- 2010-08-03 (Tue) 20:18
- 総合
アフリカをさるく(歩くという宮崎方言)旅にいそしんでいるが、新聞記者(特派員)時代の悲しい性か、どうもまだ、何かにせきたてられているような感覚が抜けない。そうだ、それなら観光気分でも味わおうと、ラゴスから車で西に1時間ほど、ベナン共和国との国境沿いの町にタクシーを走らせた。
目指した町はバダグリ。ここに、かつての奴隷貿易時代の遺物が残っていると聞いたからだ。西アフリカのセネガルやガーナ、トーゴなどからは米大陸や西インド諸島に多くの黒人が奴隷として送り出されたことはよく知られているが、ナイジェリアのことはあまり知られていない。私もよく知らなかった。
着いたところは拍子抜けするほど何の変哲もない平屋の小さな小屋のような建物だった。外壁に大きな文字で「バダグリ奴隷遺物資料館」と書かれていなければ、通り過ぎるような建物だ。19世紀にこの一帯を支配した地元の有力者、チーフ・モベー(1893年没)を祭った建物でもあった。
案内してくれた若者が壁にかかっている大小さまざまなチェーンを手に説明してくれた。「これは奴隷の首にかけ、逃げられないようにしたものです。これは二人の人間の足をつなぎました。この扁平の小さな鉄の輪、何に使ったか想像できますか。奴隷がしゃべるのを阻止するため、口にかぶせ、上下の唇に留めがねを貫通させたのです・・・」
西アフリカからは1450年から1850年にかけて、少なくとも1,000万人の黒人奴隷が米大陸などに運ばれたと見られている。資料館の前は入り江になっており、この入り江から沖に浮かぶ奴隷船に向け多くの奴隷が小船に乗せられていったという。
前から疑問に思っていたことがある。奴隷貿易に手を染めたのはヨーロッパの列強だが、アフリカ側でもそれにより潤った地元の有力者や部族の人たちがいたことだ。同胞に対する裏切り。バダグリでは奴隷貿易に従事したのはポルトガル、スペイン、オランダの奴隷商人で、チーフ・モベーはその見返りに銃や酒、嗜好品などを手にした。チーフ・モベーの末裔は今も地元に住んでいるのだろうか。人々との関係はどうなのだろう?
この疑問をぶつけると、案内の若者が明確に答えてくれた。「何の問題もありません。チーフは奴隷貿易に手を染めましたが、ここで奴隷制度を廃止したのもチーフですから」。確かにチーフの生存中に、バダグリでの奴隷貿易は遅れてやってきた英国により禁止となった。若者と話をしていたら、大柄の青年がやってきて親しげに会話に加わった。若者は「彼はプリンスという名前です。チーフ・モベーの末裔です」と紹介してくれた。彼らの「懐」のなんと深いことよ!(写真は奴隷の自由を奪った数々のチェーン。これだけでも奴隷貿易の残忍さが分かる)
Comments:4
- ムツオ 2010-08-03 (Tue) 20:30
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面白いブログをありがとう。日本から応援しています。またゆっくりコメントします。
- ムツオ 2010-08-03 (Tue) 20:37
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ごめん。前のコメントに、〔面白いブログ〕と書いたけど、〔興味深いブログ〕に訂正します。奴隷貿易のことを書いてある記事に、〔面白い〕では罰当たりですから。申し訳ない。
- めるすき 2010-08-05 (Thu) 19:22
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歴史で習った「奴隷商人」
横行した時代が何百年も続いたのですね。
資料館がひっそりと?建てられていて、展示されているお写真のチェーンが那須さんの生情報だけに
なんとも言葉に上手く表す事ができません。
時代が過ぎても忘れてはならない事と思いました。 - あつ子@カナダ 2010-08-07 (Sat) 01:50
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省一さんの記事を読んでつくづく思います。どの国も、人の犠牲があって今があると・・。写真の生々しさに流れた歴史の残酷さが読み取れますね。今日は8月6日です。