アフリカをさるく
枕を高くして
- 2010-11-10 (Wed)
- 総合
「当時はアパルトヘイト(人種隔離政策)を信じていました。そういう教育を受けてきましたし。白人と黒人が別々のコミュニティーで生きることがお互いの幸福、発展につながると思ってました」。南アの首都プレトリアで地質調査関係の公社に勤務するマニー・ブリナードさん(63)は振り返る。「今はアパルトヘイトがなくなって国民が等しく自由を享受することを素晴らしいと思います」
ブリナードさんはアフリカーンス語を母語として育った白人だ。一般的には英国系白人と異なり、アパルトヘイトを強力に推進したアフリカーナーとして見なされる白人グループに属しているが、そう呼ばれることは好まない。アフリカーナーという呼称に「保守」「頑迷」のイメージがあるからだ。「過去は過去。昔も今も南アを心から愛する南ア人の一人です。愛国心は黒人の人たちに負けませんよ」
アパルトヘイトが崩壊し、黒人が初めて選挙権を手にした1994年の総選挙後、多くの白人が南アに見切りをつけ、海外に移住する中、ブリナードさんは南アを去る気にはならなかったという。黒人政権が誕生しても、なんとかなると考えたからだ。「親しい友人や同僚で少なくとも20人以上が南アを去ったでしょうか。私の息子の一人もより良いチャンスを求めて英国に出ました。今は南アに戻ることを真剣に考え始めているようですが」
ブリナードさんにとって、最大の心配事は犯罪、治安の問題だ。仕事柄、アフリカ諸国を訪れることの多いブリナードさんは南アに帰国すると、インフラの整った祖国の快適さを実感する一方、白人に限らず、黒人を含めた富裕な階層の住宅が高い塀と電気が流れる鉄線で防御されている現実を憂慮せざるを得ない。ある程度富裕な人々が有刺鉄線やガラス片を上部に乗せた塀で囲まれた住宅に住むのは南アに限らずケニアやナイジェリアでも同様だが、南アの高級住宅街ではそれが徹底している。警備会社のパトロールカーが常時警備している地区も珍しくない。
ブリナードさんはプレトリアから西に35キロほどの白人が大多数の地区に住んでいる。世帯数にして400世帯ぐらいではないかという。住民有志で昨年初めから開始したのが、深夜から早朝にかけての夜警だ。参加しているのは約60人のボランティア。一晩に4人が当番となり、二人一組で午後11時から午前5時まで交代で地区内をパトロールする。ブリナードさんは「今晩は私が出番です。2週間に1回程度出番が回ってきます。誰かがいつもパトロールしていると思うと、夜もぐっすり寝ることができます」と語った。この夜警活動を始めて以来、地区内での犯罪の発生件数が格段に減ったという。
「最近、英国を3週間ほど旅行しました。ロンドンは夜遅くまで歩き回っても全然怖い思いをすることがなかった。都市は本来そうあるべきだと思いますが・・・」
(写真は上が、アパルトヘイトの非を今はよく理解すると語るブリナードさん。下が、ヨハネス市内でバスを待つ女子高校生5人。将来は何になりたいと尋ねると、弁護士、医師、会計士になりたいなどとにぎやかだった)
アフリカンドリーム
- 2010-11-08 (Mon)
- 総合
南アに来て以来、どうもパソコンのネットアクセスの調子が良くない。それで、ホテルの近くにある電器店に飛び込んだ。アジア系の風貌の青年が二人忙しそうに立ち働いていた。パキスタン人のイルファンさん(26)といとこのアルスランさん(21)。
事情を説明すると、UBSのモデムを勧められた。シムカードを交換すれば、世界中で使える便利なものらしい。私のパソコン用に諸々の作業をてきぱきと片付け、すぐに使えるようにしてくれた。おかげで随分スムーズにブログのアップができるようになった。
お店で見ていると、ひっきりなしにお客がやってくる。お店で売っているのは携帯電話やテレビ、パソコン、その周辺機器など。二人は次々に彼らの相談をさばいていく。お客が5人も入れば手狭に感じる程度の店だが、売り上げは良さそうだ。「そうですね。お互い、国の両親に十分仕送りするだけの稼ぎはあります」とイルファンさんは言う。
二人はパキスタンのラホール出身。イルファンさんは2005年8月に南アにやってきた。アルスランさんは昨年、後に続いた。「それはできればパキスタンで暮らし働きたいが、海外の方がチャンスがあるということです。別に南アでなくとも良かったのですが、友人がここで働いていましたし」とイルファンさんは語る。
「周辺の治安は私がやってきた5年前と比べれば、だいぶ良くなりました。ただ、ここで仕事をしていて、常に強盗被害の覚悟はしていますよ。無抵抗しか手がありませんが」と言って、イルファンさんは両手を掲げ、万歳の格好をした。閉店時にはシャッターを下ろし、頑丈な鍵をかけているが、通りに面したお店は武装した賊が入ってきたら、「防御」はほぼ不可能だ。幸い、二人の店はこれまでそうした強盗の被害には遭っていない。
