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アフリカをさるく

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大学祭

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 地元紙を読んでいたら、ケニヤッタ大学で大学祭のような催しの案内が出ていたのでタクシーで大学を訪れた。ナイロビの中心部から20キロほど北東にある国立大学だ。
 ケニヤッタ大学はもちろん、建国の父、ジョモ・ケニヤッタ初代大統領にちなんだ命名された大学で、1985年の創設。当初は教師を育成するのが目的の単科大学だったが、今は国内7キャンパス、14学部の総合大学に成長、総勢2万5千人の学生が学んでいる。
 大学祭の会場であるメインキャンパスの広場を訪れた時、開会式典に続き、歌や踊り、漫談などのエンターテインメントが催されている最中だった。コーラスの出番を終えたばかりの女子学生のグループが隣にやってきて、学生の漫談を大きな笑い声を上げながら楽しんでいる。「屈託が無い」という表現にぴったりの笑顔だ。スワヒリ語が基本の漫談なので、私には理解できない。女子学生だけでなく、一般の人々が交じった聴衆もどっとわいている。どうも、ケニアのエスニック・グループ(民族・部族)の異なる英語のしゃべり方(アクセント)を面白おかしく紹介しているらしい。
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 広場の周辺部では外国人学生のお国紹介のようなテントが設けられており、中国人学生や韓国人学生グループの模擬店があった。広場で警備に当たる女性の警備員がいたが、私の少ない経験ではたいがいこういう場でも彼女たちは難しい顔をして警備に当たっているものだ。ところが、この警備員は私がそばに立っていると、「今のグループの歌の途中で拍手が起きたでしょ。意味が分かりますか?」と話しかけてくる。「さあ、激励の拍手かな?」と答えると、「その反対です。お粗末だったので、早く退場せよと、一部の聴衆が拍手したんですよ」。「はあ、なるほど」
 会場から引き上げる途中のカップルに声をかけた。オースティン君とリリアンさんの二人。二人ともに経済学を学んでいるという。「いい雰囲気のキャンパスですね。私は昔ここで勤務していたが、ケニヤッタ大学には初めて来ましたよ」と声をかけると、「ようこそ、そうです。いい大学ですよ。僕らは楽しく学んでいます」と足をとめてしばし付き合ってくれた。「エスニック(民族・部族)的な問題ですか。正直あまり意識したことはありません。友達になって、メールを交換するようになり、フルネームを知って初めて友達のエスニシティを知ることがほとんどですから」。そばでリリアンさんもうなずく。「僕はルオですが、彼女はキクユです。何の問題もありませんよ」
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 オースティン君とは翌日、ランチを食べながら、さらに話を聞かせてもらったが、「僕はケニアに生まれて良かったと思っています。他の国に行って学びたいとは思いません」と話した。ランチの後にコーヒーでも飲もうと思っていたら、「すみません。僕はこれから大学祭のステージでラップを披露することになっているんです。もう、そろそろ行かなくては。ランチご馳走様でした」と20歳の若者は足早に喫茶店を後にした。
 (写真は、ケニヤッタ大学の大学祭のメインステージ。笑顔が一杯の女子学生たち。キャンパスで1本だけまだ満開のジャカランダの木を見かけた)

