経験から知っています」
 ナイジェリアの人権活動家で弁護士として名高いアヨ・オベさんはイコイ島の自宅で、この国が抱える諸問題について語ってくれた。ナイジェリアで最も古いCLOと呼ばれる「市民の自由」を擁護する組織の代表を1995年から2003年まで務めた。アバチャ軍事独裁政権からオバサンジョ政権へと民政移管された時期にまたがる。
 オベさんに言わせると、政治指導者がコラプションで私腹を肥やすのに走るのは、「彼らがいかに想像力が欠如しているかを物語っています。なぜなら一般の大衆が貧しくて苦しい生活を送り続ければ、それはやがて、自分たちの子供たちの生活を脅かすことになるのです。そのことが全然理解できていない」ということになる。
 「ナイジェリアでは昔から次のような言い伝えがあります。貧者はお腹がすいているから眠れない。金持ちは貧者が眠っていないから眠れないと」
 「オバサンジョ政権時代には汚職追放で国民は大きな期待を抱きました。私たち人権活動家がオバサンジョ大統領と会談したことがありました。当時、農業省と国連機関の間の不正疑惑が問題になっており、我々がそれを指摘すると、大統領は証拠の書類が見つかったら、自分に送って欲しい、と語りました。彼は大統領です。警察や公安機関を含め、調べようと思えば、簡単に指揮できるのです。要するに疑惑を解明する気がはなからなかったのです」
null
 彼女はこの国の三大部族(民族)の一つ、ヨルバ族の出身。彼女の希望は部族的な相違、確執が「軽く受け流すことができる」程度に薄まることだという。「ナイジェリアのサッカーチームが国際ゲームでゴールをあげればうれしい。それがヨルバの選手であれば正直、うれしさも倍加するが、イボやハウサの選手がゴールをあげても喜びには変わりがない。その程度のものになればと願います」
 彼女は4人姉弟の一人で、娘が一人。近しい家族は結婚でヨルバの人だけでなくなっている。「とても親しい友人2人ははイボの人だし、相談事があれば彼女たちにします」
 ヨルバという呼称についても、彼女は先祖の人々はそういう認識はなかったのではないかと語った。「ヨルバは他の人たちが付けた名前です。ヨルバの人たちは例えば19世紀末には自分たちの間だけで戦争に明け暮れていました。だから負けた側の多くの人がブラジルに奴隷となって送られました。ブラジルでヨルバ語を話す大きなコミュニティーがあるのはこのためです」
 (写真は上が、問題はあるものの、ナイジェリアの将来を楽観視するオベさん。下が、ラゴス市内の私立小学校兼保育園で、授業前の子供たち。授業はすべて英語で行われる)

«Prev | | Next»

過去の記事を読む...

Home

Search
Feeds

Page Top