南ア人の印象を尋ねた。イルファンさんは「お店では二人雇用していますが、南ア人ではありません。ジンバブエ人とマラウィ人です。南アの人はウーン、あまり一生懸命働かないですね。レイジー(怠惰)な人が多い」と語る。
南アの黒人が怠惰であるという批判はこの国を訪れて以来、彼ら自身の口からよく耳にする。一説によると、街中の露天で商売している黒人の多くがジンバブエやモザンビークなど周辺国から出稼ぎに来ている人たちであり、南ア人は少ないという。そうした黒人同胞は時に、一部の地元黒人から「仕事を奪っている」として襲撃の対象となる。テレビで朝のニュース番組を見ていたら、若い黒人女性が出ていて、「我々が黒人移民に反感を抱くのはお門違い。我々がレイジーであることをまず反省すべきだ」と語っていた。
経済だけに限定すれば、南アがブラックアフリカの同胞だけでなく、インドやパキスタンなどアジアの人々にとっても「アフリカンドリーム」を実現する国となりつつあると表現したら言い過ぎだろうか。「私にとってはアフリカンドリームですよ。実際の仕事も車の免許もここで身に付けることができたのですから」とイルファンさんは言った。
(写真は上から、イルファンさんたちが営む電器店。常連客も多いようだった。ヨハネス市内の露天。商っている人の国籍は私などには分からない)
CBD
- 2010-11-06 (Sat)
- 総合
ヨハネスブルクのCBD(Central Business District)と呼ばれるビジネス街を歩いた。アパルトヘイト(人種隔離政策)崩壊後の治安の悪化から、企業やオフィスがCBDから北の郊外にあるサントン地区に移った話は先に書いた。それでも、やはり、CBDがヨハネスを象徴する存在であることに変わりはない。
今泊まっているのはCBDに近い地区にあるホテル。真新しいネルソン・マンデラ・ブリッジを渡り、ほぼ真っ直ぐ歩くと、世界的な巨大資源企業として知られるアングロアメリカン社や銀行などのオフィスビルが並ぶメインストリートに出た。鉱山開発の歴史を伝える遺物が通り沿いに展示してあり、鉱山業の先駆者の功績も英文で紹介している。CBDを再び人が憩える活気のある街にという意図がうかがえる。雰囲気のいいカフェもあり、ランチを食べるオフィスワーカーの姿も見える。同じCBDでも先に書いたカールトンセンターの周辺は黒人が圧倒的だったが、この通り沿いは白人の姿も結構目立つ。ヨーロッパの都市のオフィス街の印象だ。
歩いていたら、何やら、通りの向こうから歓声が聞こえてきた。近づいてみると、デモ行進の一団だった。黒人の若者たちでその数約200人。行進を止めては、歌いながら踊る。複雑な踊りではないのだが、彼らのダンスにはいつもなぜか引き付けられる。
カメラを向けると、笑顔が返ってくる。切実な感じは伝わってこない。見物していた中年男性が「パートタイムで働く若者たちが役所から解雇通告を受けたことに抗議しているんだ。それに、この国にはレイバー・ブローカーと呼ばれる就職仲介業者が雇用主と彼らとの間に介在していて、業者の存在が搾取につながっているとも訴えている」と説明してくれた。
「彼らは今のズマ政権にも彼が率いる与党のアフリカ民族会議(ANC)にも不満が一杯なんだ。思いは私も同じだよ。信じられるかい。ズマ大統領の一族はこの国で130に上る会社を経営していて、巨万の富を手にしているんだよ」
こちらの取材意図を知ると、この中年男性は近くを親切に案内してくれた。「ほら、この建物、以前はオフィスビルだったのだが、会社がサントンに越したんで、今は住民のアパートだ。あのビルも同じ」。結局、彼はパークステーションという名のアフリカ最大と言われる駅の構内まで連れていってくれた。私は正直ここまでは一人で来る勇気はない。道中、歩いている白人の姿は見かけなかった。
南ア国内各地への列車や国境を越えて走る長距離バスが発着するパークステーションの中は思った以上にきれいで近代的だった。外の喧騒を知らずにいきなりここに連れて来られたら、ヨハネスの真っ只中にいるとは思えなかったかもしれない。
(写真は上から、メインストリートにあるアングロアメリカン社。雇用継続を訴え踊る若者たち。パークステーションの駅構内外。駅構内にはファーストフッドのレストランもあった)
ソウェトの変貌
- 2010-11-05 (Fri)
- 総合
ヨハネスブルクと言えば、ソウェトだろうか。南ア最大のタウンシップ(黒人居住区)である。タウンシップはアパルトヘイト時代の名称だから本来なら今では使うべきでないようにも思うが、この国自体で今も当然のように使用されている。
ソウェトはヨハネス取材では幾度となく足を運んだ。アパルトヘイト時代には白人が最も恐れた世界でもある。私は白人ではないが、ここを取材で訪れる時には「勇気を奮って」出かけたものだ。当時、案内人を雇って訪れるということは頭に浮かばなかった。
さて、今回は事情が異なる。なにしろ、今では、ヨハネスからソウェトに観光バスが走る時代なのだ。私がホテルで待っていると、大きな乗用車がやってきた。運転者はガイドを兼ねた30歳代のベンさん。私のほかにはオランダ人の女性の観光客2人。出発!