活路模索のメディア

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 今回はラゴスの最終日に訪ねた新聞社の編集局長とのインタビューを紹介したい。
 「ネクスト」という名の新聞の編集局長のカダリア・アハメドさん。創設されてまだ2年ほどの若い新聞だ。アポイントメントを取り付けて教えられた場所にタクシーを走らせると、倉庫のような建物だった。新聞社が移って来るまで、実際平屋の倉庫だったのだ。
 「ネクスト」を創設したのはナイジェリアでは著名なジャーナリストのデレ・オロジェデ氏。彼のメンターであったデラ・ギワ氏が軍政下の1986年に郵便爆弾テロで殺害された後、米国に難を逃れ、記者活動を続け、ルワンダ報道で2005年にはピュリッツアー賞を受賞。彼が帰国後の2008年に立ち上げたのが「ネクスト」だ。
 カダリアさんはロンドンで長くBBCの放送記者として勤務していたが、3年前に家族を伴い帰国。カダリアさんの出自は北部のフラニ、夫は南西部のヨルバ。「ロンドンで生まれた子供たちは自分たちの母国のことを知らない。そのこともあって帰国を決意しました」とカダリアさんは語った。12歳の長男と9歳の長女の母親でもある。
 帰国後、オロジェデ氏にヘッドハントされた。「新聞のことは全然知りませんでしたが、ネクストは新聞だけでなく、インターネット、携帯電話など多岐にわたるソフトに情報、ニュースを提供する目的で立ち上げられたのです。テレビにいた私は格好の人材と映ったようです」
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 「購読部数は平日のデイリーが1万部。日曜紙が1万7千部程度でしょうか。たいしたことないと思われるかもしれませんが、この国では最大購読部数の新聞でも4万程度です。でも私たちの新聞は政権トップなど影響力のある人々が読んでいることが購読者調査から分かっています。レイアウトも工夫しており、既存の新聞が追随してきました」
 「ネクスト」のインターネット紙面は国内外から毎週40万件のヒットがあり、ナイジェリアでは一番だ。さらに、携帯電話での契約者に緊急ニュースの有料配信をするサービスを開始したばかりだが、これも順調に顧客が伸び続けている。
 「単にソフトの拡大だけを目指しているのではありません。正確で信頼できる報道を社是としています。今夏、故人となった前大統領が脳障害で執務不能となっているという特種をいち早く報じたのも我々です」とカダリアさんは語った。
 とはいえ、新聞産業が苦境にあるのはこの国も同じ。「ネットでのアクセスをいかに実際の利潤としていくのか。世界中のメディアの共通の課題ですが、それを考えているところです。国の将来に関して言えば、最近汚職で摘発された企業経営者が懲役刑を受けました。汚職の規模に比べればわずかな刑ですが、ナイジェリアではかつてなかったことです。我々の国も着実に変化しているんです」。別れ際、お子さんにどうぞとバッグに残っていたチョコレートを差し出すと、「あらいいんですか。私もチョコレート大好きです」と微笑んだ。
 (写真は上が、輪転機の前でカダリアさん。印刷工場をやがて国内のあと2か所に増やす計画があるという。下が、橋の上からラゴスのビジネス街を望む。大都会の眺めだ)

中国の存在感

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 これまでのアフリカの旅で感じたのは露出度を増すばかりの中国人の存在だ。それは道路、公共施設といった大規模なプロジェクト工事の面だけでなく、町を歩いていて、彼らが仕切る商店がずらっと並んでいる光景に出くわすことでも感じざるを得ない。
 ダカールでは両側の通りが中国人の商店でずらっと席巻されている大通りもあった。地元のセネガルの人々が売り子になっており、一見違和感はないのだが、商店の奥をのぞくと中国人が店主として控えているのである。地元の若者がこうした店で商品を手に入れ、さらに人通りの多い中心部で小売りしてマージンを稼ぐ図式が定着しているらしい。すでにこの国には3万人の中国人が居住しているとも聞いた。(ちなみに在留邦人は200人に満たない)
 地元の人々はどう見ているのか。「一長一短だ。中国の製品は安いから一般大衆でも手が届き、助かる。それを売って歩く若者たちにも雇用の場を提供していることになる。しかし、逆に言えば、セネガルの商品は彼らのものに値段の点で太刀打ちできない。地元の経済が育つ芽を摘んでいるという点では良くない。総合すると、否定的要素の方が大きいかもしれない」。地元の人はそう解説してくれた。セネガル人が不満を抱く点がもう一つ。「彼らはあまり我々と交わらない。食事も自分たちの仲間が営む食堂でする。地元還元が少な過ぎる」
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 ナイロビに戻ったその日の地元紙に目を通していて、この問題に焦点を当てた特集記事が掲載されていた。「中国:アフリカにとって天恵それとも災い?」という見出しの記事は、アフリカに進出した中国の企業が地元の人々を劣悪な条件で雇用していると批判している。
 報道が事実に即したものであれば、特集記事で紹介されている実態は穏やかではない。例えば、ザンビアの鉱山では数週間前、賃金交渉のもつれから中国人の現場責任者らが発砲、作業員13人が負傷。ボツワナでは最近、スタジアムの建設工事で現場の実態を議会関係者に視察させた作業員が中国人の同僚4人に暴力を振るわれ、その4人が逮捕された。その他、記事によると、中国側がセメントとかペンキとかいった資材を現地調達せず、自国から運んでいることも不快感をあおる一因となっている。
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 中国の近年のすさまじいアフリカ進出が地元の人々に感謝され、両者の草の根での信頼関係強化につながるのか。これからが真価の問われることになるのだろう。
 (写真は上から、ダカール市内の大通りの中国人が店主の商店。こうした商店が通りの両側にずらっと並んでいる。中国のアフリカ進出の実態を報じたナイロビの地元紙。ダカール市の郊外の丘に立つ「アフリカン・ルネッサンス」の像。ワッド大統領の肝いりで北朝鮮の会社により建設され、今年4月の独立50周年記念式典でお披露目された。無知や隷属からのアフリカの解放を意味するというが、約25億円の巨額の建設費や女性像がセクシー過ぎるのではなどと、一般の市民からは酷評されている。高さ49メートルで、米ニューヨークの自由の女神像を上回る高さだという。この記事とは関係ない写真だが)

