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アフリカをさるく

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帰国してみたものの

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 アフリカでもできるだけ昼飯を抜く生活を続けている。1日1食を長く実践している高校時代の先輩から3年前に「昼飯ぐらい食べなくても死にはしない」と勧められて以来、体重が気になる自身に課している食生活だ。最近は効果がうせてきたが。
 ただ、こういう旅をしていれば、地元の人がどういうランチを食べているか気になるので、時々は朝飯を抜いてお昼時のレストランやカフェをのぞいている。ヨハネスブルクの中心部のオフィス街のカフェにお昼時に立ち寄ってみた。
 ガラス越しに食べたいものを注文してプラスチックの容器に入れてもらい、レジで勘定を払うシステムのカフェだった。ピザやホットドッグもあったが、ライスが見えると、やはりそちらに目が行ってしまう。ライスに野菜のごった煮のようなものとビーフシチュー、サラダを一つの容器に盛ってもらう。ミネラルウォーターを含めて35ランド(約400円)を支払い、店の外の歩道に面したテーブル席を探した。あいにくすべて先客がいる。
 中年の男性が一人だけ座ったテーブルには空いた席が二つある。「相席していいですか?」と声をかけると、「どうぞ」との返事。ランチの写真を撮り、食べ始めると男性が「観光ですか?」と尋ねてくる。「みたいなものです」と答え、会話がスタート。銀行に勤務しているという男性の語った話はこれまで出会った南ア人の中で最も悲観的なものだった。
 「私は南アが民主化された翌年の1995年にカナダに移住しました。12年間向こうで働きましたが、天候に嫌気がさして3年前に帰国。積極的理由で帰国したわけではありません。自分は独身で子供もいない。家族がいたら、戻ってきませんでしたよ」
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 「カナダで暮らしていて、南アが良くなったのではという漠然とした思いがありました。ところが、帰国してみると、汚職まみれのこの国の状況は全然期待外れでした。我々白人には未来はありません。やがて黒人政権から追い出されるだけです。私は銀行業務のベテランですが、黒人政権には私のような白人を活用する意欲は全くありません。これからも白人の頭脳流出は続きますよ」
 物静かに憤るこの男性はアフリカーンス語を母国語として育った白人。アパルトヘイト(人種隔離政策)時代の南アの復活を望んでいるわけではない。ただ、過去16年の黒人政権の政治に大きな失望感を隠せないのだ。「今この国の最大の問題は二つ。治安の問題とBEEです。私は白人という理由だけで新しい仕事を探すのは大変です。もうそろそろ平等にすべきです」とも語った。BEEとはBlack Economic Empowerment(黒人経済強化策)と呼ばれる黒人など非白人を優遇した政府の雇用経済政策のことだ。「私は来年3月で60歳になります。あと5年ほど働いたら、治安のいい南のケープ州のどこかに越して暮らしたいと考えています。あくまで希望ですが」
 男性の話に耳を傾けていたら、食欲もうせてしまった。おまけに食べても尽きないビーフの塊はあまりうまいとは言えず、途中でギブアップ。ご飯粒だけは何とか片付けた。
 (写真は上が、カフェでウーンどれにしようかなと思案するお客。下が、私のランチ)