「ソウェトはヨハネスで1886年に金鉱が発見され、鉱山で働く黒人労働者が市内から追い立てられて出来た居住区です。ヨハネスの約22キロ南西部に位置し、south western townshipですから、Sowetoと呼ばれるようになりました。面積は約160平方キロ。正確な人口は誰もわかりませんが、250万人以上でしょうか。今も国内外から仕事を求めて人々がやってきています」とベンさん。
最初に訪れたのは1976年の「ソウェト蜂起」で知られるオーランドウエスト。アフリカーンス語の教育に抗議して児童・生徒が決起した事件で、アパルトヘイトの実情を世界に知らしめる契機ともなった。この事件で警察の発砲で死亡した少年の名前を取った記念館が2002年にオープン。当時の南ア社会がビデオや写真などで紹介されていた。
驚いたのは、周辺部がきれいに整備され、木工品や絵画、アクセサリー品などの土産物のお店も道端に並んでいたことだ。観光バスや観光客が乗ったタクシーが次々にやってくる。「多い日には1日に3千人ぐらい来ることもあります」とベンさんは言う。
続いて、近くのヴィラカズィ通りにあるマンデラ氏がかつて住んでいた家を訪ねた。この家も今は記念館として観光スポットになっていた。私は1990年2月にこの家で釈放8日後のマンデラ氏に単独会見しているのだが、とても同じ家とは思えないほど「立派に」なっていた。ヴィラカズィ通りを少し下るとデズモンド・ツツ元大主教の家もあり、ベンさんは「この小さな通りはギネスブックものなんです。なにしろ、二人のノーベル平和賞受賞者が住んでいたんですから」と誇らしげに語る。なるほど。
我々が見学したのは観光客用のソウェトであって、本当は「悲惨で危険」なところもあるのだろう。それでも、「9つのショッピングセンター、78の高校、世界一でかい病院のある」(ベンさん談)ソウェトの変貌には目を見張った。「上院議員時代のオバマ米大統領も案内した」というベンさんのガイド料金は400ランド(約4400円)だった。
(写真は上から、ソウェトの比較的富裕な層が住む住宅街。ソウェト蜂起の記念館にやってきた観光バス。フランス人の一行だった。貧困層が住む一角。コンクリート管のそばにある出っ放しの水が唯一の水道源だという)
歴史をひも解くと
- 2010-11-03 (Wed)
- 総合
南アフリカはアフリカ大陸にある53か国の一つに過ぎない。この国だけを「特別扱い」するわけにはいかないのだが、とはいえ、アパルトヘイト(人種隔離政策)で白人少数派が多数派の黒人を長く「合法的に」隷属させてきた国であることに加え、金やウラン、ダイヤモンドなどの地下資源に恵まれ、アフリカ一の経済大国でもある。
南アの歴史を大雑把に紹介すると、南アに最初のヨーロッパ人がやってきたのは1652年で、オランダ人のヤン・ファン・リーベックという人物だった。オランダ人入植者たちは後に加わったフランスのユグノー(カルバン派新教徒)らとともに南端のケープ州にコミュニティーを形成した。彼らは自分たちをアフリカーナーと呼び、オランダ語が独自に変化したアフリカーンス語を話すようになった。
そこに遅れてやってきたのが英国。国力に勝る彼らはアフリカーナーの人々を内陸部に追いやった。内陸部にはズールーやコザなど黒人部族が住んでおり、英国、アフリカーナー、黒人勢力という三つ巴の対立関係が生まれた。英国が最終的にアフリカーナーとの戦いに勝利し、1910年には英国自治領としての南ア連邦が誕生。しかし、英国の支配を憎悪するアフリカーナーはアパルトヘイトを掲げる国民党に結集し、数の力で政権を奪取し、61年には共和国を設立する。歴代の国民党政権は黒人社会を隷属的位置に永久に封じ込めるため、さまざまな人種差別の悪法を制定していった。黒人が白人の学校で学ぶことや白人居住区に住むこと、白人と結婚することを禁じた法律などだ。アフリカ諸国が60年代以降、次々に独立する中、南アは白人至上主義が生き続けた。