語り部の文化

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 アフリカは世界の他の地域に比べ、文明が栄えなかった大陸だと言われ続けてきている。歴史や文化が書き物として残されていないことも一因しているようだ。セネガルの旅でこれに強く異を唱える人物に出会った。
 文化人類学者と出会ったわけではない。ダカールの語学学校のベテラン英語教師と話していてそういう展開になったのだ。ジブリル・アンさん。来年5月には一応定年の60歳を迎える男性教師だった。私も教育学部で英語を学んだ端くれ。日本語とウォロフ語、周辺の言語との発音の差異、教え方などを話題にしていて、話が次のように広がった。
 「私たちの国にはさまれる形で南にガンビアという小国がありますが、あの国の多数派のマンディンゴの人たちはKとGが区別できない。それでガラージはカラージとなる。『ルーツ』という小説読んだことがありますか。作者のアレックス・ヘイリー氏が西アフリカから奴隷となりアメリカに連れて来られた先祖の村を探し求める物語です」
  「もちろん知っています。その小説は読んだことはありませんが、日本でもテレビドラマが人気になった記憶があります。ずいぶん以前ですが」
 「そうです。70年代末のころでしょう。ヘイリー氏が先祖のクンタ・キンテの村を探しあてるかぎとなったのは、米国留学していたガンビアの学生を訪ね、自分の祖母たちから聞かされていた話をしたことです。ヘイリー氏は川の名前を言うのですが、正確ではありませんでした。正確にはガンビア・ボロンゴなのですが、マンディンゴの人々はカンビア・ボロンゴと発音していて、学生はすぐに自分の国だと分かったのです」
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 アンさんは言った。「キンテがさらわれて行方不明になった後、彼の両親たちは呪術師に所在を尋ねます。呪術師は占いで彼は再び村の土を踏むことになる、ただ、かなり時間が経過してからだと告げます。キンテが奴隷となったのは1775年。7世代後の末裔、ヘイリー氏がその村を訪れたのはちょうど二百年後の1975年のことです」
 ナイロビに戻り、書店に走り、「ルーツ」を購入した。1977年にはピュリッツアー特別賞を受賞している作品だ。前半は飛ばし、末尾に至ると、作者がクンタ・キンテの村を訪れる感動の場面が記してある。村の古老が二時間にわたって、村で生まれ死んでいった幾多の人々の来歴をテープレコーダーを回すようによどみなく語っていく。やがて祖母たちから幾度となく聞かされたクンタ・キンテの名前が・・・。
 ヘイリー氏は「ルーツ」の中で「西洋文明に住む我々は書物にとらわれ過ぎており、練達の記憶力の可能性を理解できないでいる」と述懐する。アン氏が言う。「アフリカでは語られた言葉は残ると考えられています。書かれなくとも残るのです。我々はこのオーラル・トラディション(oral tradition)を誇りに思っています」
 (写真は上が、アフリカの伝統、語り部の力を語る英語教師のアンさん。下が、機中からゴレ島を臨む。左の半島はダカール市内)
 (注:「ルーツ」はヘイリー氏のほぼ「創作」であり、彼が訪ねたのは先祖の村か疑わしいこと、呪術師の言葉も仕組まれたものという指摘があることも付記しておきたい)