マーケットシアター

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 南アを取材で訪れるとよく行っていた場所がある。CBDに近いパークタウンという地区にある劇場、マーケットシアターだ。アパルトヘイト(人種隔離政策)時代の1980年代末、ヨハネスブルクで白人と黒人が舞台の上で、そして観客席や劇場内のレストランやバーで何の違和感もなく触れ合うことができる数少ない場だった。
 マーケットシアターで私は遅ればせながらも、劇場に足を運び、ミュージカルやストレート・プレイ(straight play)と呼ばれる劇などを観る楽しみを身につけたような気もする。観客はやはり圧倒的に白人の方が多かった。87年の時期は忘れたが、ここで観た「サラフィナ」というミュージカルでは、黒人の男女の若者たちがアパルトヘイトの非道さを見事なダンスや歌で「告発」し、それを白人観客がじっと見つめていたことを思い出す。
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 マーケットシアターが誕生したのはその「サラフィナ」が描いた、黒人居住区のソウェトで若者たちがアパルトヘイトの教育に抗議した蜂起事件が起きた1976年のこと。この劇場から多くの名作が生まれ、その名を世界に知らしめた。だからこそ再訪を楽しみにしていたが、残念なことに、当時の熱気というか雰囲気は遠くうせていた。アパルトヘイトそのものが消滅したわけだから、それはそれで仕方のないことではあるが。開演を前に劇場内のレストランで食事をしていたら、ウエイターの一人が「最近はここも客の入りがぱっとしなくて寂しい。僕らは客のチップが頼りの商売だから」と嘆いていた。
 地元紙で長くアートを担当してきた劇場専門記者のアドリアン・スィシェルさんにアパルトヘイト崩壊後のシアター事情を尋ねてみた。「黒人政権が出来て、政策も変わり、劇場に関わる人も変わり、風景はだいぶ様変わりしました。マーケットシアターはいい作品を創造しようとパイオニアのような人々が集った劇場だった。そういうスピリットはあそこにはもうありません」と彼女は語った。
 「アパルトヘイト時代は政府が作家や俳優、ダンサーを支援し、彼らには年金も社会保険もあった。今はマーケットシアターなど劇場に対する支援はありますが、作家や俳優などに対する支援はなくなりました。大学や専門学校を出て演劇の道に進みたい若者はどうするか。テレビのメロドラマの世界に進むのが手っ取り早い方法です」
 「それにこの国には昔はなかったものがあります。ギャンブルが認められたことです。今は多くのカジノがあります。そうしたカジノは劇場を併設しています。ヨハネス郊外にあるモンテカシノに一度行ってごらんなさい。今は『マンマ・ミーア』というミュージカルをやっているはずです。キャストは全員南ア人で、素晴らしい作品ですよ」
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 南アの劇場の風景が様変わりしても、そのレベルの高さは今も昔も変わらない。アドリアンさんによると、毎年7月に南部のグラハムズタウンで催される恒例のアーツフェスティバルは英国のエディンバラ・フェスティバルに匹敵する文化の祭典だという。
 (写真は上から、マーケットシアター。この外観は変わりがない。開演のベルで劇場に向かう観客。近くで見かけたビルの外壁に描かれた壁画。この一帯はアートの「香り」が漂う)

「一食卓、いや、一緒くたにしないで」

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 欧米やアジアに限らず、アフリカでも日本食レストランは人気だ。日本人が経営していなくとも、日本人シェフがいなくとも、日本語や日本語を連想させる名前のレストランが繁盛している。地元の人たちは日本人が絡んでいるレストランだと信じて暖簾をくぐっているのだろう。お寿司はそうしたレストランには欠かせないメニューとなっている。
 ただし、日本食レストランは地元のレストランと比較して値段が高いこともあり、アフリカの普通の人々にとっては気軽に足を運べる場ではないようである。この点は昔も今も同じだ。
 南アの最近の新聞を読んでいると、いわゆる成金の実業家が催した誕生日パーティーで招待客に「女体盛り」をご馳走。総費用が約800万円だったこともあり、ひんしゅくを買っているという記事があった。”nyotaimori” (female body presentation or body sushi) と紹介されていた。半裸の女性モデルを使って饗応したのだという。そうしたら、今度は派手好きの女優が自らの送別パーティーで上半身裸の男性モデルを寝かせ、「男体盛り」を披露したとの記事が出ていた。”nantaimori” (male body presentation or body sushi) と表現されている。
 上記の記事を読んでいて、あまり気持ちのいいものではなかった。日本の食文化を冒涜されたような思いがしたからだけではない。もちろん、日本でそうしたお寿司の食し方が一般的に行われていると誤解されてはたまらない。
 不快感はもっと別のところにある。南アの新聞はほぼ連日、コラプション(汚職・腐敗)疑惑や、政治的にコネのある若者の華美な生活を取り上げている。アフリカの他の国々でもそうした記事はあるのだが、この国は今その「深み」が異なるような気がしてならない。マポーニャ氏が一蹴したように「やがて克服される醜聞」であればいいのだが。
 (写真は、「男体盛り」のお寿司パーティーを報じた新聞記事)