私がこの国に初めて取材で訪れたのは1987年5月のこと。ネルソン・マンデラ氏はまだ獄中にいたし、彼が率いる現与党の黒人解放組織、アフリカ民族会議(ANC)は非合法化されていた。南アは当時、人口約3,300万人。このうち8割近くが黒人であり、白人は400万人、残りはカラード(混血)やインド系の人々だった。日本人は「名誉白人」の扱いを受けており、時に困惑するような場面に出くわすこともあった。
タウンシップ(黒人居住区)と呼ばれていた地区を歩いていたら、乾いた目をした黒人の若者のグループに囲まれ、「あんたは名誉白人だろ。白人と黒人、どっちの味方なんだ?」と詰問されたこと。取材で知り合った黒人男性をヨハネス市内の中華レストランでご馳走していたら、離れたテーブルにいた数人の白人男性からねめつける視線を浴びたこと。
アパルトヘイトの諸法律は1990年以降、廃止され、ANCも合法化され、1994年4月の初の全人種参加の総選挙では予想通りANCが圧勝し、マンデラ氏が大統領に就任、あれから16年が経過する。ヨハネスや南アの都市部の治安悪化が海外でも知られるのは、南アの民主化後、社会の「上澄み」に属する同胞だけが富裕になる一方、仕事のない多くの黒人は貧困のままで、不満を募らせ犯罪に走るというお決まりの「図式」からだ。
(写真は上が、ヨハネス市内の通り。下が、野菜や果物を売るマーケット。ジャガイモの一盛りが5ランド=約55円=だった)
ヨハネス点描
- 2010-11-02 (Tue)
- 総合
「ここは南アのニューヨークみたいなところなんだよ。良く来たね。いいことも悪いこともここで全部起きるんだよ」。ヨハネスブルクの中心街に隣接するヒルブロウ地区の露天の食堂でお茶を飲んでいた中年の黒人おばさん3人組が愉快そうに私に言った。
「なるほど。いい表現だ。それで悪いことというのはどういうことなの?」と尋ねると、彼女たちは私の質問は意にも介さない風に自分たちの話題に戻った。
ヨハネスの中心街に足を運んだ。幸い、ホテルが呼んでくれたタクシーの黒人運転手のメル氏は「昼間だったら、何の問題もない。俺が保証する。ヒルブロウだって、めったに行ったことのない人たちが危ない、危ないと言っているだけだ。俺はいつも車を走らせているからよく分かっている」と頼もしい言葉を発するではないか。
ヨハネスの中心街は特派員時代には、南ア取材の際には常宿にしていた地区だ。新聞記者でも泊まれた高級ホテルがあった。日本食レストランも数軒あり、それも楽しみだった。人通りの多い通り沿いに常宿にしていた「カールトンホテル」という文字がビルの最上階に見えた。「あ、ここだ、ここだ」と懐かしい思いで車を降りた。しかし、どうも様子がおかしい。警備員の黒人の若者に尋ねると「ホテルはずっと閉まっているよ。いつからか?そんなこと知らないよ。俺は3年前からここで警備員しているけど、その時から今の状態だ」と怒ったように言う。
隣の「カールトンセンター」と呼ばれるショッピングモールにしばしたたずみ、行きかう人々を眺める。たまに白人の姿も見かけるが、圧倒的に黒人の人たちだ。20年前はどうだったか定かには覚えていないが、これだけ黒人の人たちが圧倒的に行きかっていた記憶はない。周辺の通りも圧倒的に黒人の姿ばかりだ。そばからメル氏が口をはさむ。「確かに白人はこの一帯から逃げ出したが、最近は彼らも戻り始めてきているよ。ほら、あそこを歩いているのは白人女性だろ」
ヒルブロウにあるスーパーをのぞいて、責任者に治安の状況を尋ねた。「6、7年前が最悪だったかな。今はだいぶ良くなった。ヒルブロウは近年はジンバブエからの出稼ぎがすごく多いんだ。そのこともあってか、あまり物騒な事件は起きなくなった感じだ」と言う。
