- 2010-08-30 (Mon) 19:05
- 総合
キガリに着いた翌日、やはり最初に訪れたのは、キガリメモリアルセンターだ。94年のジェノサイド(大虐殺)を記録してある資料館で、悲劇から10年後の2004年にオープンした施設だ。
丘の斜面にあるこじんまりした二階建ての建物で地味な印象がした。入場料は無料。受付で英語の案内録音が聞ける携帯電話機のようなものを5000ルワンダフラン(以下FRW)で借りる。(私の計算だと100円が約640FRWだろうか)
1階部分がルワンダ・ジェノサイドの紹介コーナーとなっていた。ルワンダにヨーロッパの列強が本格的にやって来たのは1895年のことで最初ドイツが入植、続いてベルギーが足を踏み入れ、ルワンダはベルギーの植民地となる。壁にかかった説明文の冒頭にある ”We did not choose to be colonized.” (我々は植民地となることを欲したわけではない)はアフリカのほぼすべての民のつぶやきでもあろう。
ルワンダがフツ、ツチの二つの民族(部族)から構成されることは前回述べたが(ピグミーであるトゥワ族もごく少数派として存在)、植民地となるまでは、「我々はone peopleであった」と述べてもいる。ベルギー政府は少数派で放牧民のツチを重用し、多数派の農耕民のフツをツチより劣る人々と見なした。しかし、この区別もいい加減なもので、例えば、「牛を10頭以上所有していればツチ、それ以下ならフツ」というような物差しで判定されたという。
ベルギーの統治により、二つのコミュニティーにあった確執が急激に悪化し、1962年の独立後に成立したフツ族の政権は絶えずツチ族をスケープゴートにしてきたため、政情不安になるたびにツチの人々はフツのテロ行為の犠牲になってきた。それが一挙に狂気の沙汰に爆発したのが94年4月―7月に起きたジェノサイドだ。直接のきっかけは独裁的大統領で自らツチの粛清の陣頭指揮に当たっていたハビャリマナ大統領の乗った飛行機がキガリ空港着陸直前に何者かに撃墜され、死亡した事件。誰の犯行か今日に至るまで不明だが、ツチの反体制派組織の犯行に見せかけ、ジェノサイドを正当化するために仕組まれた事件との見方も消えていない。
いけない、話が段々硬くなってきた。でも、この歴史を述べなければ、なぜ昨日まで隣人、親類として親しく行き来していた普通の人々が信じられない殺戮の加害者となり、被害者となったのか説明できない。センターで見た殺戮の現場写真、犠牲になった幼い子供たちの笑顔が浮かんできて、なんか息苦しくなったので、この続きはまた後で。
(写真は、キガリメモリアルセンターの正面写真。欧米からの観光客の姿が多かった)
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Comments:2
- nasu 2010-08-30 (Mon) 19:27
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過去の話に質問風のコメント寄せていただいて方へのお返事です。遅くなってすみません。本日気づきましたので。
古澤さんへ その話は初めて聞きました。それもよくできたお話ですね。でも、最初のNice toを言い忘れた可能性はありますから、これは起き得る展開ですね。朝のあいさつの
Good morningもネイティブの人は最初のGoodは「口の中」で発声するから、我々にはmorningしか聞こえない。そのVIPの方も「口の中」でNice toと言っていたのかもしれません。だとすると、かなりの英語の達人かもしれません?
あつこさんへ 同感です。私も恥ずかしい話、LとRを耳で明確に聞き分けることはできません。Rの言葉を発声するときは口をすぼめて発音するとLに間違われることは少ないようです。
めるすぎさんへ そうですね。ソマリアの話は私もとても感激しながら耳を傾けました。「大海の一滴」かもしれませんが、やがて大きな芽を出す可能性もあると今も思っています。 - めるすき 2010-08-31 (Tue) 10:04
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しっかり読ませていただいています。
他国のことであっても歴史は語り継いで
知ることは重要と思いますので。
コメントも入れて下さってますね。
ありがとうございます。