モファットのこと㊦

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 「ナス、あんたはモファットがロベン島にいたことを知っているんだろ」とズング夫人は昔の写真や新聞記事を見せながら話をしてくれた。「いや、知りませんよ」
 「そうかい。あの人はそういうことは人に話さない人だったからね。私自身も獄中で経験したこと、拷問のことなど、思い出したくもないからね」
 ズング夫人が語ったくれた話によると・・・。二人は結婚前から反アパルトヘイト(人種隔離政策)のパン・アフリカニスト会議(PAC)という組織に属していた。1976年にソウェト蜂起が起き、国内が騒乱状態に陥った時、モファットは勤務していた黒人読者が対象の「ワールド」紙(現ソウェタン)のカメラマンとして活躍、アパルトヘイトのむごさを黒人若者と警察や軍の衝突の現場から欧米に報じていた。夫人は国内の若者をスワジランドなど周辺国に送り込み、PACの武闘部門の要員を育てることを担っていた。PACは現政権党のアフリカ民族会議(ANC)と袂を分かったグループだ。
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 1977年、警察に捕まった仲間の自供から夫人は警察に連行される。モファットは夫人の逮捕を知った新聞社の上司から「車を用意した。すぐに国外に逃げろ」と勧められるが、「妻を置いて逃げるわけにはいかない」と警察に自首する。モファットは79年にテロリズム法違反で7年間の懲役刑を受け、ロベン島に送られる。ズング夫人はほぼ1年後に釈放されるものの、その後も2回、投獄される。「私たちには2人娘がいて、私たちも大変だったが、娘たちの精神的苦しみも相当だったと思うわ」
 モファットは86年に釈放され、以前に勤めていた新聞社のカメラマンとして復帰する。彼が私に語った「俺たちは十分苦しんだ。近所の人たちはそれを知っている」とはそういうことだったのだ。
 ズング夫人に改めてモファットの年齢を尋ねた。彼は1936年1月生まれ。前立腺がんで5年前に死亡した時は69歳だった。夫人は43年2月生まれで67歳。
 「モファットはアパルトヘイト崩壊後の黒人政権をどう見ていましたか?」
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 「そうね。少しがっかりしていたわね。だって、アパルトヘイト時代と変わらず悲惨な生活を余儀なくされている人たちが変わらずいるのよ。政権上層部の腐敗はすさまじいものがあるし。ソウェトの若者もほとんどが仕事がないのよ。私は今ここで恵まれない人たちのため野菜を栽培するプロジェクトを手がけているのだけど、政府からの支援は全くない。アパルトヘイト時代は海外からの支援があってよっぽど良かったわね」
 こんなものがあるのよと夫人が私にリーフレットを手渡してくれた。南ア民主化の貢献者(故人)を顕彰する民間の制度が今年からスタートしたのだという。来年の表彰予定者17人の中に、モファット・ズングの名前が輝いて見えた。
 (写真は上から、モファットが7年の懲役刑を受けたことを示す判決証明書。夫人は今も財布の中にしまっていた。モファットの逮捕を報じる当時の新聞記事。近くを散歩していたら、違法のさいころ賭博に興じる若者たちを見かけた。彼らのほとんどが無職だった)