愛すべき人々だが

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 ダカールでの滞在も本日で終わり。少し無理をして海岸沿いのレゾートホテルに投宿したこともあり、何回か見晴るかす大西洋で、のんびりと漂うことができた。海での平泳ぎがこんなに楽だったとは。もっと長くいたいのだが、月末に南アフリカに飛ぶ予定が控えており、この辺りが潮時かなと思う。
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 かつてのナイロビ支局勤務時代に西アフリカには何回か足を運んだことがある。チャド、コートジボアール、ブルキナファソという国々だ。いずれもフランス語圏の国々だ。
 当時は西アフリカ訪問は楽しみだった。英語圏の国にはない良さが味わえたからだ。まず、食べ物。これは説明するまでもないことだろう。フランスの食文化が地元の料理に反映され、ケニアや南アなどでは到底味わえない風味のものが食べられたのだ。続いて、西アフリカはイスラム教徒が多数派の国々が多く、犯罪に対する厳しい戒律もあってか、旅行の安全という点では比較的安心できた。夜間も割と人々が通りに出ておしゃべりしており、日が暮れると町から人通りが絶える英語圏の国々とはだいぶ異なっているように思えた。今はどうだか分からないが、チャドの首都ヌジャメナでは東京に記事を送るため郵便局を探し、真夜中の町をさまよい歩いたが、そう不安を感じなかったことを記憶している。
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 さらに言えば、これもフランスの影響だろうか、フランス語圏の国々では女性のファッションが英語圏の国々と比べ格段に垢抜けていたような印象がある。頭に独特の被り物をして、色彩豊かな衣装をまとい、腰を左右に振りながら歩く女性・・・。
 セネガルは今回初めて訪れたので昔との比較はできない。正直なところを書けば、もっと活気のある町を予想していたので、その点では期待外れだった。ここでも大多数の人々が厳しい暮らしを余儀なくされていることは、通りで見かける元気のない物売りの若者の数が象徴していた。ダカールの中心部に近い通りでも何度か馬車が走っている光景に出くわしたのにはいささか驚いた。「法律的には禁止されているんだが、仕事を求めて、田舎から出てくる人たちが絶えないから」と地元の人は語っていた。
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 セネガルは1960年の独立以来、クーデターも民族(部族)や宗教間の政権を揺るがすような衝突もなく、アフリカでは政治的に安定した国の代表格のような存在である。にもかかわらず、国連の規定ではいわゆる「世界最貧国」の一つとして数えられる。基本的には漁業、農業国であり資源に乏しいことも一因しているが、それでも過去半世紀が国民の暮らしを納得のいくほど豊かにしたとは誰が見ても言えないだろう。
 国民の暮らしを無視した政治の責任なのか。「我々はもっと一生懸命に働くという心構えを持つ必要がある」(会社経営者)と指摘される国民気質の故なのか。少し物悲しい気持ちで空港に向かった。
 (写真は上から、道路のわきでこの国の特産品、ピーナッツを炒る女性。高校生の少女。4人で立ち話をしていたのだが、カメラを向けると、2人は逃げてしまった。金曜日午後のイスラム教の祈り。モスクに入りきれず、あふれた人々は通りに敷物をして祈っていた。写真撮影は禁じられており、背後から撮影。通りを走る馬車)

「ウッジュ」は嫌よ

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 ハリファさんが自宅に招待してくれた。お昼のランチだ。もちろん二つ返事でOKした。ダカール市内の中心部にあるアパートの三階に彼の住まいはあった。ハリファさんは彼のお兄さんが借りているアパートに同居している。
 手ぶらでうかがうのははばかられたので雑貨店でジュースとビスケットを少々買って行った。ハリファさんの妻のロッハヤさんと義姉のキンネさんが笑顔で迎えてくれた。ロッハヤさんはハリファさんより4歳若い25歳。彼女は大学院で社会学を学んでいる。
 靴を脱いでカーペットが敷き詰められたリビングルームに。部屋の真ん中にビニールのシートが広げてあり、真ん中に食べ物を置いて、それを囲んで食事をすることが分かった。そのうちにいろんな男の人たちが加わってきた。この家で働いている人もいれば、その人の友人とかいう人もいた。
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 ご飯が出てきた。大きな鍋というか容器に入れられた食べ物だ。ドモダと呼ぶらしい。ライスの上に羊肉が入ったカレーのようなものがかけられている。皆がスプーンですくって食べる。うまい! 辛目のハヤシライスといった感じだ。
 それにしても、全く知らない人が来ても、いつもこうやって食べるのだろうか。ハリファさんが説明してくれた。「セネガル人は来る人は誰も歓迎します。我々の言葉ウォロフ語ではテランガと言います。英語だとhospitalityでしょうか。だから我々は食事を用意する時、誰が来てももてなせるように余分に作るんです」。なるほど、素晴らしい「おもてなし」の心だ。セネガルまで足を延ばして良かった。
 食事の後、ハリファさんらとしばし雑談。ハリファさんら一家は全員イスラム教徒。話題がイスラム教徒に許される4人の妻をめとる伝統に及んだ。私は女性陣に「夫がもう一人の妻を持とうとするのは嫌でしょう?」と質問した。そうしたら、三人とも大笑いして、「どうしてウォロフ語を知っているんですか。それも質問にぴったりの表現を?」と尋ねてきた。私はわけが分からず、え、一体何のこと?
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 私が言った英文は “You would not like your husband to have another wife, would you?” だった。この最後の「ウッジュ」というくだりが、ウォロフ語では「ライバル」を意味する表現で、二人目の妻は彼女たちにとって当然「ライバル」となるから大笑いしたのだという。いや、軽口をたたくことの好きな私もそこまでは承知していなかった。
 当然、女性陣二人の返答は「夫が二人目の妻を持つのは絶対嫌よ」だった。ハリファさんは「僕らはそれでもそうする権利は有しているけどね」と笑っていたが、新妻ににらまれて、そうするつもりは毛頭ないことを強調していた。
 (写真は上から、食事の光景。伝統に従えば、スプーンは使わず、右手でご飯をすくって食べる。レモンをかけると風味が増した。一家は屋上も借りており、その一角で羊を3頭飼っていた。来月にやって来るイスラム教の祝祭のタバスキ=犠牲祭=ではこのうちの1頭、牡の羊が食卓に上る。ハリファさんは我々の国では羊は運命を知っているようです、と笑った)

