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ダーバン入り

  • 2010-11-20 (Sat) 06:39
  • 総合

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 ヨハネスブルクを立ち、ダーバンに入った。インド洋に面しており、南アではヨハネス、ケープタウンに次いで3番目に大きい都市だ。ズマ大統領の出身部族である南ア最大黒人勢力のズールー族が拠点とするクワズールー・ナタール州の中心都市でもある。
 ダーバンは海に面しているのでそれだけで、晴れ晴れとした思いを抱かせる都市だ。ホテルが並ぶ海岸通りはきれいに整備されており、早朝から地元の人や観光客が散歩やジョギングを楽しんでいる。私も到着した翌朝、6時過ぎに浜辺を歩いたが、波の荒い海で早くも泳ぐ人を見かけた。到着した日は曇っていて風も強く、少し肌寒かったが、次の日は南半球の南アが夏に向かっていることを確認できるほど暑い日差しだった
 ダーバンはインド系住民が多いことでも知られる。アパルトヘイト(人種隔離政策)時代には白人、黒人、カラード(混血)とは別に、エイジアン(アジア人)として区分けされた人々である。インド系の人々が南アにやって来て、今年が丁度150年の節目の年だという。「やって来た」というより、正確には「連れて来られた」というべきか。
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 1860年、当時南アを支配していた英国は主にサトウキビ農園で働く労働者をまかなうため同じく植民地支配していたインド亜大陸から多くの人々をここダーバンに送り込んだ。ケニアやウガンダなど東アフリカで鉄道を敷設するためにも多くの人々がインド亜大陸から送り込まれたのと同じ図式だ。東アフリカと異なるのはその後、インド系の人々はアパルトヘイト打倒に向け、アフリカ民族会議(ANC)の中で黒人やカラードの人々と共闘した歴史から、民主化後の現在の南アを支える一つの「柱」として遇され、ANC政権の中枢やビジネス、メディア、教育、医療などの分野で多くの人材を輩出していることだ。
 ダーバンはあのマハトマ・ガンディーが一時、住んでいた地でもある。1893年、英国で教育を受けた青年弁護士ガンディーはインド系会社に請われて南アに入国。列車の一等席の切符を購入していたにも関わらず、肌の色を理由に白人乗客から同席を拒否され、列車から追い出される。ガンディーはその後、ダーバン郊外に誰もが住める居住区を創設、インド系住民の権利向上に奔走するなど、南アに貴重な足跡を残し1915年に帰国する。世界各地の独立活動に大きな影響を与えた不服従運動もここで萌芽させる。
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 ガンディーが当時住んでいた居住区の家が民主化後の2000年に復元され、今はガンディーゆかりの地として訪問者に無料公開されている。案内担当者のボンガニ・ムテンブさん(38)は「ワールドカップもあったので今年は年間1万人の来訪者を記録しそう。社会正義を真摯に求めた彼の精神を多くの人々に知ってもらいたい」と語っていた。
 さて、そのダーバンでは再会を楽しみにしていた人物がいた。インド系のジャーナリスト、スブリー・ゴベンダー氏だ。1980年代末、この国で何度か取材をともにした。彼は南アを祖国と考え、誇りに思う南ア人だ。彼の目には南アの現状はどう映っているか。
 (写真は上から、ダーバンの海岸通り。マハトマ・ガンディーのゆかりの地に立つ彼の胸像。ガンディーの妻の名を取った真下の学校で学ぶ子供たち)

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