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学校は木の下だった㊦

  • 2010-12-18 (Sat) 17:25
  • 総合

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 前回、スーダンは北部と南部が初めから一緒になるべきでないのに単一の国として独立させられたと書いた。それは以下の理由からだ。
 北部のアラブの民は歴史的に南部の黒人の村々を襲撃、奴隷の「供給地」としていた。欧州列強が奴隷貿易を始める前に、アラブの民は黒人を奴隷としていたのだ。南部の人々はスーダンが独立に向かって歩み始めた時、自分たちも協議の場に参画することを求めた。連邦制など南部としてのアイデンティティーを明確にする独立の道があるからだ。しかし、圧倒的力のある北部社会は南部の意向を無視して単一国家としての独立を選択。宗主国の英国とエジプトは南部の願いを汲み取ることはしなかった。
 私はウイリアム氏の話に耳を傾けながら、前々から聞きたいと思っていた別の素朴な疑問をぶつけた。
 「ケニアやナイジェリアなどでは独立後半世紀たっても未だにエスニック(民族・部族)的なしこりが国作りの足かせになっています。トライバリズム(部族主義)を悪用して権勢拡大を図る指導者さえいる。南部スーダンは大丈夫でしょうか」
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 「我々の社会ではそういう指摘は当たりません」とウイリアム氏は次のように解説した。
 「ここには他の多くのアフリカ諸国と同様、二つの系統の黒人が住んでいます。一つはナイロティックの人々で放牧住民です。もう一つはバンツーの人々で定住農業の住民です。ディンカ族、ヌエル族などナイロティックの人々は外見で分かるように、長身痩躯(そうく)が特徴です。我々南部スーダンの黒人はハルツーム政権が部族の分断を図ろうとする企みとも戦ってきました。これからも我々の和が乱れることはありませんよ」
 ウイリアム氏の言葉が現実を反映していることを願う。ただ、一部で早くも最大部族のディンカ族の人々が主要ポストを牛耳りつつあるとの懸念の声を耳にし始めている。
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 ジュバ空港には毎日、沢山の荷物を抱えた南部出身者が各地から帰還している。ジュバ空港と言っても、老朽化した平屋の建物で到着便の案内が片隅の古い黒板にチョークで走り書きされてる。ここがやがては一国の首都の国際空港となるのだ。皮肉っているのではない。それだけ、ここではこれからのインフラ整備が急がれるということを言いたいのだ。和平協定調停後に再開されたジュバ大学のキャンパスにも足を運んだが、施設はどこも老朽化しており、キャンパスのど真ん中に洗濯物を干した学生寮があり、学生たちは「水道から水が出ない。毎日水の確保が大変」と嘆いていた。
 ウイリアム氏が期待する「女子教育」を充実させる教師たちの大半はこのジュバ大学から輩出されていくはずだ。
 (写真は上から、学校から帰る途中の高校生の男女。学校も部族も異なるが、幼馴染とかで仲が良さそうだった。中心部の通りの側溝。ペットボトルのごみの山だった。これからの町作りの大変さがしのばれた。ジュバ大学のキャンパスの学生寮。洗濯物が干されている光景に、70年代に学生生活を送った私は懐かしささえ覚えた)

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