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学校は木の下だった㊤

  • 2010-12-17 (Fri) 06:39
  • 総合

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 今回の旅で最初に訪問したナイジェリアでもそうだったが、スーダンも初めから一緒になるべきでない南部地域が住民感情を無視され、宗主国から北部とともに単一の国として独立させられたのがこの国の悲劇を生んだ。スーダンの宗主国は英国とエジプトだった。
 「スーダンが独立したのは1956年。我々南部スーダンの住民は独立当初から北部の圧政に苦しんできました。南部を見てください。半世紀以上経過して満足なインフラ一つさえない」とウイリアム・ジャバカナ氏は語る。SPLAの政治組織、スーダン人民解放運動(SPLM)に身を投じ、銃ではなく、教育で南部スーダンの解放運動に従事してきた人物だ。
 1957年に南部スーダンのワオという地で生まれた。誕生した時、SPLAは存在しなかったが、南部住民は自治を求め、ハルツームのアラブ政権に対して武装闘争を始めており、自宅の近くでは銃弾が飛び交っていた。それで、両親は生まれた赤ん坊にジャバカナと命名した。彼らの言葉で「銃弾」を意味する。赤ん坊は後日、教会でウイリアムという洗礼名を受けるが、両親はジャバカナを赤ん坊の名字として残した。
 「私は恵まれていました。ジュバで高校を卒業した後、エジプト政府の奨学金を得て、カイロの大学で教育学を学ぶことができた。その後、英国で修士課程に進み、1987年それが終わるとエチオピアのアジスアベバに飛び、SPLMに加わりました」
 「この時の同志の多くは今、SPLAで偉くなっています。私は教師が天職です。南部を隷属的位置から解放するのは銃だけでなく、子供たちの教育だと当時考えました。それで、今回の和平が成立するまでずっと南部のブッシュ(茂み)に身を潜めながら、教師の育成、子供たちの教育に当たってきました。木の下が学校でしたから、アンダー・ア・トリー・スクール (Under a Tree School)と呼んでいました。命名が良かったのか、海外の多くの援助団体から支援を受けてやってこれました」
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 南部スーダンで政府軍の攻撃をかいくぐって教育活動に奔走する一方、ナイロビに家庭を築いた。子供は16歳から4歳まで4男1女。和平協定の調印を受け、2007年にジュバに戻り、今は和平協定で出来た南部スーダン自治政府の副大統領の下で働いている。
 「手がけたいのは女子教育の充実です。正直言って、南部スーダンでは女子教育はあまり重視されていません。地方の村々では女の子は13歳にでもなれば嫁に出し、持参金として新郎から牛の100頭を受け取る、その程度の存在として見なされています。我々の社会はこの点ではプリミティブ(原始的)です。だから、独立後は女子教育を積極的に推進していきたい。一人の女の子をしっかり教育することは国全体を豊かにすることだと私は思っています」
 (写真は上が、南部スーダンの国作りの希望を語るウイリアム氏。下が、中心部の露天のカフェで靴磨きで生活費を稼ぐストリートチルドレンの子供たち。カメラを向けると、サービス精神一杯のポーズを取ってくれた)

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