- 2011-03-13 (Sun) 22:35
- 総合
先週末、言葉にできないほどの大地震と津波が東北地方を襲った。いや、まだ終わってはいない。襲っている、と表現すべきだろう。悲しいのは、我々は発生3日目の今も被害の全容を知っていないということだ。最終的には死者・行方不明者の数はいかほどになるのか。私は金曜日の午後、外出先のテレビの生中継で宮城県・名取市の住宅街が津波に襲われるのを目にした時、最初に頭に浮かんだのは、この大地震の犠牲者は千人単位ではなく、何万人、何十万人単位に上るのではないかという肌寒い思いだった。
帰宅後、NHKテレビを見ていると、テレビ画面の左上に、新聞で言えば、見出しのようなところに、「死者1000人超」といった文言が見え、違和感を禁じえなかった。この巨大地震の死者が1000人単位で終わるわけがない。どうして、この巨大地震の死者がもっと凄い数に上るということを伝える努力(工夫)をしないのか。「死者1000人超」という数字を目にすれば、何となく、「あ、この地震(津波)、そうたいした被害はないのかな」と安心感さえ覚えてしまうのではないか。頭の片隅に、阪神大震災は確か、死者は6000人ぐらいだったはずだ。ずっと昔の関東大震災の死者・行方不明者は10万人だか15万人といったレベルだったのでは、と「計算」してしまうのだ。
このブログを書いている日曜午後には、NHKテレビは「不明者1万人超」と表現を修正した。かつて読売新聞社の英字新聞に勤務していたころ、海外で起きる地震や津波の災害に際し、苦い思いをしたことがある。海外の記事だとAPとかロイター通信のいわゆる外電記事を使用するのだが、時差の関係もあり、締め切り間際の「最新」の記事を利用しても、その時点で判明している死者の数は5人とか6人だったりすることがある。その死者数を見出しに使って、翌日になると、死者数が数千、数万人に膨らんでいたりすることがしばしばだった。だから、明らかに死者数が増えることは必至である場合、見出しにその時点で「使える」数字の使用は控えるようにした。
九州にいて、今回の巨大地震の進展を見ていると、複雑な気分にならざるを得ない。人的被害が最小限にとどまることを願うのは言うまでもない。ただ、それにしてもと思わざるを得ない。なぜ、かくも犠牲者が膨大な数にふくれたのか。私は1990年9月から2年間、読売新聞の盛岡支局(岩手県)に勤務していた。県政担当記者だったが、今回大きな被害が出た釜石や宮古市など三陸地方では大地震時の津波襲来にどう備えるかということが行政の大きなテーマだったことを記憶している。過去に何度も大きな津波被害に遭っているからだ。
報道を見る限り、最初の大きな地震発生後、津波の第一波がやって来るまで少なくとも30分前後の時間はあったようだ。今回の津波被害は、まるで巨人が大きな熊手でまだ事の重大さを認識していない住宅街の住民をごそっと海に引きずり込んだように見える。あれほど、津波の恐ろしさを知っていた三陸海岸の人々に一体何が起こったのだろう。災害訓練の「慣れ」でもあったのだろうか。