- 2010-11-14 (Sun) 04:13
- 総合
「ナス、あんたはモファットがロベン島にいたことを知っているんだろ」とズング夫人は昔の写真や新聞記事を見せながら話をしてくれた。「いや、知りませんよ」
「そうかい。あの人はそういうことは人に話さない人だったからね。私自身も獄中で経験したこと、拷問のことなど、思い出したくもないからね」
ズング夫人が語ったくれた話によると・・・。二人は結婚前から反アパルトヘイト(人種隔離政策)のパン・アフリカニスト会議(PAC)という組織に属していた。1976年にソウェト蜂起が起き、国内が騒乱状態に陥った時、モファットは勤務していた黒人読者が対象の「ワールド」紙(現ソウェタン)のカメラマンとして活躍、アパルトヘイトのむごさを黒人若者と警察や軍の衝突の現場から欧米に報じていた。夫人は国内の若者をスワジランドなど周辺国に送り込み、PACの武闘部門の要員を育てることを担っていた。PACは現政権党のアフリカ民族会議(ANC)と袂を分かったグループだ。
1977年、警察に捕まった仲間の自供から夫人は警察に連行される。モファットは夫人の逮捕を知った新聞社の上司から「車を用意した。すぐに国外に逃げろ」と勧められるが、「妻を置いて逃げるわけにはいかない」と警察に自首する。モファットは79年にテロリズム法違反で7年間の懲役刑を受け、ロベン島に送られる。ズング夫人はほぼ1年後に釈放されるものの、その後も2回、投獄される。「私たちには2人娘がいて、私たちも大変だったが、娘たちの精神的苦しみも相当だったと思うわ」
モファットは86年に釈放され、以前に勤めていた新聞社のカメラマンとして復帰する。彼が私に語った「俺たちは十分苦しんだ。近所の人たちはそれを知っている」とはそういうことだったのだ。
ズング夫人に改めてモファットの年齢を尋ねた。彼は1936年1月生まれ。前立腺がんで5年前に死亡した時は69歳だった。夫人は43年2月生まれで67歳。
「モファットはアパルトヘイト崩壊後の黒人政権をどう見ていましたか?」
「そうね。少しがっかりしていたわね。だって、アパルトヘイト時代と変わらず悲惨な生活を余儀なくされている人たちが変わらずいるのよ。政権上層部の腐敗はすさまじいものがあるし。ソウェトの若者もほとんどが仕事がないのよ。私は今ここで恵まれない人たちのため野菜を栽培するプロジェクトを手がけているのだけど、政府からの支援は全くない。アパルトヘイト時代は海外からの支援があってよっぽど良かったわね」
こんなものがあるのよと夫人が私にリーフレットを手渡してくれた。南ア民主化の貢献者(故人)を顕彰する民間の制度が今年からスタートしたのだという。来年の表彰予定者17人の中に、モファット・ズングの名前が輝いて見えた。
(写真は上から、モファットが7年の懲役刑を受けたことを示す判決証明書。夫人は今も財布の中にしまっていた。モファットの逮捕を報じる当時の新聞記事。近くを散歩していたら、違法のさいころ賭博に興じる若者たちを見かけた。彼らのほとんどが無職だった)
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