セネガル相撲

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 ゴレ島を歩いていて、面白い光景を見た。女の子が向かい合ってお互いの手を探りあい、そのうちにがっぷり四つになったかと思うと、投げの打ち合いになり、一人がしりもちをついた。そうしたら、もう一人が大喜びで「勝った、勝った」という感じで小躍りを始めたのだ。まるで相撲のようだなと思った。
 これがセネガル相撲との出会いだった。この国の主要言語、ウォロフ語ではベレという。素手で殴ることも許されるベレもあるようだが、私が興味を抱いたのは日本の大相撲に似た、相手を投げ倒し、両手両膝を地面につかせるか、尻餅をつかせると勝負がつくベレだ。
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 数日前からダカールのガイドをお願いしている学生のハリファさん(29)に案内してもらい、ダカールの数多いビーチの一つに足を運んだ。そこでは朝夕、若者がベレの一流レスラーを目指し、トレーニングに励んでいた。国内には4千人ほどがベレのレスラーとして登録していて、皆が「ブルランブ」と呼ばれる最高位を目指している。大相撲で言えば、横綱だろうか。プロの上級者のバトルとなると、テレビ中継もあり、体に身につけるお守りとか魔よけとかいった装身具なども見物だという。大相撲のように一瞬に勝負がつくものではなく、柔道で言えば組み手の探りあいのような時間が長々と続くとも聞いた。
 ビーチでは数え切れないほどの若者がそれぞれ50人程度のチームに分かれ、走り込み、うさぎ跳び、腕立て伏せなどをしていた。その数、千人ほどはいたであろうか。
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 近くにいた若者にベレの「本番」を見せて欲しいとお願いした。相撲とそっくりの激しい探りあいを経て、投げを打ち合い、片方の若者が右ひざを砂地につけた。相撲だったら、これで勝負ありだが、ベレではまだ決着しない。しばらく激しくやりあった後、片方が投げを食い、砂地に腹ばいにさせられた。これなら勝負あり。
 勝負を見守っていたアブドゥル・セクさん(22)は「毎日朝5時にはこのビーチに来て、3時間ほどトレーニングしている。午後は3時ぐらいから3時間ほど。プロになってこれまで2試合戦い、1勝1敗。ファイトマネーも出た。夢はもちろん、ブルランブになること」と話した。セクさんの身長は170センチ、体重85キロ。周囲の若者と見比べてもそう重量級には見えない。「大丈夫だよ。トレーニングでこれからもっと筋肉をつけるから」と意気軒昂だった。
 ハリファさんによると、セネガルではサッカーに負けないほど、ベレは人気のあるスポーツだ。「ベレは他にあてのない若者にとって、貧困から抜け出す手っ取り早い手段。だから、彼らはチームに所属し、体を鍛え、一流のレスラーになることを目指すのです」。日本ではかつて「土俵の下には金が埋まっている」と言われたものだが、セネガルでは「砂浜の下には金が埋まっている」といったところだろうか。
 (写真は上から、ビーチを走るベレのレスラーの若者たち。うさぎ跳びで足腰を鍛える。砂浜だからきつさは相当だろう。ベレの「本番」の稽古。相撲で言えば、差し手争いといったところか)

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