モファットのこと㊤

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 南アでは幾人か忘れがたい人がいて、今回の再訪で再会を楽しみにしていた。モファット・ズングもその一人、だった。彼の電話番号などを記した手帳をなくしていたので、彼がかつて勤務していた新聞社に電話を入れた。実は名前もうろ覚えだった。
 「ハロー。私は日本から来ているフリーランスの記者です。おたくの新聞社で勤務していたカメラマンと昔親しくしていました。だいぶ昔の話ですが、名前を聞けばすぐに分かります。小柄でがっしりした体格の男で今はもう定年で辞めているかと思います」
 「モファット・ズングのことですか」「そうそう、その人です。どうやったら会えますか」 「私たちは5年前に彼を埋葬しました」
 私は絶句した。ああ、そうなんだ。電話口の人は「ズング夫人なら会えますよ」とも言った。私は夫人も知っている。アパルトヘイト(人種隔離政策)で白人はソウェトの黒人居住区に足を踏み入ることはできなかった当時、モファットが「黒人居住区の実態を味わえ」と私を彼の自宅に連れて行ってくれたからだ。
 「大丈夫かい。私があなたの家に行くことで、隣近所の人たちにあやしまれたりしないかい。迷惑をかけたくないし、僕自身、不安だから」と念を押す私に、モファットは「心配するな。俺たちはもう十分苦しんできた。近所の人たちはそれを承知している。誰もお前さんに手などかけないよ」と言った。その時は愚かしくも私はそれ以上、尋ねることをしなかった。
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 当時はアパルトヘイトが3年後の90年には瓦解を始め、さらにその4年後の94年には黒人政権が誕生することになるだろうとはとても思えなかった。ソウェトでは白人政権に協力を疑われた黒人の人たちが同胞から時に殺害されていた緊迫した時代だった。
 ズング夫人の携帯に電話をかけた。彼女は「おお、ナス、あんたのことは良く覚えているよ。モファットは死んでいないが、家においで。覚えているだろ?」と喜んでくれた。私はアフリカでショウイチではなく、ナスがファーストネームだと思われて、そう呼ばれることが多い。覚えやすいのだろう。20年もそう思われていては、いまさら、「ショウと呼んでくれ」とは言えない。「ミセス・ズング。モファットのことは残念ですが、彼のお墓ぐらい参らせてください」。「何でもっと早く連絡をくれなかったのかい。ヨハネスのホテルは高いだろ。家に来ればただで泊めてあげられたのに。早く来なさい」
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 そういう次第で今週末をズング邸で過ごすことにした。ズング邸は私が知っていた当時より拡張され、外装も一新、快適な家になっていた。「たいしたことないわ。リビングルールやバスルームは確かに新しくしたけどね。モファットがいなくなって寂しいから、今は孫娘の一人が時々遊びに来てくれるわ」とズング夫人は話し始めた。
 (写真は上から、ソウェトのズング邸。今もとても元気なズング夫人。近所の子供たち。楽しそうに遊ぶ声が開け放した戸口から聞こえてきたので、写真を撮らせてもらった。子供はこうあるべきというくらい無邪気で、私以上に喜んで撮らせてくれた)

黒人富豪㊦

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 ソウェトの大富豪、リチャード・マポーニャさんは妻のマリナさんがネルソン・マンデラ氏のいとこという関係もあり、古くからマンデラ氏とはとても親しい間柄である。マポーニャさんが「マンデラ氏の運転手だった」と解釈されている向きもあるが、実際にはマンデラ氏が1990年2月に釈放され、ケープタウンからヨハネスに戻って来た時、彼は数日間、「光栄この上ない」(マポーニャさん)運転手の役割を買って出ただけに過ぎない。
 「マンデラ氏が釈放される1か月ほど前に彼から会いたいという連絡があり、ケープ州の刑務所に面会に行きました。そこで、リチャード、君は車を持っているね、僕は近く釈放されそうなんだ。車をなんとかしてくれないかと相談を受けたんです」
 マポーニャ氏は黒人の群衆がソウェトのスタジアムで英雄を迎えた歓喜を「いや、あんな怖い経験は初めてでした。彼らはマンデラ氏の体を触ろうと近づいてきた。私は群衆の圧力でマンデラ氏が殺されるのではないかと心配しました」と振り返る。「マンデラ氏は神からの贈り物だと私は思っていますよ。彼がいたから、南アはアパルトヘイト(人種隔離政策)後の破局、混沌から無事に抜け出すことができた。あんな人はほかにいません」
 「マポーニャさん、久しぶりに南アを訪問して残念なのは、与党のアフリカ民族会議(ANC)の政権上層部に関する汚職、腐敗の疑惑が連日、新聞などで報じられていることです。あなたは裸一貫でアパルトヘイト政権と対峙して冨を築いた。だから、黒人大衆から尊敬もされている。彼らとは違う。寂しいことだと思いませんか」
 「それはおっしゃる通りです。彼らはかつて見たこともない金を見て目がくらんでいるのでしょう。そのうちに克服される問題ですよ」。この一点に関しては疑問があるが、あえて異議を唱えなかった。
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 「マポーニャさん、ネットの情報だとあなたは1926年12月生まれです。来月には84歳になりますね」と確認すると、彼は「それなんですがね、これもアパルトヘイト時代の名残なんですよ」と苦笑しながら説明してくれた。「私は本当は1920年生まれなんです。ヨハネスに田舎から出て来た時、警察に捕まり、農場に売られることになったんです。その時、警察官が私の誕生証明書に記されている生年月日の1920年の最後の0に余計な線を入れて6にしたんです。他の書類は全部捨てられました」
 「そうなんですか。少しでも若い男の方が高く売れるということだったんですかね」
 「それで今、弁護士に依頼して、当時の公文書の類を探し出し、私の誕生日を正す作業を進めているところです。お金がだいぶかかるみたいですが、仕方がない。だから私は来月24日の誕生日が来れば90歳です。この話、信じられますか?」
 「はあ、それだと92歳のマンデラさんとたいして違わないですね」
 「そういうことです。わはは」。マポーニャさんはまた愉快そうに笑った。
 (写真は上が、穏やかに語るマポーニャさん。間もなく90歳とは思えない偉丈夫な人だ。下が、プールとテニスコートのあるこの家には5年ほど住んでいるという)

