- 2010-11-17 (Wed) 06:18
- 総合
南アを取材で訪れるとよく行っていた場所がある。CBDに近いパークタウンという地区にある劇場、マーケットシアターだ。アパルトヘイト(人種隔離政策)時代の1980年代末、ヨハネスブルクで白人と黒人が舞台の上で、そして観客席や劇場内のレストランやバーで何の違和感もなく触れ合うことができる数少ない場だった。
マーケットシアターで私は遅ればせながらも、劇場に足を運び、ミュージカルやストレート・プレイ(straight play)と呼ばれる劇などを観る楽しみを身につけたような気もする。観客はやはり圧倒的に白人の方が多かった。87年の時期は忘れたが、ここで観た「サラフィナ」というミュージカルでは、黒人の男女の若者たちがアパルトヘイトの非道さを見事なダンスや歌で「告発」し、それを白人観客がじっと見つめていたことを思い出す。
マーケットシアターが誕生したのはその「サラフィナ」が描いた、黒人居住区のソウェトで若者たちがアパルトヘイトの教育に抗議した蜂起事件が起きた1976年のこと。この劇場から多くの名作が生まれ、その名を世界に知らしめた。だからこそ再訪を楽しみにしていたが、残念なことに、当時の熱気というか雰囲気は遠くうせていた。アパルトヘイトそのものが消滅したわけだから、それはそれで仕方のないことではあるが。開演を前に劇場内のレストランで食事をしていたら、ウエイターの一人が「最近はここも客の入りがぱっとしなくて寂しい。僕らは客のチップが頼りの商売だから」と嘆いていた。
地元紙で長くアートを担当してきた劇場専門記者のアドリアン・スィシェルさんにアパルトヘイト崩壊後のシアター事情を尋ねてみた。「黒人政権が出来て、政策も変わり、劇場に関わる人も変わり、風景はだいぶ様変わりしました。マーケットシアターはいい作品を創造しようとパイオニアのような人々が集った劇場だった。そういうスピリットはあそこにはもうありません」と彼女は語った。
「アパルトヘイト時代は政府が作家や俳優、ダンサーを支援し、彼らには年金も社会保険もあった。今はマーケットシアターなど劇場に対する支援はありますが、作家や俳優などに対する支援はなくなりました。大学や専門学校を出て演劇の道に進みたい若者はどうするか。テレビのメロドラマの世界に進むのが手っ取り早い方法です」
「それにこの国には昔はなかったものがあります。ギャンブルが認められたことです。今は多くのカジノがあります。そうしたカジノは劇場を併設しています。ヨハネス郊外にあるモンテカシノに一度行ってごらんなさい。今は『マンマ・ミーア』というミュージカルをやっているはずです。キャストは全員南ア人で、素晴らしい作品ですよ」
南アの劇場の風景が様変わりしても、そのレベルの高さは今も昔も変わらない。アドリアンさんによると、毎年7月に南部のグラハムズタウンで催される恒例のアーツフェスティバルは英国のエディンバラ・フェスティバルに匹敵する文化の祭典だという。
(写真は上から、マーケットシアター。この外観は変わりがない。開演のベルで劇場に向かう観客。近くで見かけたビルの外壁に描かれた壁画。この一帯はアートの「香り」が漂う)
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