かつての中心街から北のサントン地区に車を走らせると、そこは大きく異なる世界だった。ヨーロッパの都市と遜色ない高級ブランドのお店やしゃれたレストランが並ぶショッピングモールに超高級ホテルがそびえ、海外からの観光客を含め、白人の姿が目立った。
ただ、人間的な温もりを感じたのは、サントン地区ではなく、私のような「侵入者」をそう不思議がらずに受け入れてくれるヒルブロウの方だった。油断していると、持ち物をかっさらわれる危険がある地区であることは重々承知してのことだが。
(写真は上から、カールトンセンターのショッピング街。賑わいはサントン地区をしのぐ印象だった。ヒルブロウの露天の食堂のお客さん。サントン地区にあるマンデラ氏のブロンズ像。94年の完成。観光客が喜んで記念写真を撮り合っていた)
南ア再訪
- 2010-11-01 (Mon)
- 総合
ついにやって来たという感慨がある。多少大げさな印象を与えるかもしれないが、私の正直な心持ちを記すとそうなる。アフリカの最南端、南アフリカ。私が読売新聞ナイロビ特派員時代に最も足繁く訪れ、最も記事を書かせてもらった国である。
そして何より、あのネルソン・マンデラ氏が27年に及ぶ獄中生活から解放された8日後に単独会見することができた思い出の地である。1990年2月19日。あれから20年の月日が流れている。今年6月にはサッカーのワールドカップが開催され、南アの変容の一端はテレビを通し、けたたましいブブゼラの音とともに垣間見た気もするが、果たして現実の南アはどう変わったのだろうか。
ナイロビから南アの表玄関、ヨハネスブルクまでの飛行時間は約4時間半。時差が1時間あるため、午前8時過ぎに離陸したケニア航空機はお昼少し前に到着した。「オリバー・タンボ国際空港に間もなく着陸します」との機内放送を耳にして、時代の変遷を実感した。アパルトヘイト(人種隔離政策)時代にはこの空港は「ヤン・スマッツ国際空港」という名称だったのだ。スマッツ氏はアパルトヘイト政策を推進した白人の豪腕首相であり、タンボ氏はマンデラ氏とともにアパルトヘイトを打倒した黒人指導者だ。
その空港は20年前と比べてもさらに立派になっていた。日本から直接訪れた人はヨーロッパの空港と思うかもしれない。ワールドカップに合わせ、諸設備や内装などに磨きがかけられたのだろう。それは、空港からホテルに向かった道路でも感じた。途中から片側5車線の道路に出たが、タクシーの運転手のダイアナさんは「この区間は平日でもほとんど混雑しないわ」と言う。「昔はあなたのように女性で黒人のタクシー運転手がいたかどうか記憶にないな」と水を向けると、「そうかもね。私は夫と二人でタクシー会社を経営しているわ。他に従業員はいないけど」と語る。
話題は自然とヨハネスの治安の悪さになった。ダイアナさんは「お客さん、気をつけてね。タウンにはあまり行かない方が無難よ。こういう仕事だから自宅には車はあと2台あるけど、うち一台が二か月前に車上荒しにあって窓ガラスを叩き割られ、カーラジオを盗まれたばかりよ。修理費が痛かったわ」と嘆いた。
彼女が言う「タウン」とはヨハネスのかつての中心街で、この国を取材に訪れた際には必ず、この「タウン」にあるホテルに投宿していた。日本企業を含めた欧米の企業も事務所を構えていたが、皮肉にも1994年のアパルトヘイト崩壊を機に「タウン」は治安が悪化、今はそうした事務所やショッピング街は北部郊外のサントン地区に移っている。
そういう次第で投宿したのはサントン地区に近いリボニアにあるコテッジ風のホテル。B&Bと呼ばれる「朝食付きの宿」だが、調度品や設備はこれまででベストだ。
(写真は上が、リボニアのホテルがある地区は「検問所」があり、外部からの通行、車の進入が24時間警備されている。下は、地区内の住宅はどれも富裕層しか住めないと思われる豪壮な邸宅ばかりで、警備は厳重、「不法侵入すると犬に食われるよ」との警告も)