黒人富豪㊤

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 ソウェトの大富豪、リチャード・マポーニャさんの邸宅はヨハネスブルク郊外のハイドパークにあった。側壁の向こうに豪邸が垣間見える高級住宅街の通りにタクシーが入ると、検問所があり、警備員が誰何する。マポーニャさんに面会の約束があると告げると、門扉を開けて車を中に入れてくれた。
 彼に会うのはこれが二回目。最初は1987年の年末だった。勤務していた新聞の国際面の正月企画で彼の自宅を訪ねた。23年ぶりの再会だ。失礼ながらまだ生きておられるとは思わなかった。どこかで彼の訃報のニュースを目にしたような記憶があったからだ。
 ヨハネスに到着した数日後、「ソウェタン」という主に黒人読者を対象とした新聞を読んでいて、彼の元気な写真が載った記事が目に入った。取材の意向を伝える際に「あなたはもうこの世にいないと思っていました」と正直に言うと、「わはは」と愉快そうに笑って会うことを快諾してくれた。
 マポーニャさんの人生は経済人としての反アパルトヘイト(人種隔離政策)闘争でもある。北部トランスバール州に生まれた彼はもともと教師になるつもりでヨハネスに出てくるが、ふとした縁から商売の道を選択し、アパルトヘイトの厚い壁に幾度も阻まれながらも、その才覚からやがてソウェトで頭角を現していく。私が最初に取材した時にはスーパーマーケット3軒、ガソリンスタンド兼整備工場2軒、酒店4軒を営み、黒人ビジネスマンのパイオニアとしてその名は南アで広く知られていた。
 それはマポーニャ氏が単に個人的利益をのみ追ったからでなく、黒人商工会議所を設立するなど黒人同胞のためにも尽力していたからだ。また、アパルトヘイトの根幹を成す集団居住法にも敢然と挑戦し、本来なら黒人が住めない白人居住区に豪邸を買って住むなど「行動力」にあふれた人だった。
 その彼が長年の夢として温めてきたのが、世界のどの都市に出しても胸をはれるショッピングモールの建設だ。ソウェトに今それがオープンしていた。「マポーニャモール」。80年代末にソウェトを取材した身から見れば「夢のような施設」に映った。私が足を運んだのは水曜日の午前10時過ぎ、カフェでコーヒーを飲みながら行きかう笑顔の人々を眺め、時の流れを思った。「夕刻になればすごい人出ですよ」と隣に座った人が言う。
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 「一つ屋根の下でブランド物から衣料品、化粧品、食料品、すべての買い物ができます。3年前のオープン以来順調に売り上げを伸ばしています。テナントの数は200以上。モール内で少なくとも1500人が働いているでしょう。地域に貢献できてこんなにうれしいことはありません」とマポーニャさんは語った。彼には息子が3人、娘が5人いる。「子供たちの何人かは私のビジネスに参画しています。これからあそこにはスポーツジムも建設する計画ですし、南ア各地に新たなモールも作っていく予定です。私に定年はありません。神に召される最後の日まで南アのために働き続けるつもりです」
 (写真は上が、ソウェトのマポーニャモール。2階のフロアにはシネマコンプレックスもあった。下がアイスクリームをほおばる姉弟。右にいた父親を写すのを忘れた)

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